カール[5世](読み)カール

百科事典マイペディア 「カール[5世]」の意味・わかりやすい解説

カール[5世]【カール】

ハプスブルク家フィリップの子で,外祖父フェルナンド5世を継いでスペイン国王としてはカルロス1世CarlosI(在位1516年―1556年)。祖父マクシミリアン1世の死後,神聖ローマ皇帝としてカール5世(在位1519年―1556年)。広大なハプスブルク家領を擁し,イタリアの支配権をめぐりフランス,オスマン帝国と戦った(イタリア戦争)。ドイツ領内の宗教改革運動には悩まされ,1521年のウォルムス国会ではルターを迫害するが,オスマン帝国の侵入などのためにプロテスタント諸侯の協力を得る必要が生じ,やむなく1526年ルター派布教を許可するも,1529年ふたたび禁止してプロテスタント諸侯の反抗を招く。シュマルカルデン同盟との戦争(1546年―1547年)には勝つが,1555年のアウクスブルクの宗教和議でルター派を公認,1556年失意のうちに退位した。
→関連項目アルバ公カベソンクレメンス[7世]コムネロスの反乱宗教改革シュパイヤー国会神聖ローマ帝国フェリペ[2世]フェルディナント[1世]ブツァーフランソア[1世]マゼランメディチ[家]モラーレスモーリツ

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世界大百科事典 第2版 「カール[5世]」の意味・わかりやすい解説

カール[5世]【Karl V】

1500‐58
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝。在位1519‐56年。スペイン王としてはカルロス1世とよばれた(在位1516‐56)。皇帝マクシミリアン1世の孫。マクシミリアンは太子時代にブルゴーニュ公女マリーを妃に迎えていたため,カールは,ブルゴーニュ公位をついだ父フィリップと,その妃であるスペイン王女フアナの長子として,フランドルの古都ガン(ヘント)に生まれた。カトリック信仰ブルゴーニュ風の宮廷文化の中ではぐくまれた彼は,父が早世し,母は精神病にかかったことから,1516年にスペイン王フェルナンド2世が没すると,その遺言によりわずか16歳でスペインの王位をついだ(カルロス1世,領土には新大陸をふくむ)。

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世界大百科事典内のカール[5世]の言及

【イベリア半島】より


[近代前期]
 1516年から1700年までスペインはオーストリア起源のハプスブルク家の支配下に劇的な浮沈の一時代を画した。最初の王カルロス1世の領地はスペインのほかにハプスブルク家の領地,ブルゴーニュ公領,アラゴン王家の領地を含み,さらに新世界が加わり,そのうえ神聖ローマ皇帝カール5世として名目的にせよドイツ諸侯に君臨した。カルロスの死後,ハプスブルク体制はスペインとオーストリアに二分されるが,前者には1580年から1640年までポルトガルがその海外領土と共に加わり,文字通り日の没することのない史上初の地球的広がりを持つ帝国(スペイン帝国)が生まれた。…

【オランダ】より

…3世紀以降のゲルマン民族大移動期において,フリーシー人は沿岸地域に居住し続け,ザクセン(サクソン)人は北東部からエイセル川の線まで進出し,またフランク人はライン川の南部地方に侵入し,徐々に勢力を拡大した。734年フランク王国カロリング家のカール・マルテルはフリーシー人を,さらに孫のカール大帝はザクセン人を征服し,ネーデルラントはフランク王国の支配下に入った。8世紀にはユトレヒトを中心にアングロ・サクソンの修道士ウィリブロードWillibrordやボニファティウスBonifatiusの布教によってキリスト教化が進んだ。…

【オランダ共和国】より

…共和国は18世紀に入るとしだいに衰微し,1795年フランス軍の侵入とともに崩壊し,1815年オランダ王国となった。
[ネーデルラントの反乱]
 16世紀前半,ネーデルラントは神聖ローマ帝国皇帝でスペイン王を兼ねるオーストリア・ハプスブルク家のカール5世の統治下にあった。カールはブリュッセルに政庁を置き,諸州,諸都市の自立性が強い分権的なネーデルラントに集権的な統一的支配を導入しようとし,また,当時この地方に普及しつつあったカルバン主義を禁止してカトリック教会を擁護した。…

【鉱山】より

…現,スロベニア地方)の水銀山などで,中央ヨーロッパの銀産額は19世紀半ばまで繁栄期の水準に達しなかったほどである。神聖ローマ皇帝カール5世は1525年の勅書で,鉱山を〈全能の神がドイツの地に下したもうた最大の賜物であり,有用物である〉とたたえ,帝国領内の鉱産額を年200万金グルデン,採掘と製錬に従事する者を10万人と評価している。15~16世紀のこの繁栄は銀と銅に対する需要の増大,豊かな鉱脈の発見のほか,立坑の深化(60~100フィート),排水法の改良(横坑掘削や革袋の巻上げ),大規模な鉱石搬出装置(水力,馬力使用)などの技術改良によっていた。…

【宗教改革】より

…ルターは12月10日,これを公衆の面前で火中に投じ決意のほどを示したので,翌21年初め,正式に破門の教勅が出された。時のドイツ(神聖ローマ帝国)皇帝カール5世は,スペイン王でもあり,厳格なカトリック信者だったが,彼は,皇帝選挙のさい恩義をこうむったザクセン選帝侯への政治的顧慮からしても,ルターの処置について,教皇の意のままには動かなかった。21年春ウォルムスで開かれた帝国議会(ウォルムス国会)に,皇帝がルターの出頭を求め,いまいちど〈異端的〉な所説を撤回する機会を与えたのはそのためである。…

【ハプスブルク家】より

…ハプスブルク家は14世紀発祥地の西方で諸王家・諸侯と争い,とくにスイスの独立戦争に敗れて家領の拡大に失敗する(1315年のモルガルテンの戦,1386年のゼンパハの戦)。しかし東方では1335年ケルンテンとクラインを,63年にはチロルを家領に加え,ルドルフ4世建設公Rudolf IV der Stifter(1339‐65)は家領の領邦化を進め,ルクセンブルク家の皇帝カール4世の金印勅書(1356)に対抗して大特許状Privilegium majusを偽造してまで領邦君主としての特権を主張し,みずから大公と称した。1452年ハプスブルク家のフリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝,在位1452‐93)が皇帝になると53年この大特許状を公認し,以後ハプスブルク家は事実上皇帝位を独占するに至った。…

【フッガー家】より

…宗教改革の原因になったマインツ大司教の免罪符販売は,フッガーへの返済のために行われたのである。1519年の皇帝選挙ではカール5世(マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)のために選挙資金85万グルデン中54万グルデンを調達した。その回収のためにチロル銀山のほかスペインの騎士修道会領の収益がフッガーに委譲された。…

【マルタ】より

…しかし,アラブがマルタから追放されたのは,13世紀フェデリコ(フリードリヒ)2世のときであり,アラブの影響は現在に至るまでマルタの文化に色濃く残っている。12世紀末以降のマルタは,政治的にはシチリアと運命をともにしていたが,1530年スペイン王カルロス1世(カール5世)はこの岩だらけの不毛な島を1522年にロードス島から追い払われたヨハネ騎士団(これ以降マルタ騎士団とも呼ばれるようになった)に与えた。以後マルタ島は騎士団の軍事力によって,キリスト教世界のイスラム(オスマン・トルコ)勢力に対する砦となり,65年の攻防をはじめとして何回かのオスマン帝国海軍の攻撃を撃退した。…

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