ウマイヤ朝(読み)ウマイヤちょう(英語表記)Umayya

精選版 日本国語大辞典 「ウマイヤ朝」の意味・読み・例文・類語

ウマイヤ‐ちょう ‥テウ【ウマイヤ朝】

(ウマイヤはUmayya) イスラム王朝の一つ。前ウマイヤ朝(六六一‐七五〇)と後ウマイヤ朝(七五六‐一〇三一)がある。オンマヤ朝。ウマイア朝。
[一] 前ウマイヤ朝。ウマイヤ家出身のムアウィヤダマスカスを都として開いた。七五〇年一四代のときアッバース家に滅ぼされる。
[二] 後ウマイヤ朝。ウマイヤ朝の滅亡後、その一族アブドゥル=ラフマーン一世が七五六年コルドバ首都として再興し、イベリア半島に威をふるった。一〇三一年滅亡。

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デジタル大辞泉 「ウマイヤ朝」の意味・読み・例文・類語

ウマイヤ‐ちょう〔‐テウ〕【ウマイヤ朝】

Umayya》イスラム王朝の一。ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世が、ダマスカスを首都として建てた最初のイスラム・カリフ王朝(661~750)。14代続いたが、アッバース朝に倒された。のち、イベリア半島に逃れたアブドゥル=ラフマーン1世がコルドバを首都としてウマイヤ朝を再興。これをこうウマイヤ朝(756~1031)という。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウマイヤ朝」の意味・わかりやすい解説

ウマイヤ朝
うまいやちょう
Umayya

メッカのクライシュ人、ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世がダマスカスを首都として建設したイスラム王朝(661~750)。14代のカリフのすべてがウマイヤ家(初めの3人はスフヤーン家、あとの11人はマルワーン家)出身であったので、それが王朝名となった。

 第一次内乱(656~661)というイスラム国家分裂を再統一したムアーウィヤ1世は、同朝の国家目標をイスラム社会の国家的統一とイスラム世界の拡大に定め、その基盤をアラブの民族的連帯に求めた。征服者アラブ諸部族民は、クーファバスラ、フスタートなどの軍事都市(ミスル)に軍人ムカーティラ)として常駐し、拡大戦争に従事しつつ、支配者集団として非アラブ諸民族に君臨していた。一方、被支配者非アラブは、広大な征服地に散在していたが、商工業に従事する者以外はほとんど農民で、村落共同体ごとに一括して租税(ジズヤあるいはハラージュ)を取り立てられ、そのかわり信教の自由は保証されていた。彼らのなかには租税負担を免れようとしてイスラム教に改宗する者(マワーリー)がいたが、租税の免除は認められなかった。このように、同朝の下でアラブ・ムスリムは排他的特権を社会の至る所で享受していた。そのため同朝は「アラブ帝国」ともよばれる。

 また社会の国家的統一が優先されたため、前代の正統カリフ時代とは相対的に異なって、同朝下で政治権力の維持、強化がなされ、それがしばしばイスラムの理念と抵触した。たとえば、カリフ位のウマイヤ家による独占や、ムアーウィヤ1世による実子ヤズィード1世へのカリフ位継承がそれである。このような点から、とくにシーア派がそうであるが、後世のムスリムやムスリム法学者、政治思想家のなかには、同朝は真のイスラム国家から逸脱した世俗、王朝国家(ムルク)とよぶ者が多い。

 680年フサインのカルバラーでの惨死、683年ヤズィード1世の死によって、同朝は存亡の危機に瀕(ひん)した。これを第二次内乱(683~692)という。アブドゥル・マリクは内乱を終結させ、国家の中央集権化、アラブ化に努めた。その結果、次のワリード1世の時代に征服運動も再開され、同朝は黄金時代を迎えた。しかし、以後、前代から続いていた政府とアラブ・ムカーティラの対立、アラブ・ムカーティラ間の部族的党派心による反目、反ウマイヤ朝運動としてのシーア派やハワーリジュ派の散発的蜂起(ほうき)、マワーリーの不満、ウマイヤ家内部の派閥抗争などが相関しあい、同朝の支配体制はしだいに緩んだ。ウマル2世やヒシャームの国家再建策もすでに遅く、同朝は崩壊への道を進んだ。

