J.J.ルソーの教育論で,人間論の地平からの旧体制批判の書でもある。1762年に刊行されるとすぐにパリ高等法院に摘発された。当時,民衆は抑圧のもとにあり,子どもは〈小さなおとな〉でしかなかった。〈人は子どもというものを知らない〉,教育を考えるためには子どもが何であるかを研究することから始めなければならない,として,孤児エミールに託して自然の歩みに従う教育のあり方を追求した本書は,子どもの発見の書であり,子どもの権利の宣伝の書といわれる。
人間は弱いものとして生まれる。しかしその弱さは,可塑性を,発達の可能性をこそ意味するのであり,人類を類として存続させその歴史と文化を発展させたものは,子どもの弱さ,しなやかさのなかに秘められている。生きることは学ぶことであり,発達の可能性は学習と教育の可能性にほかならない。ルソーは,子どもからおとなへの発達の段階を,子ども期enfance,青年期adolescence,成人adulteに分け,子ども期をさらに三つの時期(0~1歳,~12歳,~15歳)に区切り,第1編から第3編をこの段階に当て,15歳からの青年期以後を第4編,第5編で叙述している。それぞれの段階での発達の過程と発達段階の特徴が生き生きと描かれ,発達心理学の先駆的知見にみちている。
本書はまた,人間発達の弁証法に対する鋭い洞察にみち,人間的諸能力の全面的発達を追求している。〈体の訓練と精神の訓練とが,いつもたがいに疲れをいやすものとなるようにすること〉が教育の秘訣であり,その理想とする人間像は〈農夫のように働き哲学者のように思索する人間〉におかれていた。この人間の教育を経て,青年期以後,新しい社会を支えるシトワイヤン(市民)の形成が課題となる。これはそのまま《社会契約論》の課題に通じていた。
ルソーの教育思想はペスタロッチやフレーベルに,さらには20世紀における国際新教育の思想と運動に大きな影響を与えた。日本においても,すでに明治啓蒙期にその紹介があり,大正期の自由教育運動にも影響を与えた。
執筆者:堀尾 輝久
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フランスの思想家、小説家ジャン・ジャック・ルソーの作品。副題「教育について」が示すように、ルソーの教育論と考えられているが、もっと広く、ルソーの人間観、社会観を全面的に展開した代表作の一つ。1762年刊。作品は5編からなり、第1編は5、6歳まで、第2編は12歳まで、第3編は15歳まで、第4編は20歳まで、第5編は結婚まで。主人公エミールの誕生から結婚までを通して、人間のもって生まれた資質を保ちながら、それぞれの時期の身体と知性と心の発達の調和を図り、社会生活に備え、幸福な人生を追求する。第4編には「サボワ助任司祭の信仰告白」が含まれている。これは、自然の調和と美を根拠とする道徳、宗教論であり、一種の理神論が展開されている。その内容は、当時のカトリック、プロテスタント教会の教義と相いれず、作品が禁書の処分を受ける原因となった。また第5編には女性教育論があり、女性は子供を育て、家を守るべきだという、19世紀以降の主流を占める女性観が述べられており、ルソーはその源流に位置している。『エミール』は、日本でも明治以来多くの影響を教育界に及ぼしてきている。
[原 好男]
『今野一雄訳『エミール』全3冊(岩波文庫)』▽『吉沢昇・為本六花治・堀尾輝久著『ルソー、エミール入門』(1978・有斐閣新書)』▽『篠崎徳太郎著『ルソー、エミール 教育講義』全8巻(1977・土屋書店)』▽『沼田裕之著『ルソーの人間観、「エミール」での人間と市民の対話』(1980・風間書房)』
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…アラビア語で〈司令官〉〈総督〉を意味し,転じてイスラム世界で支配者や王族の称号としても使われた。のちにペルシア語やトルコ語(エミールemīr)でも用いられた。はじめはイスラム教徒の集団の長に対して使われた。…
…人間にとって自由・平等が重要であると自覚した近代市民革命では,精神の自由を獲得するうえで教育は権利として重視され,その自由にとって学校という集団で行う教育はなじまないと考えられた。しかし,ルソーの《エミール》に書かれている家庭教師による一対一の教育はあまりに特権的であり,現実的でないことは明白であった。そこで公費による平等の学校教育が構想されるようになる。…
… これに対し〈教育学〉の語は,18世紀後半,とくにカントが講義題目に使用することによって定着した。カントはルソーの《エミール》に刺激され,人間は教育によって初めて人間になるとし,人間性の可能性の実現を探究した。ここでは教授の方法を意識しながらも,実現すべき価値の追求に力点がおかれた。…
…木綿やウールなど耐久性,伸縮性,吸汗性のある布が使われ,身体が自由に動かせ,着脱の容易な形が選ばれる。子ども服が大人の衣服と区別されるようになったのは19世紀半ば以降で,ルソーの《エミール》を契機として,子どもの生活と人権が社会的に認識されてからである。ルソーは当時の乳児の包帯状のおくるみ(スワドリングswaddling)と,大人を模倣した服装は,発育期の子どもの精神と肉体の成長を妨げると指摘し,子ども独自の服装を提唱した。…
…その思想的源流はJ.J.ルソーに,実践的源流はJ.H.ペスタロッチに求めることができる。すなわち,ルソーは《エミール》(1762)で,当時のフランスの特権階級の教育がいかに人間の自然の発達をゆがめているかをするどく告発し,大地の上で額に汗して働く農民の生活こそが教育的機能を果たしている,と指摘し,〈農夫のように働き哲学者のように思索する〉人間の育成を教育の目標として示した。またペスタロッチも,労働が人間をつくるという事実を重視し,〈生活が陶冶する〉教育のあり方を追求した。…
※「エミール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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