オレンジ自由国(読み)オレンジジユウコク(英語表記)Orange Free State

デジタル大辞泉 「オレンジ自由国」の意味・読み・例文・類語

オレンジ‐じゆうこく〔‐ジイウコク〕【オレンジ自由国】

Orange Free State》1854年、ボーア人南アフリカ北東部、オレンジ川上流に建てた国。首都ブルームフォンティーン。ダイヤモンド鉱の発見後、英国圧迫を受け、南ア戦争結果、英国に編入、1910年の南アフリカ連邦成立後はその一州となった。

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精選版 日本国語大辞典 「オレンジ自由国」の意味・読み・例文・類語

オレンジ‐じゆうこく‥ジイウコク【オレンジ自由国】

  1. ( Orange Free State の訳語 ) 一八五四年から一九〇二年まで、南アフリカにあったボーア人の国家ケープ植民地イギリス支配されて追われたオランダ系のボーア人が、オレンジ、バール両河間に建国ボーア戦争英領に編入された。現在は南アフリカ共和国の一州。

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改訂新版 世界大百科事典 「オレンジ自由国」の意味・わかりやすい解説

オレンジ自由国 (オレンジじゆうこく)
Orange Free State

1854年,ボーア人が現在の南アフリカ共和国内に建てた国。1814年のイギリスのケープ植民地支配に反対したボーア人は,36年A.H.ポトヒーターに率いられ,北方への移動を開始し(グレート・トレック),途中ヌデベレ族と戦いながら,バール川とオレンジ川の北方に定着した。当時イギリスは財政的負担のかかる植民地外の支配をあきらめ,54年ブルームフォンテーン協定によって,ボーア人の自治国オレンジ自由国の建国を許した。自由国はアメリカおよびオランダの制度にならい,行政府として大統領および行政審議会,立法府としてフォルクスラート,それに司法府の三権分立制を導入し,首都はブルームフォンテーンに置いた。初代大統領J.H.ホフマン(在任1854-55)から第4代J.H.ブランド(在任1864-88)にかけ,隣接するバストランド併合を画策したが失敗し,84年バストランドは正式にイギリス保護領となった。

 1867年西グリカランドでダイヤモンドが発見されたが,グリカ族のウォーターボーア首長はその所有権を主張し,イギリスに保護を求めたため,71年イギリスは同地域を占領した。ついでM.T.スタイン大統領期(1896-1900)にはボーア戦争が起こり,トランスバール共和国と軍事同盟を結んでイギリス軍と戦ったが敗れ,1900年5月から10年5月までオレンジ・リバー植民地としてイギリスに併合された。10年5月の南アフリカ連邦の成立とともに,この地域はオレンジ自由州として連邦の一州に組み入れられた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オレンジ自由国」の解説

オレンジ自由国(オレンジじゆうこく)
Orange Free State

1854~1900

南アフリカのオレンジ,ヴァール両川間に,ブール人が,イギリスに抵抗して建てた国。南アフリカ戦争で,同じくオランダ系の姉妹国トランスヴァール共和国とともにイギリスと戦って敗北し,1910年南アフリカ連邦発足の際にオレンジ自由州となった。95年自由州と改名された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「オレンジ自由国」の解説

オレンジ自由国
オレンジじゆうこく
Orange Free State

1854〜1902
南アフリカのブーア(ボーア)人の建てた国
イギリス領ケープ植民地の成立に伴い,同地を追われたブーア人が北に移ってトランスヴァール共和国とともに建国。1870年に世界有数のダイヤモンド鉱山が発見されると,イギリスの介入が強まり,1899年からの南ア(ブーア)戦争に敗れ,1902年イギリスに併合された。1910年には南アフリカ連邦の1州となった。

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