キプロス(英語表記)Kypros[ギリシア]
Kıbrıs[トルコ]

精選版 日本国語大辞典 「キプロス」の意味・読み・例文・類語

キプロス

(Cyprus) この地に生まれたといわれるアフロディテ別名キプリス」に由来

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改訂新版 世界大百科事典 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス
Kypros[ギリシア]
Kıbrıs[トルコ]

基本情報
正式名称キプロス共和国Kypriakí Demokratía(北部トルコ系住民は,北キプロストルコ共和国Kuzey Kıbrıs Türk cumhuriyetiの成立を宣言している) 
面積=9251km2 
人口(2005)=80万人(キプロス共和国政府発表) 
首都ニコシアNikosía(トルコ名レフコサLefkoşa)(日本との時差=-7時間) 
主要言語ギリシア語トルコ語 
通貨=キプロス・ポンドCyprus Pound(2008年1月よりユーロEuro,トルコ系住民地域ではトルコ・リラ)

地中海の北東端,トルコの南64km,シリアの西97kmに位置する地中海第3の島(面積9251km2)。トルコ語ではクブルスKıbrıs,英語ではサイプラスCyprus。1960年に独立して共和国となり,同年国連に,61年イギリス連邦に加盟。しかし74年のトルコ軍進駐以来,北部はキプロス・トルコ連邦国Kıbrıs Türk Fedele Devletiの成立を宣言(83年北キプロス・トルコ共和国として独立を宣言),南部はキプロス共和国Kypriakí Demokratíaにとどまり,住民の避難・移動によって,島は分断状態となった。北キプロス・トルコ共和国は現状の永久維持を,南のキプロス共和国は島の再統一を主張して現在にいたる。首都はともにニコシア(トルコ名レフコサLefkosa)。

海岸線は曲折に富んで湾入や岬が多く,とくに北東部にはアンドレア岬が突出している。石灰岩質の山地がほとんどで,北側のキレニアKyrenía山脈の最高点は1023m,南側の最高峰はトロードスTróodos山塊のオリュンポスOlýmpos山(1951m)である。両山地の間をメサオリアMessaoría平野が東西方向に入り込んでいる。大きな川や湖はなく,山地には降雨季にだけ流れる小川が多い。典型的な地中海性気候で,年平均気温はニコシアで約20℃。高温乾燥の夏(6~9月)と雨がちで不順な冬(11~3月)とにはっきり分かれ,春・秋は短い。

キプロス共和国の公式推計(1994)によれば,島全体の総人口(72万9800)の約85%がギリシア系,約13%がトルコ系で,ほかに少数のアルメニア人,マロン派教徒などがいる。ギリシア系住民のほとんどがギリシア正教の独立教会に属する。この教会は,431年のエフェソス公会議およびビザンティン皇帝ゼノンの勅令によって,アンティオキア教会からの独立を認められて以来,アラブ,ベネチア,トルコ,イギリスなどの異教徒支配の間も一貫して独立と自治を獲得してきており,ギリシア人の指導者としての大主教の影響力は伝統的にきわめて大きい。トルコ系住民のほとんどはスンナ派のイスラム教徒である。共和国の公用語はギリシア語とトルコ語で,英語もある程度通用する。北キプロスでは地名にもトルコ語化が進められている。

1960年憲法は,独立主権の共和国と大統領制を規定している。大統領はギリシア系,副大統領はトルコ系で,各民族集団から選出され,ともに任期は5年。正・副大統領は行政権を行使し,副大統領は国防・外交の問題で拒否権を行使できる。歴史的背景と住民構成を配慮して内閣,国会,行政機関の構成員は,ギリシア系7,トルコ系3の比率となっている。国会は一院制で定員50議席,任期5年,議員は各民族集団から選出される(ただし1963年以降トルコ系住民は議会に代表を送っていない)。

 1960年憲法に規定されたようなギリシア系とトルコ系の権力分担の体制も63年11月マカリオス大統領が提起した憲法改正案を,キュチュク副大統領がトルコ系住民に不利であるとして拒絶したのを契機に破綻し,両系住民の対立が再燃,武力衝突に発展した。好戦的なエノシス(ギリシアへの復帰)運動の高揚に対抗したトルコ系住民は,トルコ本国の軍事的支援を要請,同時にトルコ系議員,公務員・軍人全員を引き揚げ,国の分割を主張した。64年国連軍が派遣され,両民族間に緩衝地帯(グリーン・ライン)を設置して平和維持に努めた。67年11月に成立したギリシア軍事独裁政権によるキプロスへの干渉は,またもや両民族の騒乱を引き起こしたが,このときも国連軍により事態は凍結された。しかしついに74年7月アテネの軍事政権とその支持をうけたエノシスの地下運動組織エオカの軍事クーデタによってマカリオスが追放されると,トルコ軍はキプロスへの全面的な軍事介入を断行,カエリニアを中心に首都ニコシアの北部を含む島の38%を占領した。このエオカのクーデタの失敗を契機として74年7月23日にはギリシアの軍事政権も崩壊し,11月にはマカリオスが再び大統領として帰国した。しかし75年北部ではキプロス・トルコ連邦国を宣言,同年9月までに島総人口の約3分の1が難民となって南北それぞれに移動を行ったため,キプロスは完全に北のトルコ系と南のギリシア系とに二分される結果となった。さらに83年11月,北部トルコ系住民は,〈北キプロス・トルコ共和国〉を宣言したが,今日これを承認しているのはトルコ一国のみである。

