ウクライナの首都。人口262万5094(2005)。旧ソ連ではモスクワ,レニングラード(現,サンクト・ペテルブルグ)に次ぐ第3の都市であった。面積は780km2で,市内は12の地区に分かれている。ドニエプル川中流の両岸にまたがり,右岸の丘陵と河岸段丘の部分が古くからの町であり,左岸の低地は比較的新しく発展した部分で面積も小さい。北緯50°,森林帯の南端にあり,キエフの南100kmからステップ地帯が始まる。気候は穏やかな大陸性で,1月の平均気温は-5.8℃,7月は19.5℃。年降水量は600mmで夏に雨が多い。
キエフは〈ロシアの都市の母〉と呼ばれるように旧ソ連で最も古い歴史をもつ都市である。ロシア最古の年代記《過ぎし年月の物語》にはキエフ建設に関するキー兄弟の伝説が書かれている。ソ連考古学によると,キエフ建市は5世紀後半から6世紀前半のこととされ,1982年には〈キエフ建市1500年〉が盛大に祝われた。キエフはハザル・ハーン国(7~10世紀)の軍事拠点としてその基礎がつくられた(ハザル族の将軍クーの砦ヤバをキエフの語源とする説もある)。9世紀後半コンスタンティノープルの国際的重要性が増すにつれ,コンスタンティノープルとバルト海をつなぐ〈ワリャーギからギリシアへの道〉すなわちドニエプル・ルートが形成された。キエフはこの道と,昔からの内陸の商業路であるハザルの首都イティリと南ドイツのレーゲンスブルクを結ぶ道の交差する地点として急速に発展した。9世紀末にキエフ・ロシアの首都となり,さらにキリスト教導入のあと府主教座も置かれ,政治,経済,文化の中心として発展をつづけた。1100年ころにはキエフの人口は,およそ4万となった。
キエフ国家諸公の争い,ドニエプル商業路の国際的地位の低下,ポロベツ人との戦闘などを背景に12世紀後半以降キエフは衰退に向かい,1240年12月にはモンゴル軍によって征服・破壊された。1300年府主教座はキエフからクリャジマ河畔のウラジーミルに移された。14世紀後半キエフはリトアニア大公国の支配下に入ったが,1416年,82年とクリミア・タタールの激しい攻撃と略奪にさらされて荒廃し,かつてのキエフの面影は失われた。1569年のポーランドとリトアニアによるルブリン連合以来,キエフはポーランド支配下に入った。17世紀初めザポロージエ・コサックの指導者として登場したサハイダーチヌイはキエフの再建にとりかかり,次々に教会を再建し,ロシア正教会の聖職者を保護し,1631年にはキエフ神学校も設立されたため,キエフは再び文化的中心としての地位をとりもどした。48年に始まったフメリニツキーの乱を経て,キエフは17世紀後半ロシア領に編入された。その後1772年のポーランド分割による右岸ウクライナのロシア帝国への併合に伴い,キエフはロシア帝国南西地方の主都およびキエフ県の県都となり,1834年にはキエフ大学も設立されたが,文化的には19世紀前半までポーランドの影響が優勢であった。
19世紀初めキエフにはデカブリストの組織が,また1846年にはT.G.シェフチェンコ,N.I.コストマーロフなどのキリル・メトディウス団が政治結社として形成された。60年代以降キエフにはインテリゲンチャのサークルであるキエフ・フロマーダが組織され民族的文化運動を展開した。73年にはロシア地理学協会キエフ支部が設置され,キエフを中心とした地域の地理,歴史,民俗資料の収集に従事した。また70年代から80年代にかけてキエフはナロードニキ運動の中心地の一つでもあった。90年代初めからはロシア社会民主労働党系の組織も形成された。1917年キエフには中央ラーダ政府が成立したが,自治,独立をめぐって臨時政府,ソビエト政府と対立した。キエフは1920年までの内戦期を通じてめまぐるしくその支配者が代わり,戦禍にさらされた。34年キエフはハリコフに代わってウクライナの主都となった。41年からの第2次世界大戦の独ソ戦でキエフはドイツ軍に占領され,市内の40%が破壊された。バービー・ヤールなどではユダヤ人を中心に20万人以上がドイツ軍により虐殺された。
43年キエフは解放され,戦後の復興が開始された。その後キエフはウクライナ共和国の政治,経済,文化の中心として順調に発展をとげている。ウクライナ共産党中央委員会,ウクライナ最高ソビエト幹部会,ウクライナ政府閣僚会議がキエフに置かれた。経済の分野では金属,機械,食品などの工業中心地である。キエフ大学をはじめとする18の高等教育機関があり,ウクライナ科学アカデミー本部もキエフにあり,その図書館は1000万冊の蔵書を擁している。市内にはシェフチェンコ博物館など28の博物館がある。キエフはウクライナのジャーナリズムや出版の中心で,約20の出版所がある。キエフには歴史的建築物,記念碑が数多く,現在でも国内や国外からの訪問者が絶えない。キエフ・ロシア時代の学問の中心地ペチェルスカヤ大修道院(キエフ洞窟修道院)の地下洞窟には100体におよぶ修道士の遺体がミイラとなって保存されている。キエフはドニエプル川左岸の住宅地などを中心になお発展を続けているが,南国の明るい陽光と豊かで美しい緑に恵まれ,旧ソ連の都市のなかでもとくに魅力ある都市の一つに数えられている。
執筆者:中井 和夫
キエフが建築,美術の分野で果たした役割は,10~12世紀にかけて,ギリシアの建築家,画家の指導のもとにビザンティン様式の摂取につとめ,それ以降のロシア芸術の発展の基礎を築いたことにある。キエフ最古の本格的教会堂デシャチンナヤ(996)は礎石の一部を伝えるにすぎないが,続くソフィア大聖堂(1037ころ)は17世紀のウクライナ・バロック様式による改修にもかかわらず,当初のギリシア十字式五廊プランのなごりをとどめ,アプス周辺にも創建時代のモザイクやフレスコ壁画を見ることができる。さらにペチェルスカヤ大修道院のウスペンスキー大聖堂(1075-89),ズラトベルキー修道院のミハイロススキー主聖堂(1108)など多くの教会堂が建設されたが,いずれも原状をとどめていない。近世の代表的建築では,建築家ラストレリ(1700ころ-71)によるアンドレーエフスキー教会(1753)がある。また,市内の東西美術館は,6~7世紀の初期のイコンの所蔵で知られる。
→キエフ・ロシア
執筆者:高橋 榮一
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ロシア最古の都市。ドニエプル川の右岸にある。9~12世紀にキエフ・ロシアの首都として商業や文化が栄えた。ここのソフィア大聖堂やペチェルスキー修道院は有名。現在はウクライナ共和国の首都。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ロシアの政治,経済,文化の中心がキエフにあったキエフ時代(ほぼ9世紀半ばから13世紀半ばまで)のロシア。キエフ・ルーシ,キエフ国家ともいう。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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