改訂新版 世界大百科事典 「キエフロシア」の意味・わかりやすい解説
キエフ・ロシア
Kievskaya Rus’
ロシアの政治,経済,文化の中心がキエフにあったキエフ時代(ほぼ9世紀半ばから13世紀半ばまで)のロシア。キエフ・ルーシ,キエフ国家ともいう。
国家の成立
12世紀初めに編さんされたロシア最古の年代記《過ぎし年月の物語》によれば,9世紀半ばには,東スラブ人の有力部族ポリャーニン族がドニエプル川中流域に定住してキエフを中心とする小規模な国をつくっていた。上流域にはスモレンスクを中心とするクリビチ族がおり,さらに北方にはノブゴロドのイリメニ・スラブ族が勢力を張り,ポロツクにはポロチャニン族その他がいて,それぞれ共通の言語,習慣,信仰,交易活動を通じてゆるやかなつながりを保っていた。キエフやノブゴロドなど,東スラブ人の初期の都市は諸族のまとまりの中心であると同時に,バルト海と黒海,カスピ海をつなぐドニエプル,ボルガ水系の遠距離商業路(いわゆる〈ワリャーギの道〉)の要地でもあった。これらの都市の多くは,初め,柵・土塁・河川などで囲われた防備集落,砦,交易地などから発達したが,その周辺地域には,狩猟,漁業,野生蜂蜜の採取など,河川・林間の諸生業に従事する人びとがおり,伐採焼畑農業,耕作農業(南部),馬,牛,羊,豚の飼育なども行われていた。商人が往来し,手工業者が現れて,船,家屋,農具,武器などの生産にはげむようになると,都市と周辺地域の相互依存関係はさらにいっそう緊密なものになり,しだいに原初的な都市国家(都市を中心にした小規模な領域国家)が生まれてくる。
この間,部族同士の抗争や統合の渦のなかから優越部族ないしは有力部族連合が現れて,指導力,統率力を競い合い,それぞれの都市国家のあいだの格差を増大させていく。9世紀になると,北のノブゴロドと南のキエフとが政治と経済の両面で際だってきた。キエフの支配者アスコリドとジール(兄弟の公)による860年のコンスタンティノープル攻撃の遠征は,ビザンティンの人々にも強い印象を残した。北のノブゴロドには,スラブ人の公ワジムを征して権力を握ったノルマン人の伝説的首長リューリクがいたが,その死後,遺児イーゴリを奉じた従士団の長オレーグ(在位882-912)の軍勢が南下進攻を始め,アスコリドとジールを倒して都市国家キエフの支配者となった。これが882年のことであり,北のノブゴロドと南のキエフは,名目上は単一のリューリク朝君主の共通の支配下に入り,ここに全ロシア的なキエフ・ロシアが誕生するのである。
軍事遠征と歴代諸公
キエフ・ロシアの統合力はそれほど強いものではなかった。実際は,キエフ大公を頂点にいただくいくつかの都市国家ないしは領域国家が,大公の宗主権と貢税徴収権を認めることによってゆるやかな統一性を保っていたにすぎない。とくに楕円の一方の中心ともいうべきノブゴロドの自立性は強く,歴代キエフ大公はこの地に拠った一族の長子の反抗・離反にしばしば手を焼いた。ドレブリャニン,セーベル,ラジミチなどの諸族も完全に服属したわけではなく,キエフ大公の政治力は土着スラブ諸族に対しても容易に浸透できなかった。そのために,大公の権力は10世紀を通じて,何よりもまず大規模な軍事遠征の組織者,統率者として立ち現れるほかなく,そのことを通じて初めて大公権による統治力の強化が可能となった。
事実上のリューリク朝の始祖とみられるイーゴリ大公治世下の913年には,キエフ・ロシアの軍勢はカスピ海のバクーにまで到達し,943年にはカフカスの都市バルダーを占領したほか,941年にはコンスタンティノープル周辺地域と小アジアの北岸を荒らし回った。火薬と油の炎を吹き出す新兵器の〈ギリシア火〉で撃退されたイーゴリ軍は,944年にビザンティンと和を結び,コンスタンティノープルでの商取引についての規制を受け入れた。
