エジプト・アラブ共和国の首都。人口679万(2000)。アラビア語ではカーヒラal-Qāhiraで,〈勝利者〉の意。ミスル・アルカーヒラMiṣr al-Qāhiraあるいは単にミスルMiṣrとも呼ばれた。ミスルは〈軍営都市〉もしくは〈エジプト〉をも意味する。
細長いナイル川の谷がデルタへ扇形にひろがろうとするかなめの位置にあり,近代以前はナイル川の水運により,19世紀中葉以降になるとここを中心として国内各地とつながる鉄道網や道路網をも加えて,つねにエジプト全土の政治・経済・文化の中心であった。また,エジプトのみならず,アフリカ,アジア,ヨーロッパ三大陸の接点で,ナイル川の3分流の出口にあるアレクサンドリア,ロゼッタ,ディムヤート(ダミエッタ)の三つの海港を経由して地中海と,ファラオ時代以来の運河(ハリージュ)あるいは隊商路でつながるスエズ(古代にはクルズム)を経由して紅海,インド洋と,さらに隊商路によってシリア方面やアフリカ各地と結ばれ,古来,経済的のみならず政治的・戦略的にも国際的要衝であった。現在は航空路網もこれに加わる。平均年雨量は28mm,月平均気温は1月に12.4℃,7月に28.2℃,4月,5月に何回か来襲するハムシンという砂あらしを除けば,年間を通じてきわめて快適な気候である。
1950年,初めて市政府が成立,アフリカ最大の都市で,ギーザ,ヘリオポリス,ヘルワーンHulwānなど近郊都市もあわせると,人口は1000万を超える。歴史的な人口推定は,ファーティマ朝盛期の11世紀に30万以上,12世紀に衰えて15万~20万,マムルーク朝時代の14世紀前半に約60万,オスマン帝国時代初期の16世紀中葉に約43万,ナポレオン軍侵略の19世紀初めに約25万,1882年に約40万,1907年に約68万,27年に約106万,47年に200万を超えた。
現在のカイロは大きく三つの部分からなり,第1に,東のムカッタム丘下から運河あとにあたるポート・サイードPort Said(ブール・サイードBūrSa`īd)通りに至る城壁や城跡を残した旧市街,第2に,ポート・サイード通りの西からナイル川に至る,19世紀中葉以降の新市街,第3に,20世紀とくに第2次世界大戦以後に形成された郊外の新興住宅地で,ギーザからエンバーバに至るナイル川西岸,ショブラーからヘリオポリス,さらにその南東に至る市の北部,南部の近郊都市マアディal-Ma`adi,ヘルワーンなどの方向に広がっている。また,南東と北東にある広大な墓地(〈死者の町〉と呼ばれる)に,農村からの流入民や中東戦争の難民が住みついて都市化した部分もある。旧市街には,フスタートにあるカイロ最古のアムルのモスク(642建設)をはじめ,イブン・トゥールーン,スルタン・ハサン,アズハル,ムハンマド・アリーなど数百のモスクが集中しており,観光客向けのスーク(市)やみやげ物製造所と,織物,香料,靴などの問屋街が多く,住民は中下層である。新市街は,1952年のエジプト革命後タハリール(解放)広場と改名されたナイル川に近い広場(もとイスマーイール広場)から,放射状に整然とした街区が展開しており,広場より南東のルーク門のあたりに政府機関が集中し,北東部が繁華街とビジネス・センターになっている。第1次世界大戦後発達した紡績・食品その他の軽工業は市の北部に比較的多いが,第2次世界大戦後,とくにエジプト革命後に建設された,ヘルワーンの製鉄所をはじめとする鉄道車両,自動車,造船,化学肥料,石油化学などの重化学工業は,市の周縁部に立地している。
カイロは,エジプトばかりでなくアラブ世界さらにはイスラム世界の一大文化中心である。1000年以上の歴史をもつアズハル大学はスンナ派イスラム教学の最高中心としてイスラム世界全体からつねに数千人の留学生を集めており,カイロ大学(1908設立),カイロ・アメリカ大学(1919設立),アイン・シャムス大学(1950設立)などの諸大学も多くの留学生を集め,またアラブ諸国の大学から小学校に至るまで多くの教員を派遣している。1952年のエジプト革命後,カイロのラジオの国際放送〈アラブの声〉がアラブ諸国全体の民族革命運動推進に果たした役割はきわめて大きい。またカイロからアラブ諸国へ多量に供給されるものに映画と書籍がある。アラブ諸国のどこでもカイロ弁のアラビア語が理解されるほど,カイロ放送とエジプト映画の役割は大きかった。
