古代ローマ人が〈ガリGalliの居住地〉に与えた名称で,ガリとは,ギリシア人がケルタイと呼んだケルト人のことである。フランス語,英語ではゴールGaule,Gaul。地理的にはライン川,アルプス,地中海,ピレネー山脈,大西洋に囲まれた地域。新石器時代(前3000-前1800年ころ)の住民はリグリア人系およびイベリア人系で,各地に巨石遺構を残した。ドナウ方面から到来したケルト人は前9世紀ころからガリア全土に広がり,前5世紀には最盛期に達して,優れた金工技術と独特の装飾様式をもつラ・テーヌ文化を残した。古典古代文明との接触は前600年ころギリシア植民市マッシリア(現,マルセイユ)の建設に始まる。以後ニカエア(現,ニース)などの諸市が建てられ,これら植民市がギリシア文化をガリアに伝えた。ローマと接触するころまでには,北東部にはケルトとゲルマンが混じたベルガエ人,中央部にケルト人,南西部にはケルトとイベリア人が混じたアクイタニア人が住むようになっていた。これらガリア人はドルイド教を信仰し,ドルイド神官は超部族的な支配層であったが,政治的にはガリア諸部族が統一されることはなく,この諸部族間の分立・反目がやがてローマのガリア進出を招くことになる。
前4世紀初頭,ケルト人の一派は北イタリアに侵入して先住のエトルリア人を追い出し,やがてポー平原に定着する。前387年その一隊はローマ市を略奪してイタリアを震撼させたが,前2世紀初めまでにはローマ人がこの地域を征服し,ラテン人その他のイタリア人を入植させた。以後ローマ化は急速に進み,おそらくスラがルビコン川を南境として属州ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスの手前のガリア)を設置した。前49年ガリア・キサルピナの全市にローマ市民権が与えられ,前42年には同州はイタリアに編入された。
一方,ガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスのかなたのガリア)と呼ばれた本来のガリアでは,前1世紀後半ガリア諸部族間の反目がローマの介入を招き,前121年ガリア南東部に属州が設置され,のちガリア・ナルボネンシスGallia Narbonensisと呼ばれた。残りのガリアはカエサルのガリア遠征(前58-前51)によって征服される(《ガリア戦記》)。アウグストゥスはガリアの行政区分を整備し,早くから都市化・ローマ化が進展していたナルボネンシス州は元老院管轄とし,カエサルによる征服地域はガリア・アクイタニアGallia Aquitania,ガリア・ルグドゥネンシスGallia Lugdunensis,ガリア・ベルギカGallia Belgicaの3州に分けて皇帝管轄属州とした。これら3州では,前43年ローマ支配の拠点としてルグドゥヌム(現,リヨン)が建設されていたが,全体に都市化は緩慢で,行政はキウィタスと呼ばれる従来の部族組織を単位としていた。しかし,ローマ化は徐々に進んでいく。前12年ドルススはリヨン近郊に〈女神ローマとアウグストゥスの祭壇〉を奉献して皇帝礼拝をガリアに導入,64のキウィタスの代表は毎年ここに集まってガリア州会議を開いた。クラウディウス帝治下には,これら3州出身のローマ市民権所有者にも元老院議員となる資格が認められた。反面,ローマ支配の浸透は現地の反抗を招き,21年フロルスとサクロウィルが,68年ウィンデクスが,69-70年には辺境守備隊の騒擾に乗じてトレウェリ族が蜂起したが,いずれも鎮圧された。以後,ガリアは〈ローマの平和〉のもとで繁栄を享受する。以前から進んでいた穀物や金属器具の生産はもとより,ブドウ酒醸造や製陶業も栄えて1世紀後半にはイタリア市場にさえ進出した。ほかに塩豚・チーズなどの畜産物,ラインラントのガラス製造,北部の毛織物などが知られる。恵まれた水路,道路網の整備,農工業の発達によって商業も繁栄し,部族の中心集落は都市化した。2世紀にはまた,キリスト教が南部の都市を中心に広まる。だが,土着の神々やケルト方言はなお残っていた。
2世紀末から混乱がガリアを覆う。コンモドゥス帝治下には脱走兵を中心とする一隊に各地を荒らされ,帝の死後は帝位をめぐる内戦の舞台となった。北からのゲルマン人侵入も頻繁となり,253年のアラマンニ族侵入はガリア中枢部にまで達した。260年ポストゥムスは対ゲルマン自衛のためガリア帝国(-273)を樹立。バガウダイの蜂起も高まりを見せた。アウレリアヌス以後の諸帝はかかる混乱を徐々に収拾,ディオクレティアヌスの帝国再編成によって,ガリア南部には7州から成るウィエネンシス管区,北部には10州から成るガリア管区が設置され,さらにコンスタンティヌスはこの2管区にヒスパニア,ブリタニア両管区を加えてガリア道とした。4世紀には小康状態が戻ったとはいえ,ゲルマンの脅威は恒常化し,都市はアウグスタ・トレウェロルム(現,トリール)など一部の例外を除いて衰退し,縮小した市域に城壁をめぐらす。田野部ではコロヌスを使った自給自足的な大所領経営が進展した。ただ文化的には,4世紀のガリアはラテン文学の隆盛を見,キリスト教もトゥールのマルティヌスの伝道により田野部にまで浸透した。5世紀にはゲルマン諸族が相次いで侵入し,西ゴート,ブルグント,フランクなどが各地に定着。バガウダイの乱も再発した。475年西ゴートへのオーベルニュ割譲によりローマのガリア支配は事実上終焉する。やがてゲルマン諸族の中からフランクが台頭し,486年ソアソンの戦でローマの残存勢力を駆逐,532年に至って全ガリア支配を達成する。
→ガロ・ロマン時代 →ケルト人
執筆者:後藤 篤子
