キング(読み)きんぐ(英語表記)Martin Luther King, Jr.

デジタル大辞泉 「キング」の意味・読み・例文・類語

キング(king)

王。国王。
トランプで、王様の絵のついた札。
チェスで王の駒。
王のような存在。最強のもの、最大のもの。「ホームランキング
[類語]国王帝王皇帝大王王様

キング(Billie Jean King)

[1943~ ]米国の女子テニス選手。1966年から1968年にかけてウィンブルドンテニス大会を3連覇。1972年には全仏オープンを制しキャリアグランドスラムを達成した。女子テニス協会(WTA)の設立を主導し初代会長に就任するなど、男子選手との格差是正にも取り組んだ。ビリー=ジーン=キング。キング夫人。

キング(Martin Luther King)

[1929~1968]米国の牧師・黒人解放運動指導者。非暴力直接行動主義の立場から、公民権運動を指導。1964年、ノーベル平和賞受賞。遊説中に暗殺された。キング牧師。
[補説]1963年にリンカーン記念堂で行った、“I have a dream(私には夢がある)”で始まる演説が有名。

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精選版 日本国語大辞典 「キング」の意味・読み・例文・類語

キング

  1. [ 一 ] ( Gregory King グレゴリー━ ) イギリスの経済統計家。紋章官・系譜学者。一七世紀のイングランドとウェールズの人口および国民所得の科学的な推計をはじめて行なう。穀物の収穫高と穀価との変動の相関についての「キングの法則」は有名。主著「イングランドの状態についての自然的政治的観察と結論」。(一六四八‐一七一二
  2. [ 二 ] ( Martin Luther King マーチン=ルーサー━ ) アメリカの黒人牧師。非暴力主義による黒人差別撤廃運動を指導。一九六四年、ノーベル平和賞を受賞。遊説中メンフィスで暗殺された。(一九二九‐六八

キング

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] king )
  2. 王。国王。
  3. トランプで王様の絵のついた一三番目の札。
    1. [初出の実例]「『それなら仕方がないクインを出さう』『さあキングだ勝ったらう』」(出典:花間鶯(1887‐88)〈末広鉄腸〉下)
  4. チェスで、将棋の王将に当たる駒。
  5. 王座を占めるもの。最優秀のもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「キング」の意味・わかりやすい解説

キング(B. B. King)
きんぐ
B. B. King
(1925―2015)

アメリカのブルース・シンガー、ギタリスト。「キング・オブ・ザ・ブルース」という称号を与えられている。1950年代に普遍的なモダン・ブルースを確立し、そのスタイルはその後も打ち破られることなく、多くの追従者を生み出した。

 ミシシッピ州、ミシシッピ川とヤズー川に挟まれたデルタ地帯のイッタ・ベナ近郊にあるプランテーションに小作人の子供として生まれる。本名ライリー・B・キングRiley B. King。4歳のころから教会で歌うようになり、両親の離婚後、同州キルマイクルで学校教育を受けながら、スピリチュアル(主に旧約聖書にもとづく教会音楽)に親しむが、母親と死別し、1930年代後半は主に農作業に従事して過ごす。ブラインド・レモン・ジェファソン、ロニー・ジョンソンLonnie Johnson(1894―1970)、Tボーン・ウォーカーといったブルースのギタリスト、それも単弦奏法を得意とするモダンなスタイリストのレコードを聞き、さらにチャーリー・クリスチャンやジャンゴ・ラインハルトといったジャズ・ギタリストの演奏にも衝撃を受ける。同時にゴスペル・ソングやカントリー音楽にも興味をもち、農作業を離れて音楽で身をたてることを夢見るようになる。