現在のカイロ付近には,古代には,南西のナイル川左岸の山寄りにメンフィスの町があり,北東にはヘリオポリスHeliopolisの町があった。その後メソポタミアからの移民によって,南部の東の山がナイル川に迫った要地にバビロンBabylōnの町ができ,やがてそこにローマ人が砦を築き,ビザンティン時代も支配の拠点となった。641年,エジプトに侵入したアラブ軍の将軍アムル・ブン・アルアースはビザンティン軍を破ってこの地を奪い,642年にエジプト総督のための軍営都市(ミスル)フスタートをここに設定した。部族ごとに設営したアラブ軍にはイエメン系の者が多く,ヒジャーズ,シリアのアラブがこれに次ぎ,シリアから随伴したギリシア人やユダヤ教徒の商人などもハムラーと呼ばれる住区を与えられた。周辺のコプト教徒も必需品を供給し,ここに住みつく商人も増えた。アムル・ブン・アルアースはファラオ時代以来のクルズム(スエズ)に至る運河を改修して紅海方面と直接の水運を開いたが,これは〈信徒の長の運河〉〈エジプト運河〉あるいは単に〈運河〉(ハリージュ)と呼ばれ,これによる紅海・インド洋方面との貿易がその後のフスタートの繁栄を支えた。トゥールーン朝(868-905),イフシード朝(935-969)の時期には,フスタートの北東にそれぞれアスカルal-`Askarとカターイーal-Qaṭā’i`の町を建設し,東方からのイラン人,トルコ人,アルメニア人,西方マグリブからのベルベルの流入もみられた。
チュニジアに興ったファーティマ朝が969年エジプトを占領すると,将軍ジャウハルJawhar(?-991)はカターイーの北方ムカッタムの丘の麓に区画整然たる矩形の都城カイロ(カーヒラ)Miṣr al-Qāhiraをつくり,2年後に首都もここへ移ったが,これは政府諸官庁や王侯貴顕,直轄軍などの所在する政治・軍事中心で,経済面ではこの時代にフスタートが最盛期を迎えた。運河はこのころ廃れたが,ナイル川上流のクースから紅海に面する港アイザーブに出るルートが発達して,東はインド西海岸に至るまで,西はマグリブからサハラ砂漠を越えて西スーダンまでがフスタートの商業圏にはいり,西スーダンからの多量の金の流入とも相まって,コプト,ユダヤの両教徒やアルメニア人の商人がアラビア海と地中海をまたにかけて活躍した。11世紀中葉,大飢饉がおこり黒人系とトルコ系の奴隷軍人が争うころからファーティマ朝は衰え始めるが,1168・69年,第5回十字軍の攻撃を避けるためにフスタートの町が焼かれて以後,この町はしだいに衰退に向かい,代わってカイロが経済の中心に成長していった。これを促進したのがアイユーブ朝(1169-1250)のスルタン,サラーフ・アッディーン(在位1169-93)である。十字軍との戦いで有名な彼は,カイロ南方の丘の上に巨大な城砦(カルアQal`a)を築いて政治と軍事の中心をここに移し,庶民のカイロ移住を自由にしたので,フスタートその他から流入する商工業者が多く,カイロは広々とした街路の都城から,狭い通りや袋小路に人家の密集するにぎやかな商工業者の町に変貌していった。サラーフ・アッディーンはまた,南はフスタートからカルア(城砦),カイロ(カーヒラ)を囲み,北はカイロの外港マクスにまで至る外周城壁を建設した。これは,この時代に中東の社会全体が軍事化し,貴族や官僚の支配から奴隷軍人(マムルーク)の支配へ変化していったことと対応している。マムルークでは黒人系が敗北して舞台を去り,トルコ系やチェルケス系が主力を占めるようになり,やがて彼らがエジプトの権力を握るマムルーク朝(1250-1517)時代になると,カイロはその最盛期を迎えることとなった。
マムルーク朝時代には,コプト教徒,ユダヤ教徒の商人に代わってイタリア商人がアレクサンドリアまで来航するようになっていたが,香料をはじめとするインド洋・地中海貿易は以前にもまして栄えており,これがマムルーク朝時代のカイロの繁栄の土台となった。最盛期の14世紀前半に至るまで,商工業の繁栄の上に,カイロは建設ブームで沸いた。十字軍とモンゴル人の来襲を二つながら撃退したスルタン,バイバルス(在位1260-77)をはじめ,カラーウーン,バルクーク,カーイト・バイらのスルタンやマムルークの将領たちは,モスク,マドラサ,墓廟,ハーンカー(スーフィーの修道場)などの宗教施設から,宮殿,病院,隊商宿(フンドゥク,ハーン,カイサリーヤ),ハンマーム(公衆浴場)などを争って建設し,なかには小街区(ハーラ)全体をつくりかえるものもあった。