改訂新版 世界大百科事典 「カピタン」の意味・わかりやすい解説
カピタン
capitaõ[ポルトガル]
ポルトガル語で長をさし,甲必丹,甲比丹の字を当てる。江戸時代,マカオ~長崎間のポルトガル貿易に最高の権限を持ち,マカオ滞在中は同地の最高の行政官,長崎ではポルトガル人の代表を務めたのがカピタン・モーロcapitaõ-morである。このカピタンの名称は,そのまま他の外国人にも用いられ,中国人の代表は甲必丹(カピタン),オランダ商館長も〈阿蘭陀甲必丹(オランダカピタン)〉と呼ばれた。平戸に商館があった時代(1609-40)には,長期間在任したオランダ商館長も多かったが,1640年(寛永17)11月,大目付井上筑後守が将軍徳川家光の密命を受けて平戸を視察し,商館の一部の建物の取壊しを命じた際,日本人にキリスト教を広めないため,商館長の毎年交代を命じ,商館も翌年長崎出島に移された。以来,この命令は原則として守られた。オランダ商館長は1609年(慶長14)来日のJ.スペックスから最後のJ.H.D.クルティウス(1860年まで在任)まで162代に及ぶ。
江戸参府
オランダ商館長が毎年江戸に参府するのは1633年以後で,それ以前は次席,あるいは船長が参府したことが多い。1790年(寛政2)からは参府は4年に1度と改められた。ふつう旧暦正月に長崎を出発し,3月朔日前後に将軍に拝謁,江戸に2,3週間滞在し,旅行全体には90日ぐらいを要した。一行は商館長,書記,外科医,助役などオランダ人数人に,通詞,長崎奉行所役人などが同行した。拝謁の当日,商館長は城内の定められた広間で待ち,〈進め〉と言われると,日本式に膝行し,平伏すると〈阿蘭陀甲必丹〉と呼ばれる。上衣の裾を引いて合図されたら退去せねばならず,この間ひと言も発することは許されなかった。この後,老中,若年寄,町奉行,長崎奉行などの職にそれぞれ贈物をして挨拶し,やがて暇を得て時服を賜り,江戸から立ち去る。オランダ人の江戸での宿所は,日本橋本石町の長崎源右衛門方と定められていた。当初ここを訪問できたのは,諸大名,大官だけだったが,後には多数の蘭学者が出入りして,日ごろからの疑問をただし,オランダ人も,単調な長崎出島の生活に変化を与える最大の行事として,この機会を楽しんだ。
→オランダ風説書
執筆者:永積 洋子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報