精選版 日本国語大辞典 「ガリレイ」の意味・読み・例文・類語
ガリレイ
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イタリアの物理学者、天文学者。近代科学の創始者の一人。
没落しつつあったフィレンツェの小貴族出身のビンチェンツォVincenzo Galilei(1520―1591)を父に、アマナッティGiulia Ammannati(1538―1620)を母に7人兄弟の長男としてピサに生まれる。10歳で一家とともにフィレンツェに戻り、12~13歳ころ修道院付属学校に入り古典語学などを学んだ。1581年ピサ大学医学部に入学、1583年に振り子の等時性を発見するが、当時のピサ大学はスコラ学者が勢力をもち、真理探究の場にはほど遠かった。そこでトスカナ大公主催の移動貴族学校に入り、ここでリッチOstilio Ricci(1564―1642)にユークリッド幾何学やアルキメデスの力学を学び強い影響を受けた。
1585年ピサ大学を退学、1587年フィレンツェのアカデミーに「小天秤(しょうてんびん)」「固体の重心について」の2論文を提出した。これが契機となり、その後支援を受けるデル・モンテ侯爵Guidobaldo Del Monte(1545―1607)と知己となった。
1589年デル・モンテ侯のつてと、アカデミーに提出していた論文とによりピサ大学数学講師となる。3年間をピサ大学で過ごすが、その間に、斜面を用いて落体の実験を行い、「運動について」(1590)を書いた。なおピサの斜塔の実験は伝説らしい。1592年パドバ大学数学正教授に転任した。
28歳でパドバ大学に移ったが、以降18年間が彼にとって穏やかで実り多い時代であった。大学ではユークリッド幾何学およびプトレマイオス天文学を教え、私的な授業を行い、「簡単な軍事技術入門」「築城論」「機械学(レ・メカニケ)」などを著し、また、かつてリッチに学んだ応用数学を研究して種々の計算尺を製作、販売するなどした。
生活面ではマリナ・ガンバMarina Gamba(1570―1612?)という女性と恋に落ち、正式な結婚はしなかったが、1600年に長女ビルジニアVirginia(1600―1634)、翌1601年次女リビアLivia(1601―1659)、1606年長男ビンチェンツォVincenzo(1606―1649)が生まれ認知した。なかでもビルジニアはガリレイに愛され、晩年になってからの彼の大きな慰めとなった。
1610年ガリレイはパドバ大学を去り、トスカナ大公の第一数学者兼哲学者としてフィレンツェで著作、研究活動に専念できるようになった。翌1611年リンチェイ学士院会員となるが、1615年ローマの異端審問所に告発され、翌1616年第一次宗教裁判の決が下った。1632年第二次裁判が始まり、「異端誓絶」を宣告されアルチェトリに幽閉される。1638年両眼を失明、1642年病没。いかなる葬儀も墓標も不許可であった。
[井原 聰]
ガリレイのもっとも初期の科学的業績は「小天秤」であった。これは、貨幣中に含まれる金・銀を定量的に決定するという当時の通貨体制にかかわる課題を、天秤と比重を利用して高い精度で解決する方法を論述したものである。ここには、スコラ学者と違って、実用的学問、技術的課題を実験的手法で解明しようとする姿勢がみられる。この観点は、パドバ大学での機械学での単一機械(てこ、滑車など)により複合機械を合理的に設計することを追究した講義ノート「レ・メカニケ」でより鮮明となる。ここでは、単一機械が人間の筋肉労働によって仕事をするものであるという実践的視点から、機械の有用性を論じながらも、「機械は力を得しない」こと、つまり小さな力で仕事をするには長い時間を必要とすることを指摘した。このことを「てこ」の原理に帰着させて、動力学的に展開する。すなわち、てこの原理を重さと腕の長さの比によるつり合いというアルキメデスの静的な理論としてとらえるのではなく、てこの一端に力を加えることによって他端が物体を動かすという、てこの機能の全体を把握したうえで、力の作用点の軌跡とその軌跡が描かれる時間(速さ)との関係を分析する。そして重さ・距離(てこの先が描く弧の長さ)・時間(速さ)などをまとめて「モーメント」とよび、モーメントの不変から「力を得しない」と表現する。この考えがやがて運動物体の力学、たとえば地上における慣性法則を明らかにした『加速運動について』(1604)を生むことになる。
[井原 聰]
1609年、オランダで望遠鏡が発明されたことを知ったガリレイはただちに自ら屈折望遠鏡を製作してこれを天体に向けた。そして月が完全な球でなく凹凸があることを発見し、翌1610年には木星の4個の衛星、太陽の黒点を発見、これらを『星界からの報告』として刊行(1610)、1613年には『太陽黒点論』を公刊した。