現在みやげ物市場として観光名所となっているハーン・アルハリーリーKhān al-Khalīlīは,チェルケス系のアミールであるハリーリーが,ファーティマ朝時代の墓地をつぶして建設したものであり,現在旧市街に残る歴史的建造物はマムルーク朝時代のものが最も多い。現在都心の公園と広場になっているエズベキーヤEzbekīyaのあたりは,このころは池と沼沢地であったが,ウズベク人のアミールがここを開発して以来貴顕の館や別荘が建ち並び,その名がついた。マムルーク朝の全盛期のスルタン,ナーシル(在位1293-94,1299-1341)のあとの1348年前後,西方世界に蔓延した黒死病がカイロをも襲って人口は激減し,以後カイロは衰退に向かう。またこのころナイル川の河床が大幅に西方へ移動したので,町の西側に池や沼沢地の多い広大な未開拓地が生まれ,ルーク門のあたりをはじめ,しだいに開発されてゆくところが増えた。なかでも最大の変化は河港の変遷である。フスタートはそれ自体が大商業河港であったが,カイロが建設されると,そこから至近の外港としてマクスal-Maksが生まれた。フスタートからカイロへの経済重心の移動に伴ってマクスの比重は増大したが,この河床の西方移動によってマクスはさびれ,その西方河岸にブーラークBūlāqの港が発達し,これとカイロをつなぐ道沿いの地域もしだいに開けた。エズベキーヤは,カイロの中心部と地中海への出口であるブーラークの港を結ぶ要地となり,次のオスマン帝国時代にかけてしだいに重要性をもち,やがて18世紀末にフランス軍がエジプトを占領すると,ナポレオンがここに司令部を置いた。一方,フスタートは上エジプト,紅海方面への河港としての役割に限定されてゆく。かつてフスタートの盛期に繁栄したその北東のアスカルとカターイーはこのころまでに広大な廃虚となり,現在もカイロの南方への連続的な市街の発展を阻んでいる。
オスマン帝国時代になると,インド洋・地中海貿易は持続しているものの,17世紀以降はその比重が落ちてゆき,カイロはイスタンブールを中心とする帝国の商業圏に組み込まれて,イスタンブールはじめアナトリアの都市に穀物,砂糖,米,豆などを供給する商業基地の性格が強くなった。カイロを中心とするエジプトへのオスマン帝国の駐屯軍は1万数千から3万程度のもので,駐屯軍のうちのイエニチェリがのちにカイロの小商人や職人層と結びついてゆく。17世紀以降になるとマムルークの将領がエジプトの実権を握るようになり,これが大商人やウラマー層と結びついた。カイロは16世紀には一時繁栄を取り戻したが,その後振るわず,1770年代以降のマムルークの争いなど政治的混乱でどん底に落ち,市中の各所に荒廃した部分がみられた。1798-1801年のナポレオン軍占領下にカイロ市民は2回反乱を起こしたが鎮圧され,このときムカッタムの丘からの砲撃でアズハル・モスク付近がかなり破壊された。
ナポレオン軍撤退後のエジプトは,諸軍事勢力が入り乱れてカイロもしばしば略奪をうけたが,そのなかに大商人とウラマーを指導層とする一種のコミューンが生まれて大衆を武装させ,その力でオスマン帝国の総督を追って,アルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーを総督に推戴し,やがてオスマン帝国にこれを認めさせた(1805)。1952年の革命までつづくムハンマド・アリー朝はこうして生まれたが,そのもとにカイロの近代化が進行した。とくにイスマーイール・パシャ(在位1863-79)の時期の変化が著しい。オスマンのパリ改造計画にならって,市域西方ナイル川との間の沼沢地や池を埋め立て,広場と放射状の街路から成る壮大な都市計画の基礎が置かれた。サラーフ・アッディーン以来の城砦(カルア)を捨てて,旧市街の西,エズベキーヤの南にアーブディーン宮殿(現在の共和国宮殿)を建て,そこからナイル川に至るルーク門のあたりに政府官庁を集中し,旧市街にもムスキー通りやムハンマド・アリー通り(現,カルア通り)などの広い直進大通りを通した。ムハンマド・アリー朝は外国人顧問や技術者を重用したので,フランス人,イタリア人,ギリシア人,アルメニア人,ユダヤ人など外国人の流入が多く,その関係の会社,銀行,取引所,領事館,ホテル,オペラ劇場などの集中するエズベキーヤ付近が新しいカイロの繁栄の中心となった。1854年アレクサンドリアと,56年スエズと鉄道が通じてカイロ駅がエズベキーヤの北方にできたこともここの繁栄を助けた。1865年に水道会社,73年にガス会社もできた。しかし,アーブディーン宮殿からエズベキーヤを経てカイロ駅に至る,南北を結ぶ直線に中枢を配したイスマーイール・パシャのカイロの新しい戦略構造は,1882年以降のイギリスの軍事占領によって,タハリール広場にあった駐屯軍兵舎とそのすぐ南のナイル河畔に置かれた弁務官事務所(現在のイギリス大使館)を頂点とする三角形の戦略構造につくりかえられた。