 747年アッバース家の宣伝員(ダーイー)アブー・ムスリムはホラサーンのメルブで挙兵し、749年サッファーフ(アッバース朝創始者)はクーファでカリフを宣言した。750年マルワーン2世が逃亡先の上エジプトで殺害され、ウマイヤ朝は滅亡した。ヒシャームの孫のアブドゥル・ラフマーン1世は、アッバース朝の追っ手を逃れ、756年コルドバでウマイヤ朝を再興した(後(こう)ウマイヤ朝)。

 ウマイヤ朝の国家体制は本質的に拡大のための軍事体制であり、支配機構も単純で、多分に地方分権的であった。対外戦争が継続された結果、同朝の支配した領域の広さは、単独政権としてはイスラム史上第一で、西はピレネー山脈から、東は中央アジア、西北インドに及んでいた。ビザンティン帝国とは恒常的な戦闘状態にあり、コンスタンティノープルへの再三の遠征も試みられた(677~679、717、718)が、両国間の通商は絶えることなく続いていた。

 この時代はイスラム文化の揺籃(ようらん)期で、法学、伝承学、歴史学などのイスラムの諸学問が生まれた。詩のほかにさしたる文化的伝統のなかったアラブは、征服地の先進文化を積極的に受容し、それをイスラム的に再生した。それを象徴するのが、エルサレムの「岩のドーム」、ダマスカスの「ウマイヤ・モスク」、ムシャッターの城などである。

[花田宇秋]

『嶋田襄平著『イスラム国家と社会』(1977・岩波書店)』


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百科事典マイペディア 「ウマイヤ朝」の意味・わかりやすい解説

ウマイヤ朝【ウマイヤちょう】

オンマヤ朝とも。アラブによる初期イスラム王朝。前ウマイヤ朝(661年―750年)とその後身である後ウマイヤ朝(756年―1031年)の総称としても使われるが,ふつうは前者をさす。前ウマイヤ朝はメッカの商業貴族ウマイヤUmayya家出身のムアーウィヤが,4代目カリフアリーから権力を奪取して創始した。首都ダマスカス,14代存続。それまでの正統カリフ朝と異なり,ウマイヤ家がカリフを独占した。版図はスペイン,北アフリカから中央アジアに及び,アラブの最盛期を現出。しかし内乱が続き,アッバース朝に滅ぼされた。後ウマイヤ朝はスペインにのがれたアブド・アッラフマーンが再興。首都コルドバ,24代存続。西欧社会と接触し,イスラム文化の伝達者となった。
→関連項目アクサー・モスクアムラ城アラビア半島アンジャールカイラワーンコルドバ(スペイン)スペインフサイン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ウマイヤ朝」の解説

ウマイヤ朝(ウマイヤちょう)
Umayya

661~750

アラブの建設したイスラーム王朝。首都はダマスクス。建設者ムアーウィヤ以下,全カリフクライシュ族のウマイヤ家に属していたところから,この名がある。8世紀の初めが黄金時代で,クタイバ・ブン・ムスリムムハンマド・ブン・アルカーシムが東方に遠征し,西方ではムーサー・ブン・ヌサイルがイベリア半島を征服した。トゥール‐ポワティエ間の戦いのあった732年は,ウマイヤ朝の版図が最大限に達した年であった。アラブ遊牧部族同士の対立と,ムスリムとなった異民族の不満が原因で,政権をアッバース朝に奪われた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウマイヤ朝」の意味・わかりやすい解説

ウマイヤ朝
ウマイヤちょう
Umayyad; Umayya

初期イスラム国家の名称。預言者ムハンマドの死後,4代のカリフが推されて続いたあと,ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世 (在位 661~680) がカリフの位につき,生前に息子ヤジード (在位 680~683) を次期カリフに指名した。この指名が前例となり,以後代々のカリフが次期カリフを指名し,ウマイヤ家がカリフ位を 14代にわたって独占した。この期間をウマイヤ朝 (661~750) と呼ぶ。アッバース家 (→アッバース朝 ) による革命ののち,ウマイヤ家一族は虐殺されたが,わずかに難を逃れたアブドゥル・ラフマーン1世がスペインで政権を樹立した。これをアンダルシアのウマイヤ朝 (または後ウマイヤ朝〈756~1031〉) と呼ぶ。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ウマイヤ朝」の解説