遠征の失敗を埋め合わせるかのように,イーゴリ大公はその翌945年,国内の有力部族ドレブリャニン(族長マル)の下へ貢税の追加徴集に赴き,殺害されてしまう。公妃(摂政)オリガの復讐は過酷をきわめ,ドレブリャニン族の住地は破壊され,住民多数が殺された。ほぼ同時に推進された国内改革において,オリガは従来の貢税のほかに新しい租税を取り立て,巡回せずに収納物を受け取れるように貢税納入所や陣屋を各地につくった。獣の捕獲場や土地の境界標を定め,新しい集落をつくったのは,所有制度の進展に対する一定の対応でもあった。オリガの改革は,大遠征なしには強化できないそれまでの大公権力を,領域支配の新しい基盤の上に据え直そうとする努力であった。しかし,息子のスビャトスラフ(在位945ころ-972ころ)は,母の意図を無視して父の遠征政策を続行し,これをさらに大規模なものにした。絹織物,金・銀製品,貨幣,ブドウ酒,武器,ぜいたく品,捕虜奴隷など,大量の戦利品がキエフに流れこんできた。南ロシアのハザル国(ハカンkhakanを長とするユダヤ教の遊牧商業国家。ハザル・ハーン国ともいう)に大打撃を与え,ブルガリアを征討したスビャトスラフは,ビザンティンと戦って敗北した。ドナウ河畔に都を移してさらに支配圏を広げようとする壮大な意図は不発のまま終わり,帰路,騎馬民族のペチェネグ人の待伏せに遭って殺害され,頭骨は酒杯にされた。
国際情勢の変化と国家の最盛期
8~13世紀には,西アジアからザカフカスに至るイスラム諸王朝とビザンティン帝国との大きな対立構造があり,その周辺でアジア系遊牧騎馬民族のマジャール人,ペチェネグ人,トルコ人,ポロベツ人(クマン人,キプチャク人とも呼ぶ)などの活動が相次ぎ,ときには有力諸国のどの陣営とも結びついてその勢力を維持,拡大しようとしていた。10世紀の初め,北アフリカにファーティマ朝が興って西アジアのアッバース朝と対抗する一方,ブルガリア帝国が強力になってビザンティン帝国を脅かし,後者の同盟国でもあった南ロシアのハザル国がペチェネグ人の攻撃を支えきれなくなった。黒海,カスピ海,南ロシア,ドナウ川流域の勢力均衡が崩れ,キエフ・ロシアの軍事遠征は,以前にも増して活発になる。ビザンティンは,ハザルに見切りをつけ,キエフのスビャトスラフをけしかけてブルガリアに向かわせる一方,ペチェネグ人を買収してキエフを占領させるなど,権謀術数の限りを尽くすが,989年春,キエフのウラジーミル大公(聖公。在位980ころ-1015)は,黒海におけるビザンティンの要地ケルソネソス(現,セバストポリ市内)を包囲し,これを占領してしまう。翌年ここを引き揚げたウラジーミルは,キエフでギリシア正教を国家宗教と定めた。ビザンティン皇帝の妹アンナが前後して彼の下に嫁ぎ,ビザンティンとロシアの敵対関係は,相互依存の関係に大きく変化する。
ウラジーミル大公は,母の違う12人の息子を各地に据え,新しい町を建て,そこに征服した諸族の有力者を配し,教会をつくって十分の一税を納めるなど,全国支配の強化に努めた。その子ヤロスラフ大公(賢公。在位1019-54)の治世下で,支配領域は大いに拡大し,北はラドガ湖から南はドニエプル川中流域まで,東はオカ川から西はブーグ川までに広がった。ヤロスラフはスウェーデン王女を妃に迎え,イギリス,ビザンティン,フランス,ハンガリーの諸王とも,娘・息子を通じて姻戚関係を結んだ。
諸公の争いと国勢の変化
スビャトスラフもウラジーミルも,その死後ただちに子らのあいだで内乱が起こったが,一族が増えるにつれてこうした争いはやむことなく続いた。その背景には,ときとしてペチェネグ人やポーランド諸公とも結んで相手方を倒そうとする南ロシアの諸公と,ウラジーミルやヤロスラフのように北のノブゴロドを支持基盤として海のかなたのワリャーギ(ノルマン人)の戦闘力を頼みにする北方的な諸公との歴史的な対立があった。11~12世紀にかけて,諸公国の形成が進むにつれて,諸公自身の支配領域からの出撃,帰還がしだいに常態となるが,それでも諸公の軍事的組織能力は,在地領主や地方貴族のそれを上回る広域性をもち,そのことが長く公の存在価値を決定した。
9~10世紀半ばまでの諸公は,武装した従士団を率いて各地の住民集落を回り歩き,命令を伝達しながら簡単な裁判を行った。テン,ビーバー,リスなど各種の毛皮・獣皮,蜂蜜,蜜蠟などを貢税として徴集する冬から春への巡回徴貢(ポリュージエpolyud'e)の際には,住民は公や従士に食料を提供し,馬にかいばをやらなければならなかった。ところが,11世紀半ばになると,とくにキエフ周辺の先進地帯では,公や貴族の世襲地が増え,領地管理人,執事,巡回徴貢人なども現れて所領経営のしくみがしだいに整ってくる。領主の館,召使の住居,作業場,穀物収納庫,牛馬や羊の小屋などに加えて,付近には隷属農民や奴隷の粗末な小屋が立ち並ぶようになった。町や村の住民をより恒常的に,直接的に統治する各種の地域的支配圏が成長し,それにつれて,これまでの諸公間の争いは,諸公国間の争いに変化し,住民は不断の支配を受けるようになった。