 マカリオスの死(1977)後,南のキプロス共和国は,大統領キプリアヌ(在職1977-88),バシリウ(1988-93),クレリデス(1993-2003),パパドプロス(2003- )のもとで,南北の分断という事態をあくまで一時的なものとみなし,再統一を目ざすべく,国連,非同盟諸国,イギリス連邦,EU諸機関に働きかけてきた。これまで国連主導のもとで,数回にわたって調停が行われ,〈連邦制〉による解決などが提示されたものの,大きな進展は見られていない。両民族のコミュニティでも対立は継続し,特に96年に,北部占領に抗議してギリシア系キプロス人が国連の緩衝地帯に侵入したことに端を発する一連の殺害事件は,南北の緊張を高めた。97年のギリシア系キプロス人の防衛を目的としたロシアからのミサイル購入の動きは,北キプロスのみならず,アメリカ,ヨーロッパ諸国に非難され,その射程距離内に位置するトルコは,配備阻止のための軍事行動の可能性を明らかにした。一方ギリシアはこれに反発し,キプロス共和国の対トルコ防衛政策を支持した。また,キプロス共和国が1990年に正式にECへの加盟申請を行って以来,北キプロスは一貫してそれに反対し,トルコとの合併を示唆するなど強硬な態度をとっている。

独立当時は,遅れた農業(労働人口の46%,GNPの18%)を中心とした低開発経済の諸特徴を示していたが,国連の開発案に基づく五ヵ年計画や世界銀行・IMFの融資の下に,1960年代の国民経済は飛躍的に成長し,観光産業および手工業産業の急速な拡大によるにわか景気の時代を迎えた。にもかかわらず,この増大する繁栄の陰にトルコ系キプロス人はむしろ抑圧され,彼らの1人当りの収入は61年にはギリシア系キプロス人の80%であったものが,71年には50%にまで落ち込んだ。これが1963-64年の両民族分極化の一因に考えられている。74年の事変以後の島の分断と難民の問題は共和国の経済発展にとって致命的であった。1960年以降,年平均7%を示していた経済成長率は止まり,失業率は一時は難民のために30%に達した。しかしその後の修復も著しく,70年代後半には再び好景気を迎えた。この要因には,難民収容の必要から生じた建築ブーム,海外移民からの資金援助,農作に適した好天に恵まれたこと,レバノン内戦後の同地からの企業家の流入,輸出の増加(とくにアラブ諸国が全体の48.2%を占めるまでに伸びた)によると見られている。

 一方,72年のECとの間の連合協定以来,準加盟国としてEUとの関係は強化され,98年3月には正式加盟手続が開始された(2004年正式加盟)。

 今日,産業の中心をなすのは,観光,〈オフショア〉業務を含む銀行業を主とするサービス業で,GDPの69.2%を占め,全労働人口の62%が従事している(1994)。海運業も急速に成長し,95年にはキプロス船籍登録は世界第4位となった。かつての主産業であった農林水産業に占める労働人口は次第に減少し,1985年22.6%から94年には12.4%(GDPの5.3%)になった。産物は小麦,大麦,ジャガイモ,ニンジンその他野菜類,マメ,かんきつ類,ブドウである。工業部門はGDPの25.4%,全労働人口の25.6%を占める。鉱産資源としては古代より知られる黄銅鉱のほかに,黄鉄鉱,石綿,クロム,セッコウなどがある。衣料品は主たる輸出品で全輸出額の20.3%(1994)にものぼる。全体的な輸出額の増加にもかかわらず貿易収支は毎年大幅入超である。主な貿易相手国はイギリス,アメリカ,アラブ諸国,フランス,ギリシアである。輸出品物は衣料,イモ,薬品。輸入品目は自動車,鉱物,織物,食糧。以上が北キプロスの占領地域を除外した状況であるが,一方,南北の経済格差は拡大しつづけ,1994年の時点では,1人当りのGNPで比較すると,南(1万2500米ドル)は北(3093米ドル)の4倍の差を示している。