このころから自らの天文観測の結果に基づいて地動説に対する確信を深め、地動説と聖書の矛盾を弟子やトスカナ大公の母公あての手紙に述べるようになり、これがもとで1615年、教皇庁検邪聖省に異端を告発される(第一次宗教裁判)。翌1616年かなり穏やかな判決、つまり異端の説である地動説を説いてはならないという警告を受けた。
1618年彗星(すいせい)の出現にかかわって弟子の名で『彗星についての講話』を発表(1619)、ふたたびコペルニクス説が問題となり、論争に巻き込まれ、1623年に彼の批判者への反論を展開した『偽金(にせがね)鑑識官』を刊行、1625年にはそれまでの研究成果のうえにたって地動説を全面展開するための著述にとりかかり、6年間をかけて1630年に脱稿、1632年2月『天文対話』として刊行された。この著の主要な論点は、コペルニクス理論と地球上での力学理論の整合、つまり天地の同等性を述べることにあった。1632年7月発売禁止令が、10月ローマの異端審問所への出頭命令が出て第二次宗教裁判が始まった。翌1633年6月判決が下り、「異端誓絶」を強制され、12月以降幽閉の身となった。1634年長女ビルジニアが死去し、ほどなく両眼を失明した。
幽閉されてのち、大著『新科学対話』の執筆に努め、1635年ほぼ完成したが、イタリアでは出版できず、新教国オランダで1638年に出版した。1641年、晩年の弟子のトリチェリに口述筆記させて『新科学対話』第5日目用の『ユークリッドの幾何学原本について』を脱稿、これは彼の没後、1674年フィレンツェで出版された。70歳を過ぎて執筆された『新科学対話』には、教会の教義と化したアリストテレス理論を打ち壊し、実用的科学に強い関心をもち、かつ切り開いてきた近代科学創始のころの労苦も読み取れる。
論文の多くをイタリア語で書き、ラテン語を操れる人だけの学問にせず、民衆にも広く理解を求めたり、宗教と科学との分離にも見識ある態度を貫いた。
[井原 聰]
『サンティリャーナ著、武谷三男監修『ガリレオ裁判』(1973・岩波書店)』▽『豊田利幸編『世界の名著26 ガリレオ』(1979・中央公論社)』▽『S・ドレーク著、田中一郎訳『ガリレオの生涯』全3巻(1984~1985・共立出版)』▽『伊東俊太郎著『ガリレオ』(1985・講談社)』▽『青木靖三著『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書)』
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近代科学の創始者の一人。自ら作成した望遠鏡での天体観測によって地動説を唱道。それをめぐる宗教裁判は,近代の科学と宗教の対立の先駆的事例となった。ピサ大学(イタリア)で自由学芸を学んでいたときに,司教座聖堂のランプが揺れるのを見て振り子の等時性に気づいたとされる。その後,フィレンツェの科学アカデミーの一種アカデミア・デル・ディゼーニョの数学教授であったオスティリオ・リッチから数学を学んだ。そのためガリレオ・ガリレイの数学的素養は大学の伝統とは異質の性格を持ったが,1589年にピサ大学の数学教授への就任に成功。ピサ時代に斜塔からの実験で自然落下法則を発見したとされるが,実験をした確証はない。1592年にパドヴァ大学に移り,望遠鏡による天体観測を始め,地動説の確信を得た。1610年トスカナ大公コジモ2世によって大公付き首席数学者・哲学者に任命。ローマのアカデミア・デイ・リンチェイ会員。『天文対話』(1632年)によって地動説を公表し,異端審問にかけられた。
著者: 児玉善仁
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1564~1642
イタリアの科学者。1609年みずから発明した望遠鏡(倍率30)で天体を観測して,地動説に有利な事実を多数発見したが,15年,ローマ教会は地動説を禁止した。彼はその後も観測を続け,32年『天文対話』を刊行したが,地動説を擁護したかどで宗教裁判にかけられ,地動説の放棄を誓約させられ,配所で死んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…(1)木星の第I衛星。1610年,G.ガリレイによって発見され,ギリシア神話の女神官イオにちなんで名付けられた。木星中心より42万1800km(木星半径の5.91倍)のところをほぼ円軌道を描いて,1.769138日で公転している。…
…多くの聖人を列聖して聖別法を制定,聖マリア訪問童貞会やバンサン・ド・ポールのラザリスト会などの新修道会の認可,伝道のためのウルバノ大学の設立,聖務日課書の改訂,ヤンセンの著書《アウグスティヌス》の発禁など,教会改革には熱心であった。ガリレイに対しては好意を持っていたが,33年の第2回目の裁判で彼の地動説を撤回させた。三十年戦争時代の複雑な政局のなかで中立政策をとろうとして,かえってフランスの枢機卿宰相リシュリューの反ハプスブルク政策を後援する結果となった。…