大英帝国はつねに海(ナイル川)から陸を支配する。このイギリス占領時代に,エジプトは綿作で経済的には繁栄し,ヨーロッパの人間と資本が大量に流入したので,カイロに建設ブームが起こった。1890-1906年がその絶頂で,イスマーイール・パシャが土台を固めた都市計画地がとりどりの建造物で埋め尽くされて,現在の諸様式の混在する新市街の目抜き通りの都市景観をつくりだしていった。綿作ブームで成長した豪農地主がカイロにも邸宅をかまえるようになったのは,この時期から1920年代にかけてである。外国人や大地主の邸宅地として,イギリス人は弁務官事務所南方のガーデン・シティと,フスタート南方のマアディの田園都市を建設し,ベルギー人アンパン男爵は1906年よりカイロ北東ヘリオポリスに上・下水道や電気を備えた計画的な衛星都市を建設,これらは現在に至るまで高級住宅地となっている。フランスのウジェニー皇后が訪れて以来,ナイル西岸のギーザにも高級住宅地が発達し,1908年その北にカイロ大学が創設されたこととも相まって,周辺の開発がすすんだ。現在いまひとつの高級住宅地となっているナイル川の島ゲジーラ島の北部ザマーレクZamālekは,イギリス占領時代には島の南部にエジプト人立入禁止のスポーツ・クラブがあったので開発が遅れ,クラブがエジプト人の入会をも認めるようになる1930年代以降に発達した。
このような外国人や大地主,官僚などの住む新市街に対して,旧中間層の住む旧市街はしだいに斜陽化してゆくが,まだ民衆の根につながった活力をもっていることは,アズハル広場が1919年の独立運動など民衆運動の発火点にしばしばなったこと,旧市街の問屋商人が現在なお世界各地との貿易に従事していることなどにうかがえる。
執筆者:三木 亘
カイロには,イスラム建築の様式的変遷をたどるに十分な遺構がよく保存されている。まず第1に,メソポタミア様式のオリジナルな性格をよく保っているイブン・トゥールーン・モスクMasjid Ibn Ṭūlūn(879),次いでモニュメンタルなファサードなどを特色とするファーティマ朝のアズハル(970-972),ハーキム(990-991),アクマル(1125)の各モスク,また今日もなおその威容を伝えている市城門ナスル門Bāb al-Naṣrとフトゥーフ門Bāb al-Futūḥ(1087-92)などが挙げられる。アイユーブ朝の遺構としては,サラーフ・アッディーンがビザンティンの築城技術を取り入れて築いた城砦(カルア。12世紀後半)がある。カイロの建築遺構の大半を占めるマムルーク朝建築のうち,モスク,マドラサ,廟などの多くは複合建築である(カラーウーンのモスク・マドラサ・マーリスタン(病院),1284-96。スルタン・ハサンのモスク・マドラサ。バルクークのモスク・マドラサ,1384-86)。一方,カイロ北東部の,いわゆる〈カリフの墓地〉には,マムルーク朝建築の優れた技術と洗練された美しさを示すバルクークの廟・ハーンカー(1400-11),および組紐文とアラベスクを浮彫にした美しいドームをもつカーイト・バイ(1472-74)の廟(モスク・マドラサ)が残る。オスマン帝国時代の建築としては,イスタンブール・タイプのムハンマド・アリーのモスク(1848)や美しいファサードを残すアブド・アル・ラフマーン・カトフダーの泉亭と学堂(1744)が挙げられる。
カイロには,世界的な内容と規模を誇るカイロ博物館(エジプト国立博物館),イスラム美術館,コプト美術館があるほか,アル・ガウハラ宮殿(旧王宮)博物館(1811),アーブディーン宮殿博物館(19世紀),アンダーソン博物館(バイト・アルクレイトラ),軍事,農業,地質,郵便の各博物館,近代美術館など20を超える大小の博物館,美術館が数えられる。また,エジプト国立図書館にはミニアチュールを含むアラビア語,ペルシア語の貴重な写本類が所蔵されている。