アジア,アフリカ,ヨーロッパ3大陸に囲まれた東地中海の要衝にあって,古来さまざまな民族がこの地を往来し,多彩な歴史を織りなしてきている。遺跡から確認されるところでは,キプロスには前5800年ころより新石器文化の存在が認められる。ついで前2300年ころ青銅器文化を迎え,その後期(前1600-前1050)には,オリエントの商業中心地として繁栄したことはヒッタイトやメソポタミアの記録からも明らかである。キプロスは,この時代以来豊富な銅の産出で知られるようになり,キプロスという呼称も,これに関係するといわれる。前1450年ころには,エジプトのトトメス3世の支配を受け,前1400年ころからミュケナイとの交易が開かれ,前13世紀にはアカイア系ギリシア人(アカイア人)が島に到来,植民を行った。このギリシア文化の影響は決定的で,鉄器文化時代(前1050-前950)には,キプロス原住民とアカイア人の文化的融合が進み,ここにシリア,アナトリア的要素を含む現代キプロス人の核ができたと考えられる。

 オリエント各地との交易は前9世紀以降さらに活発になり,前800年ころにはフェニキア人が島に来住した。前709-前670年アッシリア支配,前560年ころよりエジプト支配下に入ったが,この両支配の間の約100年が古代キプロスの黄金時代で,都市国家が発達し王政が敷かれるようになった。前525年ころアケメネス朝ペルシアの支配に帰し,その下ではサラミス王エウアゴラスが反ペルシア・親アテナイ勢力の伸張に努め,前350年にはキプロス諸王が反乱を起こすなど,解放の動きはあったが成らず,アレクサンドロス大王のイッソスの勝利(前333)ののち,キプロス諸都市は西方からの征服者を迎え入れた。やがてプトレマイオス家の領有に帰し,ついで前58年ローマに併合された。プトレマイオス家とローマ支配時代には,パフォスのアフロディテの聖壇が民族宗教・文化の中心であったが,1世紀半ばころにはパウロとバルナバの伝道がここに及んでキリスト教化が始まった。

 ローマ帝国の東西分裂(395)後は,ビザンティン帝国の一部となったが,7世紀以来しばしばアラブ・イスラム教徒の侵入を受け,ニケフォロス2世(在位963-969)によってビザンティン帝国に奪回されはしたものの,第3回十字軍時代には,イギリスのリチャード1世に占領されて(1191-92),テンプル騎士団に根拠地として与えられた。その後エルサレム王国(1099-1187)の王であったフランスのギー・ド・リュジニャンの手に帰し,以後3世紀にわたりこの王朝の下で封建君主制が続いた。15世紀以降は地中海上の覇権を争うジェノバ,ベネチア両国の基地と化し,1489年ついに島全体がベネチアの領有に帰したが,1571年にはオスマン・トルコがこれに代わった。

 オスマン帝国支配初期,アナトリアからは多くのトルコ人のイスラム教徒が移民し,キプロス各地に拡散してキリスト教徒住民と共存・融合するようになった。これがトルコ系キプロス人の起源である。18世紀後半以降ギリシア系キプロス人は,島の解放を目ざしてしばしば反乱を起こすようになり,1821年に開始されたギリシア本土の独立戦争にも多くが参加した。しかし露土戦争ののち1878年,スエズ運河防衛の軍事基地としてキプロスに注目していたイギリスが,オスマン帝国から島の行政権を獲得し,1914年に併合した。そして1925年にはローザンヌ条約(1923)に従って正式にイギリスの直轄植民地となった。その後1950年代からギリシア系住民によるエノシス運動を中核とする反英民族主義運動が展開した。これに対するトルコ系住民による反エノシス運動と時の中東国際情勢がからんで事態は紛糾を極めたが,59年2月イギリス,ギリシア,トルコ3国と住民代表の間に,独立に関するチューリヒ・ロンドン協定が成立し,大統領選挙(大主教マカリオス3世が当選),国会選挙を経て60年8月16日キプロスは正式に共和国として独立を宣言するにいたった。
キプロス問題
執筆者:

