百科事典マイペディア 「キュロス[2世]」の意味・わかりやすい解説
キュロス[2世]【キュロス】
→関連項目アケメネス朝|カンビュセス[2世]|クロイソス|ペルシア帝国
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…彼はギリシアの神々,とくにデルフォイのアポロンに多くの供え物をささげた。彼の義兄弟のメディア王アステュアゲスを王位から追ったペルシア王キュロス2世を討つべく神託をうかがい,それにまどわされてペルシア遠征におもむいたが,敗れて捕らわれの身になった。そののちの彼の運命は伝説のテーマになり,ヘロドトスの《歴史》(第1巻)に詳しく物語られている。…
…ギリシア名パサルガダイPasargadai。同帝国の創立者キュロス2世(在位,前559‐前530)が造営した。同王はこの地に,大庭園,二つの宮殿(謁見宮殿と王の住居),1対の拝火壇,王墓,宝庫,方形建物などの石造建築を造った。…
…その後6年間に3度も王の交代を経験した後,同王朝最後の王ナボニドス(前555‐前539)の時代になる。彼は不振の王国を建て直そうとするが,10年にわたるテイマ滞在や月神重視政策がマルドゥク神官団の反感を買い,彼らによって解放者として迎え入れられた新興アケメネス朝ペルシアの王キュロス2世により王位を奪われてしまった。こうしてバビロニア史未曾有(みぞう)の栄華を極めた新バビロニア時代は,わずか90年足らずでその歴史を閉じた。…
…パールサにおいてエラム,次いでメディアに服属した。 前550年,キュロス2世はメディア王国を打倒してペルシアの独立を果たした。彼はそれと同時に,高原のイラン諸族の利害を代表していたメディア王国の政治目的を継承することになった。…
…彼ののち国は衰え,ナボニドスの治下,ペルシア軍により滅亡した。新バビロニア
[アケメネス朝ペルシア]
アーリヤ系ペルシア人はイラン高原に勢力を得て,キュロス2世のとき姻戚関係にあったメディア王を破り,都をパサルガタエからエクバタナへ移す。キュロス2世は前539年新バビロニアを破り,バビロニアを属州とした。…
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