 1946年、従兄でコロンビア・レコードに録音もしていたデルタ・ブルースマン、ブッカ・ホワイトBukka White(1906―1977)を頼って、多くのミシシッピ出身のブルースマンが集まっていたメンフィスに出る。黒人スタッフによって運営されていたラジオ局WDIAにDJの職をみつけ「ブルース・ボーイ・キング」(これが後に略されてB・B・キングとなる)の名前で知られるようになっていった。1949年にナッシュビルのブリット・レーベルに初吹き込み、翌年からロサンゼルスの独立レーベル、モダン・RPMと専属契約を結び、1951年に出した「スリー・オクロック・ブルース」がリズム・アンド・ブルース・チャートで数週間1位となる大ヒットとなり、一躍その名をとどろかせた。これ以降「ユー・ノウ・アイ・ラブ・ユー」(1952)、「プリーズ・ラブ・ミー」(1953)、「バッド・ラック」「スウィート・リトル・エンジェル」(ともに1956)とヒットを飛ばす。主にウォーカーの影響から出発し、単弦奏法ギターにチョーキングを多用しながら、ボーカルとギターの緊張関係が生み出すダイナミズムを追求した。このころの曲が収録された代表的なアルバムに『シンギン・ザ・ブルース/ザ・ブルース』Singin' the Blues/The Blues(1956)がある。

 1960年代に入って「スウィート・シックスティーン」「ロック・ミー・ベイビー」といったヒット(『ロック・ミー・ベイビー』Rock Me Baby(1964)ほかに収録)で、ブルース歌手としても力のみなぎった作品を発表、押しも押されもせぬブルースの王者として認められ、革新的モダン・ブルース・スタイルの完成形を示す。ブルースマンとしては1960年代が全盛期となった。

 1964年には黒人聴衆を前にシカゴのリーガル劇場でライブ・レコーディングを行い、モダン・ブルースのなんたるかを示した。その後ABCパラマウントに移籍するがレイ・チャールズのような成功はしなかった。だが1960年代後半からイギリスのロック・グループからの絶賛をあび、また非黒人の聴衆を得て、ポップなマイナー調ブルース曲「ザ・スリル・イズ・ゴーン」(1971)で、世界に「B・Bあり」と知らしめる。このヒットにより日本にまでツアーを行い、日本でのブルース受容の第1ページとなった(『ライブ・イン・ジャパン』Live in Japan)。キングの人気の背景には並外れたスタミナ、ライブ志向(1990年代になるまで年間二百数十日のツアーを続けた)、気軽に見知らぬ人を楽屋へ入れたりする社交性、スター気取りのなさもあった。音楽面でもファンク、フィラデルフィア・ソウル、バラード、カントリー、ジャズとなんでもござれの積極性で、常に成功とはいいがたいものの継続的にアルバムを発表、『コンプリートリー・ウェル』(1969)、『ミッドナイト・ビリーバー』(1978)、『ブルース・サミット』(1993)といった力作も発表してきた(これら1960~1990年代の代表作は4枚組CD『キング・オブ・ザ・ブルース』(1992)等に収録されている)。エリック・クラプトンに招かれた20世紀最後の年の共作盤『ライディン・ウィズ・ザ・キング』(2000)はセールス面でも大成功を収めた。モダン・ブルースの革新者であると同時に、「ブルース大使」として世界中にブルースを紹介した功績も高く評価される。

[日暮泰文]

『B・B・キング、デイヴィッド・リッツ著、石山淳訳『だから私はブルースを歌う B・B・キング自叙伝』(2001・ブルース・インターアクションズ)』『チャールズ・カイル著、北川純子監訳『アーバン・ブルース』(2001・ブルース・インターアクションズ)』『Charles SawyerThe Arrival of B. B. King(1980, Double Day & Co., New York)』『Sebastian DanchinBlues Boy; The Life and Music of B. B. King(1998, University Press of Mississippi, Jackson)』


キング(Carole King)
きんぐ
Carole King
(1942― )

アメリカのシンガー・ソングライター。ニューヨーク市ブルックリン生まれ。本名キャロル・クラインCarole Klein。1960年代はレコード業界のヒット曲生産システムの裏方として数々のヒット曲を作曲し、1970年代は女性シンガー・ソングライターとして表舞台で大成功を収めた。それ以降の女性アーティストたちに指針を与えた、女性シンガー・ソングライターの先駆者である。

 キングは4歳からピアノを学び、幼なじみのニール・セダカNeil Sedaka(1939― )に刺激され、高校生のころから作曲を始める。ニューヨークのクイーンズ・カレッジで夫となる作詞家のジェリー・ゴフィンGerry Goffin(1939―2014)と出会い、その後コンビを組む。1960年にドン・カーシュナーDon Kirshner(1934―2011)が設立した音楽出版社アルドン・ミュージックの専属ソングライターとして雇われると、すぐに数多くのティーンエイジャー向けヒット曲を手がける売れっ子となった。

