吉利支丹(読み)キリシタン

デジタル大辞泉 「吉利支丹」の意味・読み・例文・類語

キリシタン【吉利支丹/切支丹】

天文18年(1549)フランシスコ=ザビエルの布教以来、日本に広がったキリスト教カトリック)、またその信徒。江戸幕府は邪宗として弾圧した。伝来の当初は南蛮宗・伴天連宗バテレンしゅうともよばれ、5代将軍徳川綱吉のときから「吉」の字を避けて「切支丹」の字が当てられた。
[類語]キリスト教徒クリスチャン

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「吉利支丹」の意味・読み・例文・類語

キリシタン【吉利支丹・切支丹】

  1. 〘 名詞 〙 ( [ポルトガル語] Christão 「キリスト教徒」の意 )
  2. 室町時代の終わり頃、フランシスコ=デ=ザビエルをはじめとするヨーロッパ人(おもに、スペイン人、ポルトガル人)の宣教師によって日本に伝えられた、キリスト教ローマカトリックの信徒。また、そのキリスト教そのもの。天主教
    1. [初出の実例]「如何にきりしたん、爰にをひて観念せよ」(出典:ぎやどぺかどる(1599)上)
  3. の僧侶が、布教の手段として使用し、当時の日本の人々に魔術としてうけとられた、科学を応用した技術。〔外来語辞典(1914)〕

吉利支丹の語誌

「吉利支丹」「幾里志多無」など種々の当て字がみられるが、徳川幕府五代将軍綱吉以後は「吉」字をはばかって用いず(「吉利死丹の字如此之処切支丹と改る、常憲院(綱吉)殿御緯之字を憚て書改也」〔柳営秘鑑‐三〕)、雑俳の「若えびす」(一七〇二)にも「きりきりと文字あらたまる切死丹」がある。同時にことさら悪印象を与える表記法がとられるようになった。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「吉利支丹」の意味・わかりやすい解説

キリシタン

ポルトガル語のChristãoの発音がそのまま日本語になり,キリスト教(カトリック)およびその信者を指した。初め幾利紫旦,貴理師端,のち吉利支丹,切支丹,鬼理至端の文字があてられた。

15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。この時期,ローマ・カトリック教会の腐敗を批判して起こった宗教改革は,カトリック内部の自己改革を触発し,1534年イエズス会がイグナティウス・デ・ロヨラにより創設された。同会は清貧・貞潔・服従を誓約し,イエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団たることを目ざした。会は40年に教皇の認可を得,その要請によりポルトガル国王のインド植民政策を宗教的側面から助けることになり,王室の財政援助すなわち布教保護権Padroadoを得て東洋布教に着手し,42年ザビエルがゴアに到着した。ザビエルの鹿児島到着は49年8月(天文18年7月)で,同地出身のヤジロー(アンジロー)が先導者となった。ザビエルは国王(天皇)に謁して布教許可を得るため平戸(長崎県),山口より上京したが目的を果たせず,山口で大内義隆に謁して布教を許された。彼が滞日した2年3ヵ月間の受洗者は約1000名にすぎないが,彼は戦国社会の現実に即応した布教方針のもとに領主層に接近を図り,教理の説明には仏僧の非難を避けて仏教用語の援用をやめ,ラテン語とポルトガル語をそのまま使うことにした。

ザビエルの後継者トレスは山口より豊後府内に本拠を移し,のちイエズス会員となったアルメイダの援助を得て病院等を経営した。布教活動はポルトガル船の定期的来航に伴い西南九州に進展した。諸領主は生糸や軍需品をもたらす商船の来航を求めていたから,トレスは商船に入港先を指示し,一方諸領主にキリスト教保護を強要した。布教と貿易の一体化に積極的であった大村純忠は63年(永禄6)に受洗し,領内のキリシタン化を図った。畿内の布教は1559年日本人イルマンロレンソ了西を伴ったビレラにより着手され,翌年将軍足利義輝から布教を許された。畿内の諸領主と庶民は救霊を第一とした熱心な信者が多く,結城山城守忠正,高山父子,池田丹後守,小西父子等の武将が受洗し,彼らは畿内キリシタンの中核として教会を支え,70年(元亀1)以降の織田信長・豊臣秀吉時代に至るキリシタン興隆の礎となった。70年来日した布教長カブラルオルガンティーノを畿内に配し,同年および74年(天正2)に畿内巡察を行い信長に謁した。信長の政治的地位の上昇・確立に伴い教会勢力も増大し,77年3階建ての教会(南蛮堂,南蛮寺)が落成した。