新石器時代後期の遺跡には,南岸のリマソル西方のコイロコイティアChoirokoitíaに,キプロス最古の農耕集落址(前5800-前4900)があり,石を用いた円形住居や石製の容器や武器が発見されている。特に墓域をつくらず,死者を住居の床下に埋葬する習慣はこの時代の特徴である。前5000年ころからは焼いた土器が出現し,磨いた赤色土器,白地に赤色文様の土器,櫛目文様の土器などが,コイロコイティアやその近くのカラバソスKalavassós,エリミErími,北西部のアンベリクAmbelikoú,北東岸のトゥルーリなど各地で出土している。青銅器時代初期(前2300-前2000)には各地に石室式あるいは竪穴式の独立した墓がつくられ,発掘の結果,そこからアナトリア風の突出した注口をもつ嘴壺(くちばしつぼ),人物・動物・鳥の像をあしらったり,刻文を施した独創的な変形壺,極端に抽象化された板状土偶,多数のテラコッタ像が発見された。中期(前2000-前1600)には,青銅のほかに金や銀の装身具の製作も始まる。キプロスで最古の都市エンコミEnkomiが建設されたのもこの時代(前1900ころ)である。後期(前1600-前1050)には,クレタ・ミュケナイ文明との接触や,ギリシア人(アカイア人)の移住により,キプロスの言語・宗教・美術・習慣などは決定的な影響を受けた。エンコミをはじめギリシア人都市サラミスSalamis,クリオン,パフォス,ラピトスLapithos(現,ランブサLamboúsa),フェニキア人都市キティオンKition(現,ラルナカLárnaka)などの遺跡から出土した多数の青銅製品,象牙細工,金銀細工,土器などは,当時のキプロス工芸のレベルの高さをよく示している。前1050年ころからの鉄器時代には,土器はギリシアの幾何学様式に似た抽象的図形文で飾られる。一時期フェニキアの影響も現れるが,前6世紀中ごろからは,ほぼギリシア美術と並行した発展をとげる。アフロディテ信仰の中心地パフォスやクリオン,サラミス,ソロイSóloiなどにはギリシア・ローマ時代の神殿,劇場,浴場,競技場などの遺跡が残る。

 中世のキプロスはビザンティン帝国領となり,教会建築には,ニコシアの聖ソフィア(13世紀,現,セリミエ・モスク)とファマグスタの聖ニコラウス(14世紀,現,ララ・ムスタファ・パシャ・モスク)のゴシック大聖堂やラルナカの聖ラザロ聖堂(9~10世紀),修道院には地中海東部で最も美しいといわれるベラパイス修道院(13世紀)や聖クリュソストモス修道院(11世紀),キッコ修道院(12世紀)などがある。また,城塞建築にはシェークスピアの《オセロ》の舞台となったファマグスタ城をはじめ,キレニアKyrenía,カンタラKantára,コロッシKolóssiの城などが知られている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス
きぷろす
Republic of Cyprus 英語
Kypriaki Dimokratia ギリシア語
Kbrs Cumhuriyeti トルコ語

地中海東部に浮かぶ同名の島からなる共和国。面積9251平方キロメートル。首都はニコシア。キプロスの名は、この島に自生する植物ヘンナLawsonia albaのヘブライ語kopherに由来する。住民はおもにギリシア系(約78%)とトルコ系(約11%)のほかにアルメニア系などからなり、ギリシア語による名称キプロスKyprosに対してトルコ語ではクブルスKbrsとよぶ。なお英語ではサイプラスと読む。1960年の独立以来、言語、文化、宗教を異にするギリシア、トルコ両系住民の間で紛争が絶えず、1975年にはトルコ系住民が北部に「キプロス連邦トルコ系住民共和国」を樹立し、さらに1983年にはギリシア系住民国家との連邦構想を放棄して一方的に「北キプロス・トルコ共和国」としての独立を宣言している。2009年時点でキプロスの総人口は87万1000人と推計され、「北キプロス・トルコ共和国」を除いた人口は77万1000(2006推計)である。2004年、ヨーロッパ連合(EU)加盟。

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自然

東のシリア海岸から100キロメートル、北のトルコ海岸から70キロメートルにあって、地中海東部の交通を制する位置にあり、地中海の島としてはシチリア、サルデーニャに次いで大きい。地体構造上はアルプス‐ヒマラヤ造山帯に属し、島の南北に、ともに標高1000メートル級のトロードス山脈とキレニア山脈が東西に走る。最高点はトロードス山脈中にあるオリンポス山(1951メートル)である。キレニア山脈はおもに石灰岩からなるが、トロードス山脈には火山岩もみられる。なお、両山脈の中間にはキプロスの穀倉地帯である幅20~30キロメートルのメサオリア平野が横たわり、首都ニコシアもここに位置する。気候は典型的な地中海性気候を示し、年平均気温は約20℃、年降水量は平地で300~400ミリメートル、山地では1200ミリメートルに達するが、降水はほぼ10月から翌年3月までに限られる。山地を中心に、国土の20%近くがマツ、スギ、イトスギ、プラタナスなどの森林で覆われ、地中海東部地方で最高の美林といわれている。西部のパフォスの森には、野生の保護動物キプロスヒツジが生息する。

