カージャール朝(読み)カージャールチョウ(その他表記)Qājār

デジタル大辞泉 「カージャール朝」の意味・読み・例文・類語

カージャール‐ちょう〔‐テウ〕【カージャール朝】

Qājār》18世紀末から20世紀初めにかけて、イランを支配したイスラム王朝。1779年、アガームハンマドがゼンド王朝を倒して創始。首都はテヘランロシアイギリスの侵略に弱体化して、1925年に断絶。

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精選版 日本国語大辞典 「カージャール朝」の意味・読み・例文・類語

カージャール‐ちょう‥テウ【カージャール朝】

  1. ( カージャールはQājār 「ガージャール朝」とも ) 一七七九年から一九二五年にかけてイランに君臨した王朝。アーガー=モハンマドがザンド王朝を倒して創始した。首都テヘラン。

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改訂新版 世界大百科事典 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝 (カージャールちょう)
Qājār

イランを支配したトルクメン系の王朝。1779-1925年。部族としてのカージャール族の名は15世紀に初めてみえる。サファビー朝クズルバシュ(紅帽軍)を構成する部族で,17世紀までアゼルバイジャン地方で遊牧していた。その後,辺境防備のためカスピ海南東のゴルガーン地方に移された。1779年,族長アーガー・ムハンマド(モハンマド)・ハーンザンド朝カリーム・ハーンを倒してイランを統一し,86年テヘランを首都に定めた。カージャール朝の国家構造は遊牧分封制的で,一族を地方知事に任命し,軍人には分与地(トゥユール)を与えた。19世紀になると,イランへのイギリス,ロシアの進出が始まった。ロシアはカフカスの領有権をめぐって2度にわたる対イラン戦争を行い,それぞれゴレスターン条約(1813),トルコマンチャーイ条約(1828)を結んで同地方を割譲させた。イギリスは1841年イランとの間に通商条約を締結し,56年にはヘラート問題に介入してペルシア湾から攻撃を加え,同地方を一時占領した。

 イランの従属化が進行する中で,1844年イラン南部地方を中心にバーブ教運動が起きた。これはセイエド・アリー・モハンマドを指導者とするメシア思想の宗教反乱の形をとったが,その背景には民族主義的運動があったといわれる。48年宰相に就任したミールザー・タキー・ハーンアミール・カビール)は,近代改革を軍事・財政・行政・教育の各分野にわたって推進したが,51年に暗殺され,王朝の立て直しは失敗に終わった。70年以降,王朝財政は破綻し,道路建設・電信敷設・河川航行・銀行開設等の利権を,ヨーロッパの投資家に譲渡していった。90年イギリス人に譲渡されたタバコ利権をめぐって,ウラマーを中心にタバコ・ボイコット運動が組織された。この運動は民衆に反帝国主義闘争とカージャール朝専制体制の打倒の必要性を自覚させた。1905年,憲法と議会の開設を要求してイラン立憲革命が起こった。この革命運動はタブリーズ武装蜂起(1908-11)のころまで高揚したが,第1次世界大戦の勃発,19年のイギリス・イラン協定によって革命の活力は急速に失われていった。20-21年ロシア革命の影響をうけた民族解放運動が,ギーラーン,アゼルバイジャン,ホラーサーンで起こり,社会主義的な地方革命政府が樹立された。しかし,軍務大臣レザー・ハーン(後のレザー・シャー・パフラビー)は,対ソ条約を締結してソビエト軍を撤退させ,地方革命政権を武力で鎮圧,25年カージャール朝を廃して自らパフラビー朝を建てた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝
カージャールちょう
Qājāriyya

イランのトルコ系王朝(1794~1925)。ザンド朝を倒したカージャール族のアーガー・ムハンマドによって開かれた。初期にはホラーサーン地方の統治やロシアの侵入の撃退に成功を収めたが,ロシアとの再度の戦いに敗れ,1828年のトルクマンチャイ条約によってその治外法権を認めてのち,これが諸列強にも適用され,イランの植民地化が開始された。北西部における失地アフガニスタン方面で回復しようとしてイギリスと対立したが,1857年パリ条約でアフガニスタンを承認し,ヘラート地方(→ヘラート)をも最終的に失った。一方,1876年までに中央アジアを併合したロシアはさらに南下政策を推進しようとし,イランをめぐるイギリスとロシアの確執が激化した。これに対しイラン内部では,バーブ教ジャマール・ウッディーン・アルアフガーニーによる民族解放運動に続いて,1905年頃から立憲運動が開始され,1906年ついに立憲君主制が採用された。しかしこの間にもイギリスとロシアの帝国主義的侵略は進展し,1907年両国のイラン分割協定の締結によりイランの半植民地化は確定的となった。1917年ロシア革命勃発のためロシアが引き揚げると,イギリスはイランを保護国化する協約批准を迫った。さらに 1920年,白衛軍を追う赤軍のカスピ海沿岸のエンゼリー港(→バンダレアンザリー)占領およびラシュト進出に,イラン国内における危機感はいっそう高まったが,カージャール朝はこれに対しなんらなすすべをもたなかった。このとき赤軍との交戦に敗退したコサック旅団の一将校レザー・ハーンは兵を率いて 1921年テヘランを占領,新内閣を組織してこの危機を乗り切り,1925年イラン国王に推戴されレザー・シャーと名のった。ここにカージャール朝は滅び,パフラビー朝の成立をみた。(→イラン史