ウマイヤ朝
ウマイヤちょう
Umayya

ムアーウィアが開いたイスラーム王朝(661〜750)
クライシュ部族の名門ウマイヤ家のムアーウィアが第4代正統カリフのアリーの死後カリフ権を奪って樹立。シリアのダマスクスを首都とし,14代90年間続いた。カリフの選挙制を廃して世襲制とし,東西に征服事業を進め,中央アジアからスペイン,一時は中部フランスまで進出した。7世紀末アブド=アルマリクのとき,諸制度が整備され,最盛期を迎えた。アラビア人至上主義が強化され,非アラブのイスラーム教徒は差別待遇を受け,アラビア語が公用語となった。そのためウマイヤ朝は,別名アラブ帝国とも呼ばれる。被征服民の反抗運動が激化し,750年アッバース家に滅ぼされた。スペインに逃れた一族により再興された後 (こう) ウマイヤ朝は,10世紀に最も栄えたが,内乱により1031年滅亡した。

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世界大百科事典 第2版 「ウマイヤ朝」の意味・わかりやすい解説

ウマイヤちょう【ウマイヤ朝 Umayya】

ウマイヤ家のムアーウィヤ1世がダマスクスを首都として建設したイスラム王朝(図)。661‐750年。14代のカリフのすべてがウマイヤ家出身者(最初の3代はスフヤーンSufyān家,以後の11代はマルワーン家)であったのでこの名がある。同朝はアラブの征服によって成立し,その政策はイスラム社会の国家的統一の護持とイスラムの政治的領域の拡大を目標とし,結果としてアラブの異民族支配と,彼らの排他的特権が許容されていた。

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世界大百科事典内のウマイヤ朝の言及

【後ウマイヤ朝】より

…イベリア半島における最大・最長のイスラム王朝で,同地のイスラム化に最も貢献した。756‐1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。…

【イスラム美術】より

…初期の浴場は,古代ローマの形式(脱衣室,高・微・低温浴室)を踏襲したが,一般には浴槽のない蒸しぶろで,そのプランは多様である。市[イスラム]風呂[イスラム]
[歴史]
 (1)初期 ウマイヤ朝(661‐750)の建築遺構の大半は,シリア,パレスティナに残存している。モスクの基本的な形は,ほぼこの時代に固まり,三方をアーケードで囲んだ中庭と礼拝堂からなる多柱式が特にアラブ諸国にひろまった。…

【シリア】より

…ヘレニズム時代以来ペトラを中心に王国を築いたナバテア人もアラブ系であったが,そのほかにもシリア各地にアラブ系の諸部族が割拠していたことは確かであり,これはイスラムの膨張の一つの前提条件であった。パルミュラ滅亡ののち,シリアの地はビザンティン帝国の支配(395以降)を経て,7世紀にはアラブの支配下に入ったが,とくにウマイヤ朝時代にはダマスクスが首都となったため,一段とアラブ化・イスラム化が進むことになった。シリア・カナン神話メソポタミア【小川 英雄】
【ビザンティン帝国時代】
 ビザンティン帝国はシリアを七つの行政区に分けて支配した。…

【ディーワーン】より

…最初に用いられたのは640年,第2代カリフ,ウマル1世の時で,ムハンマドの妻を含むイスラム教団の有力者やアラブ戦士(ムカーティラ)たちに対する俸給(アターリズク)支給のための登録簿としてであったが,やがてそうした事務を取り扱う役所をも意味するようになった。ウマイヤ朝(661‐750)になると中央政府の業務も増え,租税徴収を担当する税務庁,カリフの文書を作成する文書庁,文書の封緘を行う印璽庁,戦士の登録と俸給の支給事務を担当する軍務庁,全国の駅逓を統括する駅逓庁などが設けられた。アッバース朝(750‐1258)ではウマイヤ朝末期以来の中央集権化がいっそう強められ,官僚機構が膨張し,分業化が進んで,ディーワーンの数も増加,それも状況に応じて臨機に改廃された。…

※「ウマイヤ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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