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地理的には、古代ローマ人がガリア人Galliとよんでいた人々(ケルト人)の住んでいた地域一般をさす。とくに、カエサル以降、ライン川、大西洋、ピレネー山脈、地中海、アルプスに囲まれた地方、ローマの古い属州ガリア・トランサルピナGallia Transalpina(アルプスのかなたのガリア)をさし、現在のフランス、ベルギー、オランダ、スイスにあたる。なお、ポー川以北の北イタリアも、ガリア・キサルピナGallia Cisalpina(アルプスのこちらのガリア)として、これに含めて考えることができる。
最古の住民は、南部はリグリア人、イベロ人、その他の地方はケルト人であり、ケルト文化は紀元前900年から前500年にかけて深く浸透していく。なおケルト人は北イタリアにも侵入し、ポー川流域に居を占めた(ガリア・キサルピナ)。また前600年ごろマッサリア(マルセイユ)へフォカイア人が進出したのちはギリシア文化も広まり、さらに南ガリアはローマとの商取引も盛んとなり、ローマ文化の影響を受け、前125~前116年には属州ガリア・ナルボネンシスGallia Narbonensis(ガリア・トランサルピナ)が設けられ、ドミティア街道や、前118年には市民植民市ナルボ(ナルボンヌ)がつくられた。なお前2世紀末のゲルマン系のキンブリ・テウトニ人の侵入は、ローマの将軍マリウスによって撃退された。一方、北ガリアは、前58~前51年のガリア戦争によって、ガリアの地方長官カエサルに占領された。
ローマ帝政期には、まずアウグストゥスがガリアをナルボネンシス(元老院属州)のほかに三つの元首属州(ルグドネンシス、ベルギカ、アクィタニア)に分け、ルグドゥヌム(リヨン)を統治およびアウグストゥス礼拝の中心地としたうえ、全ガリアの属州会議の開催地とした。ローマ化に対してティベリウス帝以降たびたびの蜂起(ほうき)がみられたが、植民市の設置、道路網の整備などローマ化が進められ、優れた詩人、文学者を輩出する一方、ルグドゥヌム、アレラテ(アルル)、トロサ(トゥールーズ)、ブルディガラ(ボルドー)、ケナブム(オルレアン)、ルテティア(パリ)などの町が栄え、ぶどう酒、穀物、食料品、織物、陶器、金属、ガラス器具の生産など経済発展も目覚ましかった。しかし、マルクス・アウレリウス帝のとき、ゲルマン人の侵入を被り、混乱、衰退が始まる。193年には一時ルグドゥヌムが落ち、その後もゲルマン人の侵入が続き、258年(259、260年説もある)~273年には、ライン川国境防衛のため「ガリア人の帝国」が設けられた。ついでディオクレティアヌスの帝国再建築のもと、ガリア管区(トリエル)とウィエンナ管区(ウィーン)が設置され、それぞれ8個と5個の属州に分かれた。
2世紀以降キリスト教が普及したが、177年には大迫害がウィエンナとルグドゥヌムで起こり、その後も各地でキリスト教徒の迫害がみられた。また283年以降は、バガウダエとよばれる農民一揆(いっき)も起こり、5世紀前半には各地に広まり、一揆は世紀なかばまで続いた。4世紀にアラマン人、フランク人、ザクセン人が侵入し、多くの都市が破壊された。406年にはアラン人、バンダル人、スエビ人、ついでブルグント人、ゴート人、フン人が侵入し、418年には南ガリアに西ゴート王国が、443年にはローヌ川流域にブルグント王国が成立し、5世紀末にはガリアは完全にゲルマン人の支配下に入った。
[長谷川博隆]
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ライン,アルプス,ピレネー,大西洋に囲まれた地域をさすローマ時代の呼称。広義にはアルプスの内側のガリア・キスアルピーナを含む。前6世紀以降ケルト人が居住したが,しだいにローマの版図に入り,ことにカエサルのガリア遠征でその大半が征服された。
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…英語読みではシーザー。ガリアを平定してギリシア・ローマ文化をヨーロッパ内陸部にまでひろめる基礎を築き,内乱の勝利者として単独支配者となり,世界帝国的視野に基づく変革を行ったが,共和政ローマの伝統を破るものとみなされて暗殺された。ギリシア・ローマの歴史の流れを決定的に変えた大政治家。…
… ケルト人は,インド・ヨーロッパ語系諸族の一支族として,前1500年ころまでには,ドナウ,ライン川沿岸の森林地帯に移動し,定着したとみられる。前9世紀以降,これらケルト人は,ヨーロッパ大陸各地に居住地を拡大し始め,その後数世紀間に,ライン下流を含むガリア全土,イベリア半島,ブリテン島,さらには北部イタリアから,一部は小アジアにまで達した。前750年から前500年にかけての時期に,ヨーロッパを覆ったハルシュタット文化が,ケルト人を主要な担い手とするか否かについては,見解が分かれるが,いずれにせよその時期に,ケルト人は鉄器使用の段階に入った。…
…フランスの歴史とは,この長い文明形成の歩みをいうのであって,国家もまた文明を構成する一要素にすぎない。
[多様な人的構成]
このガリア(現在のフランス)の地に人類の活動の跡を求めるとすれば,われわれは何十万年かの昔にさかのぼらねばならない。ここ100年ほどの間に急速に発展した考古学の研究によれば,このユーラシア大陸西端の地には,旧石器時代前期以来の人骨,石器が数多く発見され,氷河期と間氷期の間隙を縫うようにして,原初人類の活発な活動がみられたことが明らかとなっている。…
※「ガリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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