ヤロスラフ大公は,11世紀半ばの没年まぎわに息子たちに〈指示〉を与え,長子の大公位就任を命ずるとともに,これまでのような兄弟間の争いを強くいましめ,分与された町や領域をお互いに尊重し合うように求めた。いわば,領域的支配圏の形成という既成事実の追認であった。その後,12世紀初頭にかけて繰返し開かれた諸公会議においても,諸公国(分領公国)の自立傾向は変わらず,協力よりもむしろ相互対立の確認に終始し,大公権下のキエフ・ロシアの統一はいっそう名目化していった。
12世紀初めの最後の英主ウラジーミル・モノマフ大公(在位1113-25)は,地域住民を苦しめていたポロベツ人への反撃を大義名分として,足並みのそろわぬ一族諸公を団結させ,大がかりな軍事遠征を敢行して大勝利をおさめた(1111)。2年後,キエフ市民の政治的蜂起に乗じて大公の位に就いたモノマフは,市民たちの債務緩和の措置を含む改革を実施し,名声を高めた。遠国への軍事遠征を組織するなかで成長してきた大公の権力は大きく変化し,発達した都市経済への責任ある対応という封建君主なみの措置をとる一方で,異教徒(ポロベツ人など)に対して,〈ルーシ(ロシアの古名)の国〉を守るキリスト教的な君主としての性格を強めていった。キエフの都自体は,ウラジーミル大公の死んだ1125年から,キエフが略奪・破壊された(ウラジーミル・スズダリ公国のアンドレイ・ボゴリュプスキー公による)69年までの半世紀足らずの間に,大公が18回も交代するありさまで,昔のような政治的権威はすっかり失われた。しかし,11世紀の昔,ブレーメンのアダムが〈コンスタンティノープルの競争相手〉とたたえた国際商業都市としての繁栄は衰えながらもなお続き,13世紀半ばのモンゴル人の侵攻を迎えることになる。
社会と文化
キエフ国家の諸都市では,〈民会(ベーチェ)〉がソフィア大聖堂や公の館の広場で随時開かれ,都市民が自由に参加した。キエフでは12世紀半ばになると民会の活動は目だたなくなるが,ノブゴロドでは同じころに最盛期を迎え,貴族・在地領主と民衆の合議機関として長く機能した。ここでは,公の召致・追放,市長官,主教,千人長など有力者の選出・交代,和戦の決定,条約の締結,犯罪者の処罰,役人の不正の摘発,戦士の徴募など,立法・司法・行政の権限を未分化のまま行使し,民会の召集を告げる鐘の音は,往々にして公や貴族,上層市民に対する民衆蜂起の合図ともなった。しかし,賛否の叫び声の大きさで審議を進めるような古い部族集会のなごりもあって,複雑化する都市生活には対応しきれず,貴族・大商人の介入・操作がしだいに強まり,13世紀以降の民会は,支配的な一族・党派間の党争や武力衝突の場に転化することが多くなった。専制君主を自称したイワン3世は,15世紀末のノブゴロド征服の折に民会の鐘を撤去してしまうが,鐘の記憶は詩歌や伝承のなかに生きつづけ,ロシア史における自由と民主主義の原点となった(19世紀半ばのゲルツェンらによる解放運動機関誌《コロコル(鐘)》の名もこれに由来する)。
キエフ時代にまとめられた《ルスカヤ・プラウダ(ロシア法典)》の最古の部分には,部族社会の解体を示すかのような,近親者の復讐権を制限して賠償金で代用させる条項なども見受けられるが,その大部分は社会における身分差の増大と商品貨幣経済の浸透を暗示する条項である。すなわち,奴隷,農民,従士,役人など,身分によって罰金が2倍から16倍にもなり,家畜の略奪,境界侵犯,野生蜜蜂の巣の破壊,船の盗奪などの罰則規定のほか,12世紀の補則には利子規定まで記載されるようになった。
建造物は,一部の著名な石造教会を除いて,そのほとんどが木造であった。豊かな森林から切り出された丸木を荒削りしたまま組み合わせてつくる素組みの家から,動物を彫刻した木造の大円柱,複雑な組合せの邸宅,壮大な聖堂にいたるまで,多種多様な木造建築があり,泥道の舗装にまで丸木を使った。ノブゴロドの大工は,とくに有名であった。