…例えば,S.ステフィンはこれを自明のこととして用いて,力の合成の平行四辺形則を証明している。 しかし,エネルギーの概念の萌芽となった運動エネルギーに関する考察を初めて試みたのは,やはりG.ガリレイであった。彼は1600年ごろ,木材の上に立てた釘の頭に金づちの頭よりずっと重い物を載せても釘は木の中に入らないが,金づちを振り上げて打つだけでなぜ釘は楽に木材に打ち込まれるのかを問題にし,運動する物体には何か固有の“ちから”があると考えた。…
…考案されてから3世紀ほどを経過したにすぎないが,逐次に多様化され,学術,産業その他の諸分野にわたりさまざまな形で活用されている。
[歴史]
熱膨張を利用した古代の魔術まがいのしかけを別とすれば,温度の変化を示す装置を最初に考案したのはG.ガリレイといわれる。彼は,今日いう気体温度計に近いものを17世紀初期に作ったが,大気圧の変動の影響を受けるものであったから,真の温度計とはみなされず,サーモスコープthermoscope(温度見の意)と呼ばれた。…
…
[学会の成立]
学会の起源をどこに求めるかについては,歴史家の間でさまざまの議論があるが,1603年,チェシFederico Cesi(1585‐1630)をパトロンとしてローマに誕生したアカデミア・デイ・リンチェイAccademia dei Linceiを近代的な学会の先駆とみるのが普通である。このアカデミーにはガリレイも会員として名を連ねていたが,パトロンの死去にともなって30年ころ活動が途絶えてしまった。一方,フランスには,M.メルセンヌを中心としたメルセンヌ・アカデミーがあった。…
…今から2000年ほど昔には夏至点がここにあった。この星座の中央にあるプレセペ星団は,1609年G.ガリレイが自作の望遠鏡で微光星の集りであることを発見したので有名である。α星は4.3等,β星も3.8等と全体に暗い。…
…これはギリシア語で容器,椀,椀状にくぼんだところなどを意味するkraterに由来する。惑星の地形をあらわす言葉としてこれを使った最初の人はG.ガリレイで,月の表面にみられる多くの丸いくぼみにこの言葉をあてた。 ガリレイ以後,月の表面に大小さまざまのクレーターがあることが明らかになったが,この成因については〈隕石孔〉とする説と〈火山爆発〉とする説の2説の間に長い論争が1960年代の初めまで続いた。…
…日本での最古の観測は《文徳実録》巻三に〈仁寿元年十一月甲戌(851年12月2日),日無精光,中有黒点,大如李子〉と記されている。
[望遠鏡による近代観測]
望遠鏡による観測は1611年J.ファブリチウス,G.ガリレイ,C.シャイナー,ハリオットT.Harriot(1560‐1621)の4人によって幕あけした。その成果はG.ガリレイの《太陽黒点についての手紙》(1613)およびC.シャイナーの《Rosa ursina sive sol》(1626‐30)に著されている。…
…《天文対話》とならぶG.ガリレイの主著。1638年に出版された。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…《新科学講話》とならぶG.ガリレイの主著で,1632年に出版された。正確な表題は《プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話Dialogo sopra i due massime sistemi del mondo,Tolemaico e Copernicano》であるが,日本では一般に《天文対話》と呼ぶのが慣例となっている。…
…したがって木星のような強力な磁気圏は存在していない。 環の存在に初めて気がついたのはG.ガリレイである。望遠鏡の分解能がたりなかったため,耳のある惑星と記した。…
…様式の混在は柔らかい色調のカラーラ大理石で統一され,洗礼堂,鐘楼にも共通する壁アーチ(初層)と列柱帯(上層)による装飾構成はピサ様式として近隣のルッカ,ピストイア,またリグリア海を越えたサルデーニャ,コルシカ両島に伝播した。ピサ生れのガリレイは同大聖堂内の揺れるランプを見て振子の等時性を直観したと伝えられる。 鐘楼(1173~14世紀後半)は地盤の不同沈下で建設中に傾き,そのまま完成された。…
…イタリアの物理学者,数学者。フィレンツェに生まれ,1639年ガリレイの弟子となった。ガリレイの死後もトスカナ大公フェルディナンド2世の庇護(ひご)を受け,実験科学者の学会であるアカデミア・デル・チメントを主宰した。…
※「ガリレイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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