百科事典マイペディア 「エドワード[1世]」の意味・わかりやすい解説
エドワード[1世]【エドワード】
→関連項目ウォーレス|エドワード[2世]|ブルース
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…また,ガイヤール城の陥落(1209)が天守の孤立に起因したという経験から,クーシーCoucy城(1225‐40ころ)のように,直径32m,高さ51mという巨大な円筒形天守を城郭の最前面に突出させるという斬新な設計が現れた。 イングランド王エドワード1世(在位1272‐1307)は1283年以降,ウェールズ征服のため多数の城郭を建造したが,これらは〈エドワード式集中型城郭〉と呼ばれ,円塔をつけた二重の城壁で同心状に囲む特色をもち,そのなかでも代表的なハーレックHarlech城(1285ころ‐90)とボーマリスBeaumaris城(1295‐1323)では,高い内城壁を低い外城壁で囲み,整然とした対称形平面であるが,天守はなく,その代りに,それだけで独立した要塞となりうる巨大な城門を内城壁から突出して設けた。これは,城郭は直接的な攻撃によるよりも,謀略や内部からの謀反で陥落することが多いことに配慮し,城門や円塔の独立性を重んじた結果である。…
…このとき,国王ケニス・マカルピンがエティブ湖畔の城から戴冠用玉座をここに移し,以後〈スクーンの石(運命の石)〉と呼ばれて1651年のチャールズ2世に至るまでスコットランド王の戴冠場所となった。しかし石自体は1296年にエドワード1世がウェストミンスター・アベーへ運び去った。【長谷川 孝治】。…
…別にアンジューAnjou朝ともいう。イングランド中世のほぼ全時代を支配したが,14世紀初頭のエドワード1世の治世の終りをもって前期と後期に分けられる。
[前期]
プランタジネット朝はスティーブン王の内乱時代の後をうけてヘンリー2世(在位1154‐89)の即位とともに始まるが,彼は父方よりアンジュー,メーヌ,トゥーレーヌを,母方よりノルマンディーを,また王妃エレアノール(もとフランスのルイ7世の王妃)よりアキテーヌを得て広大な〈アンジュー帝国〉の主君たる地位を占めた。…
…王は都市の入口で市長から,その都市の鍵を捧げられ,それをまた市長へ返すという儀式がよく行われるが,これはページェントが王と都市との和解の祝いであることを示している。1298年,エドワード1世の戦勝を祝ってロンドンの魚屋が催した祝祭が最初のページェントといわれている。 16世紀のヨーロッパではとくにページェントが盛んであった。…
※「エドワード[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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