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歴史

新石器時代の遺跡もみられるが、古くからギリシア人が定着し、ミケーネ文明の影響も受け、エジプトとの交流地点として栄えた。その後フェニキア、アッシリア、ペルシア、プトレマイオス朝などによって支配され、紀元前57年にはローマ帝国領となった。引き続きビザンティン帝国領となったが、7世紀から10世紀にかけてアラブ人の侵入を受け、1191年には十字軍に参加したイングランド王リチャード1世(獅子(しし)心王)によって征圧された。ついでテンプル騎士団の手に渡ったのち、1192年から3世紀にわたっては、リチャード1世から託されたフランスのリュジニャン家によって統治され、この期には中世的繁栄をみた。しかし1489年にはベネチア領となり、さらに1571年にはオスマン帝国に支配され、以後トルコ人の移住が始まった。しかし300年後の1878年、ロシア・トルコ戦争後のロシアの南下政策に対応しようとするイギリスが、オスマン帝国の容認のもとでその統治権を得た。ついで第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともにイギリスが併合し、1925年にはその直轄植民地となった。

 1930年代から、キプロスをギリシアに合併させようとするエノシス運動が、ギリシア政府の支援のもとに、多数を占めるギリシア系住民の間で高まり、これに反対する少数派のトルコ系住民およびトルコ政府との間で対立が激化し始めた。1954年にイギリスが中東統合軍司令部をキプロスに移したことから、エノシス運動は反イギリス暴動とテロ活動へと先鋭化し、1958年にはトルコ系住民の分割要求も高まって抗争は深刻化した。ついにイギリスは領有を断念し、1959年のイギリス、ギリシア、トルコの三か国会議の結果、1960年8月16日、これらの国の保障のもとにキプロスは単一の共和国として独立を遂げた。

 しかし独立後もギリシア系住民とトルコ系住民の反目はいっこうに後を絶たず、1963年には内戦が勃発して国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)が出動した(~1964)。さらに1974年になって、ギリシア政府に支持された過激派ギリシア系軍人によるクーデターが発生し、穏健派のマカリオス大統領が一時追放される事態となった。これを機にトルコ軍がトルコ系住民の保護を理由に北部に侵入して紛争は国際化し、トルコ軍によって北部(国土の39%)が占領された状態が固定したまま、1975年には北部での「キプロス連邦トルコ系住民共和国」の発足が宣せられた。このような連邦制の採用は、その後1977年になって双方の合意を得たが、しかし事態の進展がないまま1983年11月、トルコ系住民議会は「北キプロス・トルコ共和国」としての独立を宣言、以後キプロス島は、事実上南北2か国が存在する状況となっている。

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政治

1960年発足の複合民族国家「キプロス共和国」では、1959年の三か国会議での取決めに基づき、大統領(任期5年)をギリシア系、副大統領をトルコ系にそれぞれ固定し、内閣と国会(一院制)構成員をギリシア系7、トルコ系3に割り振るなどの配慮がなされてきた。しかし早くも1963年には、トルコ系国会議員15名が選出されないまま、ギリシア系の35名だけで国会が運営されるなどの変則事態が生じ、以来改められることがなかった(2009年時点では80議席のうち、ギリシア系56議席のみで構成、任期5年)。さらに1975年に「キプロス連邦トルコ系住民共和国」が誕生してからは、分裂は決定的となり、この「トルコ系住民共和国」は独自の憲法と議会を確立し、通貨もキプロス・ポンドからトルコ・リラに切り換え、標準時間もトルコ本土と統一させるなどの措置を講じている。なおこの分裂を契機に、約18万のギリシア系住民の北部から南部への脱出と、約4万5000人のトルコ系住民の南部から北部への移住がみられた。1983年の「北キプロス・トルコ共和国」の独立宣言は、キプロスの政治情勢をますます複雑、混迷化させている。トルコは「北キプロス・トルコ共和国」をその独立直後に承認したが、国連の場ではこの独立宣言はほとんどの国から非難の対象となっている。

 1991年国連は南北2国による連邦制を提案したが、「キプロス共和国」の1993年の大統領選挙では、国連提案に反対の立場のクレリデスが当選し、1996年の総選挙でもクレリデスの率いる民主運動党(DISY)が多数を得た。1998年の大統領選挙ではクレリデスが再選された。1993年以後、国連提案を受けてしばしば南北の会談が繰り返されているが、1997年の交渉では、北キプロス側が支援国トルコとともに、南単独のEU加盟問題に反発して交渉は物別れに終わった。2001年、国連仲介のもと、ふたたび両系大統領の直接交渉が行われ、以後、定期的な直接交渉が続けられた。2003年2月に行われた大統領選挙ではクレリデスの対北キプロス政策に批判的なパパドプロスが当選。2004年4月、連邦国家制を骨子とする国連和平提案による南北統合の是非を問う国民投票が行われたが、南北で賛否が分かれ、交渉は中断した。2004年5月、キプロスは単独でEU(ヨーロッパ連合)加盟を果たした。2008年2月の大統領選挙ではキプロス問題解決に柔軟な姿勢のフリストフィアスが選出され、ふたたび北キプロスとの統合に向けた交渉が始まっている。