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百科事典マイペディア 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝【カージャールちょう】

1779年―1925年。イランを支配したトルクメン系の王朝。1779年アーガー・ムハンマド・ハーンがザンド朝を倒してイランを統一。1786年首都をテヘランに定めた。19世紀になると,ロシア,英国などの列強によるイランへの進出が始まり,領土割譲や利権譲渡を迫った。こうしたなかでタバコ・ボイコット運動イラン立憲革命などの民衆運動が見られたが,成果は上がらなかった。1920年代に入り,ロシア革命の影響によりアゼルバイジャン,ギーラーンなどの地方で独立運動が起きる。これを武力で鎮圧したレザー・ハーン(レザー・シャー・パフラビー)が,1925年カージャール朝を倒しパフラビー朝を建国した。
→関連項目イギリス・イラン戦争イラントルコマンチャーイ条約

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カージャール朝」の解説

カージャール朝(カージャールちょう)
Qājār

1796~1925

イランのトゥルクメン系王朝。ザンド朝アフシャール朝を倒しイラン高原を統一したアーガー・ムハンマドによって樹立された。首都テヘラン。英露を中心とする西欧列強の進出に直面し,2度のロシア‐イラン戦争によりカフカース領をロシアへ割譲(1813年ゴレスターン条約,1828年トルコマンチャーイ条約)。48年から52年にかけてはバーブ教徒の乱による大きな社会不安も体験した。48年宰相となったアミール・キャビールは多方面にわたる近代化改革を進めたが,51年に暗殺された。宮廷の濫費もあいまって財政は破綻し,60年代以降,さまざまな利権の西欧資本への譲渡が行われた。このようなカージャール朝に対する臣民の抵抗は,91~92年のタバコ・ボイコット運動をへてイラン立憲革命につながり,1906年には立憲制が樹立された。第一次世界大戦後,国内各地に社会主義革命政権が樹立され混乱,軍部を背景に事態を収拾したレザー・シャーが25年にパフラヴィー朝を興すにあたり,カージャール朝の廃止も決定された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カージャール朝」の意味・わかりやすい解説

カージャール朝
かーじゃーるちょう
Qājār

近代イランの王朝(1779~1925)。カスピ海南東部ゴルガーン地方に遊牧していたトルコ系のカージャール部族が、アーガー・モハンマドに率いられて1779年ザンド朝を倒してイランを統一した。1786年首都をテヘランに移した。同朝の国家構造は遊牧分封制に基づく中世的なものであり、19世紀になると、イギリス、ロシアを中心とするヨーロッパ列強の経済的、政治的侵略にさらされた。二度にわたる対ロシア戦争の結果、1828年のトルコマンチャーイ条約によってカフカスの領土を失い、41年のイギリスとの通商条約締結によって資本主義の市場に組み込まれた。1848~51年の宰相アミール・カビールによる近代改革は実効をあげず、70年代以降のヨーロッパ人投資家に対する各種利権譲渡によって王朝の体制は弱体化した。1891~92年のたばこボイコット運動、1905~11年の立憲革命によって王朝の支配権は揺らぎ、第一次世界大戦後の1921年のレザー・ハーンの軍事クーデターで事実上、崩壊した。

[坂本 勉]

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旺文社世界史事典 三訂版 「カージャール朝」の解説

カージャール朝
カージャールちょう
Qājār

1796〜1925
イランのトルコ系イスラーム王朝
シーア派を信奉するアーガー=ムハンマドが,ゼンド朝を滅ぼして建国。アーガーは1796年,バクー地方に侵入したロシア軍を撃退したが,1828年ファテ=アリ帝のときトルコマンチャーイ条約により,ロシアに治外法権を認めて外国の侵略を招き,1907年に英露協商で半植民地化された。1925年の政変でパフレヴィー朝に代わった。

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