ギリシアの修道士キリルとメトディオスの兄弟がつくった古スラブ文字(教会スラブ文字)が上層支配層のなかに広まるにつれて《年代記(レトピシ)》と称される編年体の歴史書が修道院を中心に編さんされるようになった。冒頭に述べた《過ぎし年月の物語》は,その代表的なもので,《原初年代記》ともいわれている。内容は,キリスト教説話など宗教色がかなり強いが,スラブ諸族の地誌や慣習の叙述から始まってルーシの国の建国事情,英雄的諸公の物語を経て,当時の現代史であった12世紀初めのスビャトポルク大公にまつわる話で終わっている。口承の民間説話,叙事詩,聖者伝,条約文,説教などの集大成であり,17世紀まで各地で続くロシアの年代記の原型になった。
キエフ・ロシアで好まれた英雄叙事詩の主人公には,イリヤ・ムーロメツのような大力無双の勇士たちが多い。モノマフ公のような文武両道の英主も人気があった。その反面1185年ポロベツ人の捕虜になって脱走,生還したイーゴリ公を神の名において祝福する《イーゴリ軍記》のような作品も生まれた。長兄の刺客に無抵抗で殺され,十字架の死に至る従順さを貫き通したボリスとグレープの兄弟(ウラジーミル聖公の子)の物語も好まれた。これらは,単純な強者崇拝とは大いに異なるロシアの思想伝統の一面を示すものであった。
キエフ・ロシアでは,先住スラブ人,フィン人らの原始的農業と狩猟採取生活にはぐくまれた自然崇拝やアニミズムの世界が広く存在した。したがって,10世紀末にウラジーミル大公がキリスト教を民衆に押しつけた際の反発も大きく,いわゆる〈妖術師〉に率いられた民衆蜂起(とくに11世紀)が長く断続し,後世の体制的なギリシア正教と,変化した民間キリスト教の〈二重信仰〉を生み出すもとになった。
さらにまた,ノルマン人の海神ポセイドンの祭りがはるかボルガ中流域にも見受けられる一方で,イスラム世界のアラブ貨幣がバルト海周辺地域で出土するというような歴史状況は,ウラジーミル大公のギリシア正教採用説話(正教,カトリック,イスラム,ユダヤ教をそれぞれ現地で調査させた上で自ら決定したという)と同様に,キエフ・ロシアの内包する文化の多様性と国際性を端的に示すものといえる。12世紀末でさえ,北東のウラジーミル市の代表的な聖堂や教会の外壁は動植物(鳩,獅子,唐草模様など)の浮彫や円輪模様で飾られ,当時の金属細工品,七宝などの工芸品の図柄とともに,西アジア文化の影響がきわめて濃厚なのである。
国家の解体
キエフ・ロシアの諸公は,遊牧騎馬民族の武力を利用し,共存し,ときにはその首長一族と政略結婚さえしたが,ペチェネグ人(10~11世紀前半),ポロベツ人(11世紀後半~12世紀)が最大の強敵であることに変りはなかった。ウラジーミルの建立したプレオブラジェンヌイ教会や,ヤロスラフのソフィア大聖堂などはいずれも彼らへの戦勝とかかわりがあり,モノマフの大公位就任も彼らへの勝利なくてはありえぬことであった。しかしながら,地域住民にとっては,たとえ諸公軍が遊牧騎馬民族の侵攻を食い止めてくれたとしても,諸公軍同士のキエフ争奪戦をやめさせることはできなかった。戦乱のたびに耕地を荒らされ,家畜を奪われ,都市の破壊,略奪に苦しむことが多く,東北ロシアに移り住む者がしだいに増えていった。
それでも,ハザル国やブルガリア帝国の軍隊の双方から挟み撃ちされて滅びた国々に比べれば,キエフ国家はまだ恵まれていた。とくにまだ開けていない北東部では騎馬民族の侵攻もなく,キエフ・ロシアという貢税制国家の傘の下で徐々に封建制を成熟させながら独立諸公国を生み出すことができた。すなわち,貢税と戦利品による富の蓄積に成功した公,貴族,従士の軍事的権力は,土着の諸公やその一族,側近者をしだいに統合,征服しながら,領域支配にふさわしい封建的な政治権力を要所に生み出していったのである。上からの公一族の全国配置による分領諸公,分領地の発生と,下からの土着領主の台頭によって生ずる新たな抗争もまた,封建的諸公国の分立割拠とキエフ・ロシアの解体をいっそう促進する要因であった。これら分立する諸公国のうち,伝統ある北のノブゴロド共和国が最も繁栄し,南西のガーリチ・ボルイニ公国も豊かな経済力を誇っていたが,政治的・宗教的権威の点では,北東ロシアのウラジーミル・スーズダリ大公国がしだいに有力となり,その分領地の一つであったモスクワ公国が14世紀に急速な発展を遂げ,全ロシア統一のイニシアティブをとっていくのである。
執筆者:田中 陽児
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