 陸軍の兵力1万のほか陸海空軍に若干の装備をもつ「キプロス共和国」の戦力に対して、「北キプロス・トルコ共和国」も5000の国民軍をもち、さらに3万6000のトルコ軍が駐留しこれを支援している。一方、中立的立場から国連キプロス平和維持軍(約850人)が駐留する。またアクロティリ、エピスコピ、デケリアの3地区にはイギリスが軍事基地をもち、中東統合軍司令部を置いて約3000の兵力が駐留。ギリシア軍も約1100の兵力が駐留している。

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経済・産業

農業は古くからキプロスでもっとも重要な産業である。就業人口の7.2%が農業に従事し(2004)、国土の多くが農業生産に利用されている。ただ、ほとんどが天水耕地であるため休閑地も多く、農地面積は国土の17.8%(2005)を占めるにすぎず、経営も零細で生産性はそれほど高くない。そのうえ1974年からの紛争によって農業生産が被った打撃には著しいものがあった。おもな作物は伝統的に小麦、大麦、ジャガイモ、ブドウ、およびオレンジなどの柑橘(かんきつ)類であるが、紛争の影響によって主穀類は、一時は大量の輸入を余儀なくされた。他方、ジャガイモや果実は、アラブ産油国の需要に支えられて生産が伸び、重要な輸出品となっている。ギリシア語でキプロスを意味することばから銅ということばが生まれたといわれるほど、キプロスでの銅の産出は古くから有名であったが、現在でも銅のほか鉄、クロム、石綿、石膏(せっこう)を産し、その多くは輸出されている。ただし近年は資源の枯渇によって生産量も低下してきた。工業は小規模な食品加工業や織物業、あるいはセメント工業が中心であり、織物やセメントなど製品の一部は輸出に向けられている。

 国土の分断によって「キプロス共和国」は北部の39%の面積を失ったが、この北部地域はキプロスの国民総生産(GNP)の58%、宿泊観光客の75%、柑橘園の80%、鉱業生産高の56%、工業生産設備の50%をそれぞれ占めていたため、その損失は大きかった。しかしその後は経済復興が進み、またレバノン内戦の余波を受けて、ベイルートにあった通商・観光資本が転進してくるなど、経済は活気を取り戻し、外国人観光客も増えていった。

 2007年の輸出額は12億5000万ドル、輸入額86億9000万ドル。おもな輸出相手国はイギリス、ギリシア、ロシア、アラブ首長国連邦、レバノンで、おもな輸出品は衣料品やジャガイモ、レモン、グレープフルーツ、ブドウ、ワイン、タバコなどの農産物、薬品、セメントなどである。おもな輸入相手国はイギリス、イタリア、ギリシア、アメリカ、ドイツで、おもな輸入品は原油、石油製品、機械類、化学製品、繊維製品である。

 一方、北部の「北キプロス・トルコ共和国」はトルコの援助によって経済開発を進めつつあるが、トルコの財政難もあって、その成果は南部に比べて劣っている。

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社会

住民の約78%はギリシア系、約11%はトルコ系によって占められ、ほかにごく少数のアルメニア人、アラブ人などが居住する。かつてギリシア系およびトルコ系の住民は、都市内の住地や村を異にして生活しながらも、地域的には偏らず全土に分散していた。しかし1974年以後、南北分断が固定化するに伴い、ギリシア系住民は南部へ、トルコ系住民は北部へ、それぞれ難民として移住を余儀なくされている。言語はギリシア語とトルコ語が公用語として用いられてきており、英語もイギリス統治時代の名残(なごり)でよく通用する。ギリシア系住民のほとんどはギリシア正教に、トルコ系住民はイスラム教スンニー派に属し、アルメニア人はほぼキリスト教アルメニア教会派、またアラブ人はほぼキリスト教マロン派の信者である。初等教育は6~15歳(9年間)で、無料・義務制をとる。大学としては総合大学のキプロス大学、ニコシア大学のほかに工科大学などが設けられている。

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文化

地中海に浮かぶ風光明媚(めいび)な島で、史跡や伝説の地にも富み、観光面ではみるべきものが多い。キロキティアの先史住居跡、ビーナス誕生の地と伝えられるパフォスの浜、ギリシア・ローマ時代のサラミスの遺跡、キレニアにあるベネチア時代の城塞(じょうさい)などがとくに著名である。ニコシアにはキプロス博物館がある。各地に海水浴場があり、トロードス山脈中にはスキー場の設備がみられる。

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『澁澤幸子著『キプロス島歴史散歩』(2005・新潮社)』


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百科事典マイペディア 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス

