オーストリア社会民主党
オーストリアしゃかいみんしゅとう
Sozialdemokratische Partei Österreichs
オーストリア国民党と並ぶオーストリア二大政党の1つ。 1889年 V.アドラーによって創設された。第1共和国時代にはボルシェビズムと改良主義の中間を目指す政策をとり,ウィーンで圧倒的な支持を得ていた。 1920年以降キリスト教社会党と鋭く対立。 33年首相に就任した E.ドルフスの弾圧に抗し,34年2月に武装蜂起したが,4日後に非合法化され,指導者の多くは国外に逃れた。第2次世界大戦後,オーストリア社会党と名称を変更。 45年 11月の総選挙で第2党につき,以後国民党との連立政権を長く維持したが,66年の総選挙で国民党に過半数を奪われ野党になった。しかし 70年3月の総選挙で戦後初めて第1党となり,B.クライスキーを首相とする単独政権を樹立した。クライスキー政権は 71,75,79年の総選挙で小差ながら絶対多数を占めた。積極中立外交政策を推進。 83年選挙で過半数を割り,第3党である自由党と連合政権を形成した。 86年選挙ではフラニツキ首相が 17年ぶりに国民党との大連合政権を樹立。 90年総選挙から党名を社会民主党に戻し,第3次フラニツキ内閣を組閣。 94年 10月,95年 12月の総選挙でも第1党の地位を守り国民党との大連立を継続した。しかし,96年のヨーロッパ議会選挙では自由党に敗れ,97年1月フラニツキ首相が辞任,後任には V.クリマ蔵相が就任した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
オーストリア社会民主党(オーストリアしゃかいみんしゅとう)
Sozialdemokratische Arbeiterpartei in Österreich
正式には社会民主労働者党。V.アードラーの指導のもとに社会主義諸派が1888~89年に合同して創立。マルクス主義的なハインフェルト綱領を採択。初めから民族問題に直面,99年ブリュン大会で民族綱領を採択したが,ドイツ人,チェコ人などの民族別組織の分立は防げなかった。そうした経験から独自のオーストリア・マルクス主義が育った。第一次世界大戦後の共和国では,初代の大統領と首相(レンナー)を出し民主化を進めたが,1934年,時の反動政府に解散させられ,やがてナチス支配時代を迎えた。第二次世界大戦後は社会党と改称,穏健な改革路線をとり,91年社会民主党に再改称。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
百科事典マイペディア
「オーストリア社会民主党」の意味・わかりやすい解説
オーストリア社会民主党【オーストリアしゃかいみんしゅとう】
アードラーViktor Adlerの指導で1889年に社会民主労働党として創立。オーストリア帝国では内部の民族問題に直面し,ドイツ人やチェコ人の民族別組織が分立し,独自なオーストリア・マルクス主義が育った。第1次大戦後は共和国初代大統領,首相を出し,1934年ナチスにより解散させられたが,1945年オーストリア社会党として再建,わずかの期間を除いて与党であり,1991年オーストリア社会民主党と改称。
→関連項目バウアー
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版
「オーストリア社会民主党」の意味・わかりやすい解説
オーストリアしゃかいみんしゅとう【オーストリア社会民主党】
オーストリアの政党。正称は,オーストリア社会民主労働党Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs。1888年12月30日から翌年1月1日にかけてハインフェルトの党大会で創立された。この党大会でV.アードラーは,急進的社会主義的グループと穏健的グループとを統一した。党大会で決定されたハインフェルト綱領は,労働者を経済的従属,政治的無権利状態から解放すること,労働手段の社会化,労働者保護立法の制定,8時間労働制の実施,選挙法の改革などを要求していた(創立時の党員数1万5000)。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報