巡察師バリニャーノはマカオ市との間に生糸貿易参加に関する契約を結んで日本布教の財源確保に努めたのち,79年来日した。彼は日本イエズス会を準管区に昇格させ,これを下(しも)・豊後・都の3布教区に分けて,クエリョを準管区長に任じた。布教の強化・拡充のために日本人修道者・司祭養成の必要性を痛感して教育機関(コレジヨセミナリヨノビシアド)を設け,日本の国情に即した布教を模索して日本文化への適応を積極的に進めた。また大村氏から長崎と茂木を譲り受けてイエズス会領とし,キリシタンの町長崎の基礎を作った。また離日直前に急きょ有馬・大村・大友のキリシタン大名に対し少年使節のローマ派遣を建議し,82年2月一行をゴアに帯同した(天正遣欧使節)。遣使の意図は,彼らを通じてヨーロッパ世界の偉大さをキリシタンに伝えさせ,日本布教の成果をローマ教会に誇示して日本イエズス会に対する援助を確保することにあった。82年当時のキリシタン数は15万,下地方11万5000,都地方2万5000,豊後地方1万であった。

秀吉は当初キリシタンに好意的でオルガンティーノに大坂の地所を与え,86年クエリョを大坂城に引見した。87年当時のキリシタンは20万,教会数200,イエズス会員は113名で22の教会施設を有していた。しかし87年7月(天正15年6月),秀吉は博多で5ヵ条からなる伴天連(バテレン)追放令を発し,神国日本への邪法の弘布を禁じ,長崎を没収した。このためクエリョは平戸に宣教師を集めて善後策を講じ,潜伏による布教維持を図った。しかるに,秀吉のマニラ入貢要求に対する総督使節として,93年フランシスコ会のペドロバウティスタ等が来日し,のち上京して公然と布教を展開したが,96年に起こったサン・フェリペ号事件のために再び迫害が起こり,バウティスタ等は他のキリシタンとともに捕らわれ,97年(慶長2)2月長崎で処刑された(二十六聖人の殉教)。

徳川家康は秀吉の禁教政策を踏襲したが,対外貿易推進のため宣教師の活動を黙認したため,ドミニコ,アウグスティヌス両修道会会士が相つぎ来日した。彼はまた日本司教セルケイラやイエズス会準管区長パジオを引見し,キリシタン容認を世間に印象づけた。しかし,朱印船貿易,中国,スペイン,オランダ,イギリスの各商船の来航によりポルトガル貿易の比重は著しく低下し,長崎貿易の仲介者としてのイエズス会の地位も同様であった。1612年岡本大八事件を契機に家康は直轄地に禁教令を発し,14年さらに禁教迫害を全国に拡大して宣教師等を国外に追放した。各修道会は全体で46名の宣教師を残留・潜伏させた。キリシタンは各地にコンフラリア(講,組)を組織して信仰維持に努めたが,19年(元和5)以降京都,長崎,江戸等の各地で多数の殉教者が出た。幕府のキリシタン検索は寛永年間(1624-44)にいっそう強化され,島原の乱(1637-38)後潜伏の宣教者はことごとく捕らわれ,キリシタンは絵踏(踏絵),宗門改,寺請制によって締めつけを受け,大村の郡(こおり)崩れ,濃尾崩れ,浦上崩れのごとく潜伏キリシタン隠れキリシタン)の摘発は続いた。1873年明治新政府は,欧米外交団の強い談判に押されてキリシタン禁制の高札を撤廃し,キリシタンはおよそ280年ぶりにようやく信仰の自由を許された。
南蛮美術 →南蛮文化
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「吉利支丹」の意味・わかりやすい解説

キリシタン

16世紀以降明治まで行われた日本におけるキリスト教(カトリック)またはその信徒。布教当時は南蛮宗・伴天連(ばてれん)宗などと呼ばれたが,やがてポルトガル語を音写したキリシタンの呼称が一般的となり,吉利支丹の漢字を当て,将軍徳川綱吉の時以後,切支丹の字が当てられた。
→関連項目浦上隠れ念仏キリシタン屋敷禁書後藤寿庵五人組(日本史)サン・フェリペ号事件島原の乱宗門改末次平蔵長崎奉行南洋日本人町日本キリシタン宗門史パジェス伴天連追放令フェレイラ踏絵松倉重政耶蘇会日本年報