執筆者:杉村 棟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
エジプトの首都。ナイル川デルタの南端から25キロメートル南の、西アジアとアフリカ、ヨーロッパを結ぶ要地に位置し、エジプトの政治、経済、文化の中心地であると同時に、アラブ世界、アフリカ大陸で最大の国際都市である。1979年に「カイロ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。アラビア語ではアル・カーヒラAl-Qāhirahという。人口710万9000(1999推計)。ギゼーなど郊外を含めた大カイロ市は約800万人に達する。気候は年降水量26.7ミリメートルという砂漠気候であり、大人口が生活できるのはナイル川の恵みによる。夏は8月の平均気温が27.9℃と暑いが、湿度が低いためしのぎやすい。冬は1月の平均気温が14.0℃で、雨や曇りの日はやや寒いが、晴天のときは暖かく快適で、ヨーロッパからの観光客があふれる。4月から初夏にかけ、カムシンとよばれる砂まじりの熱風が南の砂漠から吹く。年間を通じて地中海からの北風が卓越するので、重工業地帯は南郊につくられている。
カイロはエジプト最大の工業都市であり、第一次世界大戦後に発達した紡績、食品加工などの軽工業のほか、鉄鋼、造船、鉄道車両、化学肥料などの重工業、さらには石油精製・石油化学工業などがあり、スエズの精油工場とはパイプラインで結ばれている。19世紀末57万人であった人口は、1922年のエジプト独立後急速に増加し、今日では年4%以上の人口増加率を示している。中東戦争中の不整備もあり、住宅不足、交通渋滞、電話回線不足、学校の不足など、都市生活基盤の悪化がみられる。食料品、日用品の不足もしばしばおこっている。
市域はナイル川デルタの二大支流分岐点のすぐ上流に位置し、主としてナイル川右岸一帯と、中の島であるゲジラ島、ローダ島および左岸沿いに広がっているが、近年人口増加により、北郊、南郊へと拡大しつつある。市内は伝統的な旧市街とヨーロッパ風の新市街に分かれている。旧市街は南のオールド・カイロから、東のモカッタムの丘の麓(ふもと)に広がるイスラム地区までの区域で、低いれんが造りの住居、バザール、手工業工房が混在している。コプト教会やアル・アズハル・モスク、スルタン・ハッサン・モスク、ムハンマド・アリー・モスクなどの各時代のモスク、旧宮殿のシタデルがあり、歴史の重みを感じさせる。新市街は運河を埋め立てたポート・サイド通りから、西のナイル川沿いに広がっている。タハリール通りとラムセス通りに挟まれた区域は市の中心地で、付近には、各省庁、市役所、中央郵便局、航空会社、ホテル、中央市場、バスターミナル(タハリール広場)などがあり、ビジネスセンターとなっている。学術文化施設として、ツタンカーメンの黄金の棺(ひつぎ)で知られるエジプト博物館、カイロ大学、アメリカ大学などがある。右岸沿いのガーデン・シティ、ゲジラ島のザマレク、南のマアディ、左岸のドッキー、空港道路沿いのヘリオポリスは中・高級住宅地となっている。ラムセス中央駅北部のシュブラは工場が混在する労働者住宅地である。旧港町のブラクは旧市街のオールド・カイロ、イスラム地区とともにスラム化が進んでいる。北部のラムセス中央駅は国内鉄道のターミナルである。カイロ国際空港は北東約30キロメートルの砂漠の中にある。また、南西5キロメートルには三大ピラミッドやスフィンクスで有名なギゼーがある。
[藤井宏志]
642年、アラブ軍を率いたアムル・ブン・アルアースは、ナイル東岸に軍営都市(ミスル)フスタートを建設し、エジプト統治の拠点とした。ついで870年、半独立王朝を樹立したアフマド・ブン・トゥルーンは、フスタートの北東約2.5キロメートルの地点に、彼の名を冠したモスクを中心とする新都カターイを建設した。さらに、969年エジプトを攻略したファーティマ朝第4代カリフ、ムイッズは、カターイのさらに北東約2.5キロメートルの地点に、東西約0.9キロメートル、南北約1.2キロメートルの城壁に囲まれた新都を建設し、カーヒラ(勝利者)と命名した。現在のカイロは、このカーヒラを旧市街とする都会である。城壁に囲まれた市街は多くの地区(ハーラ)によってくぎられていたが、このハーラは、モスク、市場(スーク)、公衆浴場(ハンマーム)などを備えた、都市民の最小生活空間を構成していた。