◎正式名称−キプロス共和国Republic of Cyprus(北部のトルコ系住民は,北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言している)。◎面積−9251km2。◎人口−86万人(2011)。◎首都−ニコシアNikosia(24万人,2011,トルコ系地区を除く)。◎住民−ギリシア系77%,トルコ系18%,アルメニア人など。◎宗教−ギリシア系はギリシア正教,トルコ系はイスラム(スンナ派)。◎言語−ギリシア語,トルコ語(以上公用語)。◎通貨−ユーロEuro。トルコ系住民地域ではトルコ・リラを使用。◎元首−大統領,ニコス・アナスタシアディスNicos Anastasiades(2013年2月選出,任期5年)。◎憲法−1960年8月発効。◎国会−一院制(定員80,ただし,現在ギリシア系56議席のみで構成,任期5年)。2011年5月選挙結果(ギリシア系のみ),民主運動党20,労働者進歩党19,民主党9,社会民主運動党5,欧州党2,環境運動党1。◎1人当りGNP−1万8430ドル(2004)。◎農林・漁業就業者比率−10.0%(1997)。◎平均寿命−男77.9歳,女81.8歳(2013)。◎乳児死亡率−3.3‰(2009)。◎識字率−98%(2008)。    *    *東地中海,シリア西方100km,トルコ南方70kmにある地中海第3の大島で共和国。英語ではサイプラスCyprus。南岸と北岸に東西に並行して2山脈が走り,中央はメサオリア平野となっている。典型的な地中海式気候。穀物,オリーブ,果物が主要農産物。銅などの鉱産資源に恵まれ,紡績,皮革,醸造工場がある。 前3000年ころ青銅器文明が始まり,前1000年ころギリシア人,次いでフェニキア人が植民した。前58年ローマ領に編入された。15世紀以降,地中海の覇権を競うジェノバ,ベネチアによる争奪の的となり,1489年,ベネチア領となった。1571年オスマン帝国領,1878年英領として軍事基地となった。1931年以降住民の反英とエノシス(ギリシア復帰)運動が起こり,1960年イギリス連邦内の共和国として独立した。 ギリシア系住民とトルコ系住民の民族的・宗教的対立は根深く,1963年,1966年―1967年には大規模な武力衝突が起き,内戦状態となった。1964年には国連が平和維持軍を派遣した(現在も駐留)。1974年ギリシア系軍事組織EOKAの指導者がクーデタを起こすと,トルコはトルコ系住民の保護を理由に派兵し,島の北部を占領した。トルコ系住民は1983年,北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言し(トルコだけが承認),キプロスは南北に分断された。ギリシア系のキプロス共和国のヨーロッパ連合(EU)加盟を前に,国連の提示した和平案に沿って,2004年4月南北再統合の賛否を問う国民投票が実施された。北キプロス・トルコ共和国では賛成が65%を占めたが,南部のキプロス共和国は反対が76%に達し,統合案は否決された。南北分断状態のまま,2004年5月キプロス共和国は単独でEUに加盟。北キプロス・トルコ共和国には約3万人のトルコ軍が駐留する。2012年にはギリシア債務危機に際して,多額のギリシア国債を抱えるキプロスの金融・財政危機が深刻化。EU,IMFに支援要請がなされ,2013年3月,EUはキプロスに対して他のEU諸国並の税率の引き上げ,金融規制とともに,高額預金の強制削減などの強引ともいえる対応策を条件として100億ユーロ(欧州金融メカニズム(ESM)から最大90億ユーロ,IMFから最大10億ユーロ)の支援を決定した。しかしキプロスの銀行などへの預金の1/3はロシア・マネーといわれ,EUとしては,ロシアとの間でもキプロス金融支援の合意と間接支援が必要となった。反発を強めるキプロスの国内世論の動向もあり,危機が乗り切れるか先行きは不透明である。そうしたなか2013年2月に大統領選挙が行われ,野党・民主運動党(DISY)党首アナスタシアディスが与党AKELの支持を受ける候補を下して大統領に選出された。政権の課題は金融・財政危機及び懸案のキプロス問題の解決である。
→関連項目欧州債務問題国際連合トロードスパフォス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キプロス」の意味・わかりやすい解説

キプロス
Cyprus

正式名称 キプロス共和国 Republic of Cyprus。ギリシア語でキプリアキ民主国 Kipriaki Dimokratia,トルコ語でクブルス共和国 Kibris Cumhuriyeti。
面積 9251km2
人口 132万3000(2021推計。おもにトルコ人からなる約 15万人の移民を含む)。
首都 ニコシア