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「吉利支丹」の解説

キリシタン
christão

16世紀以来,カトリックとその信徒に対する呼称
ポルトガル語のchristão(キリスト教徒)に由来し,漢字で「吉利支丹(のち切支丹)」とも書く。ザビエルの布教後,戦国大名や織田信長の保護で西日本に普及。大友宗麟らのキリシタン大名は天正遣欧使節を派遣し,南蛮文化も流行した。豊臣秀吉は1587(天正15)年抑圧に転じて,'96年宣教師ら26人を長崎で処刑した(二十六聖人殉教)。1605年信徒75万。江戸幕府も政治的・思想的理由から, '12年 直轄領に,'13年全国に禁教令を出し,宣教師や高山右近らの信者を国外に追放した。'39年の鎖国後,禁教は徹底したが,一部に隠れキリシタンを生んだ。明治政府も初め五榜の掲示にみられるように禁止していたが,1873年ようやく禁止を解き,信仰を黙認した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉利支丹」の解説

キリシタン

近世日本,あるいは広い意味で当該期の東アジアにおけるカトリック,および信者。吉利支丹・切支丹をあてた。語源は,キリスト教とその信徒をさすポルトガル語のChristão。日本では1549年(天文18)イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの伝道に始まる。はじめ好意的に迎えられたが,豊臣政権・江戸幕府により弾圧をうけ,17世紀前期,表面上消滅した。キリシタン禁制のもと,キリシタン民衆のなかには棄教した者も少なくないが,仏教徒を装いつつ潜伏した者も少なからず存在し,しばしば崩れとよばれる露顕事件がおきた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉利支丹の言及

【キリシタン】より

…ポルトガル語のChristãoの発音がそのまま日本語になり,キリスト教(カトリック)およびその信者を指した。初め幾利紫旦,貴理師端,のち吉利支丹,切支丹,鬼理至端の文字があてられた。
[伝来]
 15~16世紀にかけ幕あけした大航海時代はイベリア半島のポルトガル,スペイン両国がこれをリードしたが,両国王はローマ・カトリック教会と深く結びつき教皇を精神的よりどころとしてキリスト教の弘布に尽くした。…

【浦上崩れ】より

…肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう。…

【近世社会】より

…そして家臣団所領の再配置,統制方針の成文化は,慶長後期の大名誓詞を経て,3代将軍家光の2度にわたる武家諸法度の交付によって完成する。35年(寛永12)の法度では参勤交代の制を定式化するとともにキリシタン宗門の禁止,500石以上の大船建造の禁止が定められ,鎖国の方針が明示される。こういった段階の領主制を近世領主の典型的な姿とすることができる。…

【郡崩れ】より

…1657年(明暦3)大村藩郡地方(長崎県大村市)を中心に608名の潜伏キリシタンが検挙された事件。崩れとは検挙事件をいい,郡崩れは最初のもの。…

【島原の乱】より

…江戸初期の1637‐38年(寛永14‐15)に肥前島原藩と同国唐津藩の飛地肥後天草の農民が,益田時貞(天草四郎)を首領に,キリシタン信仰を旗印としておこした百姓一揆。天草の乱ともいう。…

【南蛮文化】より

…キリシタン文化ともいい,16,17世紀にキリスト教の伝来とともに日本に導入され,あるいは影響を与えた文化であり,またこの影響を受けて興った文化をも指す。その最盛期は1580‐1614年(天正8‐慶長19)までであるが,その社会的・文化的影響は著しいものがあった。…

【排耶書】より

…キリスト教に論駁を加えた日本近世の書物の総称。慶長年間(1596‐1615)前半にまず《伴天連(バテレン)記》と《吉利支丹(キリシタン)由来記》が著されたが,教理に対する反論は不十分でキリシタン攻撃も穏やかであった。1620年(元和6)元イエズス会会員の背教者ハビアンが《破提宇子(はだいうす)》を,またさらに転び伴天連のフェレイラ(沢野忠庵)が《顕偽録》を著すに及んで,従来の教理面の弱点が補強され,両書はその後に現れた排耶書に理論的根拠を与えた。…

【踏絵】より

…江戸時代のキリシタン検索制度である絵踏行事に用いた聖画像をいい,踏む行為を絵踏といったが,しだいに混用して絵踏も踏絵と称した。1628年(寛永5)長崎に始まって1858年(安政5)廃止されるまで九州各地で制度的に実施された。…

【マリア観音】より

…長崎県下の外海(そとめ)・浦上・五島地方に潜伏したキリシタンが,観音像をサンタ・マリア像に代用したものをいう。その多くは中国渡来の白磁の観音像。…

※「吉利支丹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ゲリラ豪雨

突発的に発生し、局地的に限られた地域に降る激しい豪雨のこと。長くても1時間程度しか続かず、豪雨の降る範囲は広くても10キロメートル四方くらいと狭い局地的大雨。このため、前線や低気圧、台風などに伴う集中...

ゲリラ豪雨の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android