改訂新版 世界大百科事典 「オーストリアトルコ戦争」の意味・わかりやすい解説
オーストリア・トルコ戦争 (オーストリアトルコせんそう)
16世紀初めから18世紀末まで断続的に行われた両国間の武力衝突の総称。オスマン帝国は15世紀にバルカン半島を征服したのち,フランス,イギリス等にカピチュレーションをあたえることによりヨーロッパ諸国と外交関係を結んだが,オーストリアとロシアにたいしてはそのような関係をもたず,武力による紛争解決の方法がとられた。オスマン帝国の中部ヨーロッパへの攻撃は,スレイマン1世の治世に始まる。1世紀以上にわたりトルコ軍の北進をはばんできたハンガリーの弱体化,神聖ローマ皇帝と争っていたフランス王フランソア1世の支援要請によって,スルタンはハンガリーへ遠征し,1526年モハーチの戦で大勝した。そのさいハンガリー王ラーヨシュ2世の戦死によって王位継承問題が生じ,中小貴族はサポヤイ・ヤーノシュを国王に戴いたが,ハプスブルク家世襲領地を継承するボヘミアの王フェルディナントは,別個に議会を召集し大貴族の支持をえてハンガリー王位についた。両王の対立するなかサポヤイがスレイマン1世の援助を求めたことから,以後1世紀半にわたるオスマン帝国とハプスブルク家のハンガリーをめぐる抗争が始まった。ここでのスルタンの動向は,当時ヨーロッパ国際政治の焦点だった神聖ローマ帝国とフランスの抗争,宗教改革派と反宗教改革派の対立にも重大な影響を及ぼした。軍事的に優勢だったオスマン帝国は,1533年および47年の講和条約でハンガリーを三分割して,西部および北西部はハプスブルク家,中央部はオスマン帝国のパシャ,東部はスルタンの宗主権を認めるトランシルバニア公が統治することになったが,さらにオスマン帝国による全ハンガリー制圧を象徴する年金支払いの義務がオーストリアに課せられた。スレイマン1世はシゲトバール陥落を目前にして急逝したが,68年の条約でもハンガリー三分割は再確認され,いわゆる〈オスマンの平和〉はヨーロッパではハンガリーまでを含むオスマンの支配秩序を意味し,神聖ローマ帝国皇帝にたいしてもスルタンは皇帝の称号をもちいずに国王と呼んでいた。
17世紀の西ヨーロッパにおける政治的軍事的発展は両者の形勢を逆転させた。1606年の条約では領土関係に変更は加えられなかったが,年金支払いの義務は廃止された。トルコの軍事的劣勢を決定的にしたのは83年のウィーン攻囲失敗後で,サボイ公オイゲン指揮のオーストリア軍は南進してティサ河畔のゼンタの戦で大勝利をはくし,カルロビツ条約でついにオスマン帝国はハンガリー,トランシルバニアを放棄した。政治的には84年オーストリア,ポーランド,ベネチアによる対トルコ神聖同盟が結成され,87年にはロシアがこれに加わり,さらに英仏の利害もからんで,戦争のたびにトルコ領分割の方式がヨーロッパ外交の重要問題になった。ゼンタの大勝後,オーストリアはバルカンのキリスト教徒から解放の期待をよせられるが,セルビア,ボスニアなどのギリシア正教徒にたいし差別的政策をとり,一方18世紀後半におけるロシアの台頭,とくに1774年のキュチュク・カイナルジャ条約によって,黒海におけるトルコの商業的独占権を覆し,バルカンのギリシア正教徒の保護権を獲得したロシアが,以後バルカンにおける主導権を握ることになる。
→露土戦争
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報