地中海東部,トルコの南約 70km,シリアの西約 100kmにある地中海第3の大島キプロス島を領域とする国。山岳地帯が多く,北部海岸沿いにキレニア山脈が 160kmにわたって東西に走り,中南には険しいトロードス山脈が横たわる。この両山脈の間に首都ニコシアを中心として東西に海岸の開けた肥沃なメサオリア平野が広がる。日平均気温は,ニコシアで最高 36℃,最低 21℃,平均降水量 483mm,最高はトロードス山脈の 1118mm,最低は中央平野部の 305mm。住民の 80%はギリシア系で,ギリシア正教徒。 18.7%はトルコ系で,イスラム教徒。公用語はギリシア語とトルコ語。平地の半分は耕地で,主要作物はコムギ,カラスムギ,オオムギ,オリーブ,野菜,ブドウなど。牧畜も盛ん。軽工業の発展に努めており,観光も貿易赤字削減のための重要な資源。ニコシアのほか,リマソル,ファマグスタ,ラルナカなどの港町がある。全島に道路網が完備している。遺跡が多く,ギリシアの神殿,ローマのフォールム,ゴシック聖堂,イスラム教のモスクなどが各地に点在し,ヨーロッパや中東からの観光地として有名である。東地中海の要衝に位置したため,古くから諸民族によって争奪の地となった。 1878年イギリスの施政下に入り,第1次世界大戦の際イギリスに併合され,第2次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となった。 1960年イギリス連邦内の共和国として独立。 1963年以来ギリシア系住民とトルコ系住民との間で紛争 (→キプロス紛争 ) が繰り返されていたが,1974年にギリシア軍事政権の介入によりクーデターが発生。これに対してトルコも軍を派遣し,1983年北部トルコ系住民は「北キプロス・トルコ共和国」 (面積 3335km2。首都ニコシア) の独立を宣言した。国連安全保障理事会はこの独立を認めておらず,国連平和維持軍が派遣されているが,事実上は二つの政府が並立した状態が続いている。 2004年ヨーロッパ連合 EUに加盟。 (→キプロス史 )

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知恵蔵 「キプロス」の解説

キプロス

キプロスは地中海東部の共和国。首都はニコシアで、四国の半分ほどの島国である。1960年に英国から独立を果たしたが、多数派のギリシャ系住民と北部に多いトルコ系住民の争いが生じ、1983年に北部が「北キプロス・トルコ共和国」として独立を宣言した(国連は未承認)。その後、南北統合の交渉が断続的に進められているが、実現の見通しは立っていない。
2004年、南部「キプロス共和国」のみが欧州連合(EU)に加盟し、08年からはユーロも導入した。小麦・果実栽培や牧畜が盛んで、鉱産資源にも恵まれているが、主産業は観光業であり、世界遺産の「パフォス」「ヒロキティア」「トロードス地方の壁画教会群」を始め、各地にギリシャ・ローマ時代の遺跡や中世の修道院・モスクが点在し、白砂のビーチ「アギア・ナパ」も多くのリゾート客を集める。
その観光業と並び、キプロス経済を支えているのが国際金融業である。スイスやルクセンブルクと同様、欧州有数のタックスヘイブン(租税の回避地)として、世界中から投資を呼び込んでいる。その銀行の総資産は、国内総生産(GDP)の7~8倍にも及ぶ。とりわけロシア企業の投資が多く、脱税やマネーロンダリングが横行しているとも指摘されている。こうして集めた巨額な資金の行き先が、ギリシャ国債であった。キプロスは歴史的にギリシャと関係が深く、キプロスの大手銀行は大量のギリシャ国債を購入していたのである。
09年に表面化したギリシャ金融危機の影響を受け、キプロスも銀行の財務が悪化。国家財政も破綻の危機に直面した。12年6月、キプロス政府はEUに金融支援を要請したが、ドイツを始め支援に消極意見が強く、救済策の基本合意までに半年以上を要した。
13年3月EUは、キプロス政府が約7000億円を自己調達することを条件に、最大約1兆3千億円の支援を約束。その財源確保のため、キプロスの全預金口座に課税することを提案した。これをキプロス議会が拒否すると、EUは大口預金者のみに課税することを再提案。結果、キプロスの大手2銀行(キプロス銀行、ライキ銀行)は、10万ユーロを超える預金者から一定額を徴収した上、1銀行に整理されることになった。徴収額は、13年4月19日時点では未定。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2013年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「キプロス」の解説

キプロス
Kypros

地中海東部,キプロス島のみからなる共和国。首都ニコシア
石器時代・青銅器時代からの遺跡が見られ,古代よりギリシア文化・ビザンツ文化の影響が著しい。16世紀以後,オスマン帝国の支配に属したが,1878年にイギリスが支配権を奪い,1914年正式にイギリス領となった。しかし,第二次世界大戦以後,マカリオス大主教を中心としたギリシア復帰運動が激しくなった。いっぽう,トルコも主権を要求し,1960年妥協的にイギリス連邦下でのギリシア人・トルコ人の変則的な多民族国家として独立した。しかし,その後も両民族の対立が続き,1974年に内戦が起こりトルコが軍事介入し,北部地域を占領した。1983年にトルコ系住民は北部で「北キプロス−トルコ共和国」として独立。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

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