キリキア(読み)きりきあ(英語表記)Cilicia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「キリキア」の意味・わかりやすい解説

キリキア
きりきあ
Cilicia

小アジア東部地中海岸地帯。東はシリアと隣接し、北はトロス(タウルス)山脈を境としてカッパドキアやリュオカネアに達する位置にある。西は険しい山岳地帯キリキアと、東はシリアと隣接して平坦(へいたん)な平野部ペディアとに分かれている。この間がトロス山脈中の有名な「キリキアの門」とよばれていた所で、アナトリア内部から、ユーフラテス川に沿って、メソポタミアとの交易の重要な通路であった。同時に、紀元前三千年紀に興ったエブラ王国の仲介貿易が注目されている。またこの「キリキアの門」をめぐって、ヒッタイトの遠征や、アレクサンドロス大王の遠征など重要な舞台となっている。その後ローマ支配、アルメニア王国、トルコ、フランスの占領を経て、現在はトルコの領有

[糸賀昌昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キリキア」の意味・わかりやすい解説

キリキア
Kilikia; Cilicia

小アジア南東部の地中海沿岸を占める古代の地域名。現在のトルコ共和国の一部。東はアマヌス山脈,北と西はタウロス山脈によって区切られ,東部は肥沃平原であるが,西部は山岳地帯。ヒッタイト,アッシリアアケメネス朝ペルシアセレウコス朝シリアの諸王国の支配を経て,前 57年にローマの属州となる。使徒パウロの出生地タルソスを首都とした。7世紀頃アラブ人の支配を受け,10世紀中頃ビザンチン領。その後エジプトマムルーク朝,次いでオスマン帝国の支配を経て,第1次世界大戦後フランス領となったが,1921年よりトルコ領として回復された。

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世界大百科事典 第2版 「キリキア」の意味・わかりやすい解説

キリキア【Cilicia】

アナトリア南東部のトロス山脈と地中海にはさまれた地域。シリシアともいう。小アジアとシリアを結ぶ戦略上の重要地点にあたり,ヒッタイト以来多くの国に支配された。アッシリア,ペルシアの支配,アレクサンドロスの東征後,セレウコス朝,ローマの支配下に入り,さらにビザンティン帝国からアラブの占領,アルメニア王国を経てマムルーク朝,オスマン帝国の支配を受けた。1919年一時フランスが占領したが,21年トルコに返還された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「キリキア」の解説

キリキア
Kilikia

小アジア南東部のキプロス島に面する海岸地方
小アジアとシリアを結ぶ要地。アケメネス朝のキュロス2世により征服され,アレクサンドロス大王はこの地方で行われたイッソスの戦いで,ダレイオス3世を破った。ローマ帝国・ビザンツ(東ローマ)帝国・イスラーム勢力などによって支配され,20世紀にトルコ領となった。

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世界大百科事典内のキリキアの言及

【チュクロバ】より

…トルコ南部,アダナ,イチェル両県にまたがりセイハンSeyhan川,ジェイハンCeyhan川のデルタによって形成された平野。古名キリキア。面積約7500km2。…

※「キリキア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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