 ゴフィン&キングの出世作となったのは、1961年に全米ヒット・チャート第1位になった黒人女性コーラス・グループ、シュレルズの「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロウ」で、それからの5年間に2人は100曲以上のヒットを作り出した。代表曲には、ドリフターズの「アップ・オン・ザ・ルーフ」、シフォンズの「ワン・ファイン・デイ」、リトル・エバLittle Eva(1943―2003)の「ロコモーション」、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」などがある。ビートルズも、大きな影響を受けたソングライターとしてゴフィン&キングの名前を上げ、実際にクッキーズのヒット曲「チェインズ」をカバーしていた。

 1968年、ゴフィンと離婚したキングはロサンゼルスに拠点を移し、シンガー・ソングライターに転向する。シティというグループでアルバム1枚を発表後、1970年に『ライター』でソロ・デビュー。このアルバムはヒットしなかったが、翌1971年に2作目の『つづれおり』を発表すると、シングルの「イッツ・トゥー・レイト」が全米ヒット・チャート第1位にまで昇り詰め、アルバムも15週間第1位を占める大ヒットとなった。その後も『つづれおり』は302週もチャート内にとどまり続ける記録的なロングセラーとなり、2000年までに全世界で2200万枚以上を売り上げた。

 この『つづれおり』には、過去のゴフィン&キングのヒット曲をあらためて自演した録音も収められているが、大半は歌詞も自分で手がけた書き下ろしである。けっして美声とはいえない歌声で非常に私的な内容を、なまなましい感情をぶつけながら歌うキングの姿は、職業作曲家という前歴を知るものには衝撃的ですらあった。しかし、さすがに名作曲家だけあり、歌詞を運ぶメロディはどれも忘れがたいものばかりで、収録曲の大半はたちまちスタンダード曲となり、多くの歌手に繰り返しカバーされている。

 そして、『つづれおり』の大ヒットに加え、同アルバムに収録されていた「君の友達」が友人のジェームズ・テーラーJames Taylor(1948― )に取り上げられ、全米ヒット・チャート第1位の大ヒットとなり、このころ頻繁に共演していたキングとテーラーは1970年代前半のシンガー・ソングライター・ブームに火を付けることになった。

 その後もキングはつぎつぎとヒット・アルバムを発表していく。1971年の『ミュージック』は前作に続いてナンバー・ワン・アルバムになり、200万枚を売り上げ、1972年の『喜びは悲しみの後に』もヒット・チャート第2位を5週間維持するヒット作となった。1973年の『ファンタジー』は、リズム・アンド・ブルース畑のミュージシャンを起用して新たな音楽的方向を目指し、よりよい社会への「ファンタジー」を歌の主題とした社会批評的な意欲作だった。1974年の『喜びにつつまれて』からは大ヒット曲「ジャズマン」が生まれ、3枚目のナンバー・ワン・アルバムに輝いた。

 1977年からキングは再婚したリック・エバーズRick Eversと共作を始め、環境問題やニュー・エイジ思想への関心を深めていく。1980年代前半にはアイダホ州の田舎に住み、環境保護の運動家としても活動した。1980年代以降はアルバム発表のペースが極端に落ちたが、マライア・キャリーMariah Carey(1969― )など、彼女を尊敬する若い歌手に請われて、ときおり一緒に曲を書く。また、1990年にはゴフィンとともにロックン・ロールの殿堂入りをした。

[五十嵐正]


キング(Stephen King)
きんぐ
Stephen King
(1947― )

アメリカの作家。メーン州ポートランド生まれ。メーン州立大学卒業。少年時代よりSFや怪奇幻想小説を愛読し、娯楽小説作家を志す。大学在学中に本格的に創作を始め、いくつかの短編は商業誌に掲載された。卒業後、高校教師をしながら執筆活動を行っていたが、1973年に長編『キャリー』の原稿が出版社に売れ、翌1974年に刊行が決まったのを機に退職。以降、『呪われた町』(1975)、『シャイニング』(1977)、『ザ・スタンド』(1978)、『デッド・ゾーン』(1979)と、1970年代に次々とベストセラーを放ち、モダンホラー・ブームの火付け役となる。