さらに、サラーフ・アッディーン(サラディン)は、防衛上の目的から、カーヒラの南方約1.5キロメートル、カターイの東方約1キロメートルの丘の上に城塞(じょうさい)を築き、以後アイユーブ朝(1169~1250)、マムルーク朝(1250~1517)時代において、市街区は南西のカターイ方面に向けて拡張した。こうして、この時代のカイロは、当時すでに衰退しつつあったバグダードにかわって、イスラム世界第一の都会として繁栄した。『千夜一夜物語』に反映しているのは、繁栄時のバグダードとマムルーク朝の前半期であるバフリー・マムルーク朝(1250~1390)時代のカイロの生活であるといわれている。1517年のセリム1世による征服以後、エジプトはオスマン帝国の一属州となったため、カイロはそれまでの繁栄を失ったが、その間にあっても、市街区は徐々に西方に拡張していった。ナポレオンの遠征(1798~1801)以後、ムハンマド・アリー朝(1805~1953)下において、近代国家建設の一環として、カイロの都市計画が練られ、市街区の大幅な拡張がみられた。とりわけイスマーイール(在位1863~79)時代以降の発展は目覚ましく、旧市街から西方ナイル川に至る地域、さらにはナイル西岸にまで、ビルディングの建ち並ぶ近代都市カイロが出現した。こうしたカイロの拡張は、エジプト人口の増大、都市化現象のために、1952年の革命以後の共和国時代においても続いた。ここに、カイロは、旧カイロ(フスタート)のみならず、ナイル西岸の新住宅区ギゼー、ドッキー、アグーザ、副都心ヘリオポリス、などを含む一大メガロポリスとなった。現在のカイロ(大カイロ)は、アラブ世界第一の活気に満ちた政治、経済、文化の中心地であるとともに、過密とスラム化に悩む、典型的な開発途上国の都会でもある。
[加藤 博]
『J. L. Abu-LughodCairo. 1001 Years of the City Victorious(1971, Princeton Univ. Press)』
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
現地名はアル・カーヘラ(alQāhera)。エジプト・アラブ共和国の首都。969年に造営されたファーティマ朝の軍営都市を起源とし,続くアイユーブ朝,マムルーク朝の都として発展した。オスマン帝国の支配下で一時荒廃したが,1805年ムハンマド・アリーの統治下でエジプトが自立し,その首都となって今日に至る。ナイル・デルタの要に位置している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 北アフリカの砂漠地帯を貫いて北流するナイル川がエジプトの生命線である。デルタ北西端のアレクサンドリアの年間降雨量204mm,カイロ30mm,ミニヤー以南の上エジプトはほとんど0に近いという,オリエントでは砂漠につぐ乾燥地帯にあり,ナイル川の浸食作用により形成された河谷および河口に,川が上流より運んできた肥沃な沖積土が堆積してつくりあげた土地(ナイル河谷約2万2000km2,デルタ約1万3000km2)だけが,人間の生存と農耕に不可欠な水を得て,人間生活の舞台となった。この状況は,灌漑地域の拡大による近年の生活空間の広がりにもかかわらず,基本的には変わっていない。…
…イスラム時代の都市には,ダマスクスやアレクサンドリアのように古代オリエントの都市をそのまま継承したものもあれば,イラクのバスラやクーファ,あるいはエジプトのフスタートのように大征服の過程で軍営都市(ミスル)として建設されたものもあった。またカルバラーやマシュハドは聖地を中心に発達した宗教都市であるが,バグダードやカイロは初期のミスルと同じくまず軍事・行政の中心地として建設された。 どの都市においても,町の中央部にあるモスク(ジャーミー)では金曜日ごとに信者による集団礼拝が行われ,また礼拝に先立つフトバ(説教)には,都市住民の総意として時の権力者の名前を読み込むことが慣例であった。…
※「カイロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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