 1980年代に入っても、キングは精力的に創作し、『クージョ』(1981)や『ペット・セマタリー』(1983)、そしてモダンホラーの金字塔と称される『IT(イット)』(1986)などを発表。たんなるベストセラー作家にとどまらず、現代社会の病巣を表象するモダンホラーのブランド名、あるいはアメリカの狂気と悪夢を語る特異な作家として絶賛されるに至る。人気作家の例にもれず、キングの作品のほとんどすべてが映画やテレビで映像化されている。なかでも、ホラーではない『スタンド・バイ・ミー』(1986)や『ショーシャンクの空に』(1994)、『グリーンマイル』(1999)などの作品の評価が高い。キング自身も一度メガホンをとってB級ホラー映画『地獄のデビルトラック』(1986)を発表したが、大失敗に終わっている。

 1990年代には、連続小説の形式で毎月1冊のペースで刊行された『グリーンマイル』、キングの別名義リチャード・バックマン(代表作は『痩(や)せゆく男』1984)による『レギュレイターズ』(1996)とキング名義の『デスペレーション』の同時発売、きわめて純文学に近い作風の『アトランティスのこころ』(1999)など、話題作・意欲作を世に問い、そして2000年には、インターネット経由による電子本だけで販売された中編『ライディング・ザ・ブレット』を発表し、電子出版の可能性を探った。ちなみに小説以外の作品に、ホラー文化論『死の舞踏』(1981)と自伝的エッセイ『小説作法』(2000)がある。

[風間賢二]

『池央耿訳『暗黒の塔1 ガンスリンガー』(1992・角川書店)』『池央耿訳『暗黒の塔2 ザ・スリー』(1996・角川書店)』『風間賢二訳『暗黒の塔3 荒地』(1997・角川書店)』『風間賢二訳『暗黒の塔4 魔道師の虹』上下(2000・角川書店)』『深町真理子訳『ザ・スタンド』上下(2000・文芸春秋)』『池央耿訳『スティーヴン・キング 小説作法』(2001・アーティストハウス)』『永井淳訳『キャリー』(新潮文庫)』『永井淳訳『呪われた町』(集英社文庫)』『永井淳訳『クージョ』(新潮文庫)』『深町真理子訳『シャイニング』(文春文庫)』『山田順子訳『スタンド・バイ・ミー』(新潮文庫)』『吉野美恵子訳『デッド・ゾーン』上下(新潮文庫)』『深町真理子訳『ペット・セマタリー』(文春文庫)』『小尾芙佐『IT』1~4(文春文庫)』『安野玲訳『死の舞踏』(福武文庫)』『白石朗訳『グリーン・マイル』1~6(新潮文庫)』『山田順子訳『デスペレーション』(新潮文庫)』『風間賢二著『スティーヴン・キング――恐怖の愉しみ』(1996・筑摩書房)』『ジョージ・ビーム著、風間賢二他訳『必携スティーヴン・キング読本』(1996・文芸春秋)』


キング(Martin Luther King, Jr.)
きんぐ
Martin Luther King, Jr.
(1929―1968)

アメリカ合衆国のバプティスト派の黒人牧師で、黒人公民権運動の指導者。ジョージア州アトランタに生まれる。バスの座席の人種分離に反対して1955年12月から1年以上にわたって闘われた、アラバマ州モントゴメリーのバス・ボイコット運動の指導者として一躍脚光を浴び、以後、大衆的な直接行動を数多く組織して、黒人に対する差別の打破、地位向上に大きく寄与した。57年には南部キリスト教指導者会議(SCLC)を組織、奴隷解放100周年を記念する63年のワシントン行進における「私には夢がある」I have a dream. 演説はつとに有名で、翌64年ノーベル平和賞を受賞した。68年4月4日、テネシー州メンフィスの清掃労働者のストライキ支援中に志なかばにして暗殺された。83年、その業績を記念して、彼の誕生日(1月15日)にちなみ、1月の第3月曜日が国民祝日と定められた。

 キング牧師の思想と行動は、二つの時期に大別される。前期は、モントゴメリーのバス・ボイコット運動の開始から1965年のセルマ‐モントゴメリー行進に至る時期で、キリスト教の教えとガンディーの市民的不服従思想を結合した非暴力的直接行動による法的、制度的な差別の打破を目ざす運動が、南部を中心に展開された。66年のシカゴにおける仕事や住宅の確保、学校における真の人種統合を要求する運動で開始される後期は、実生活の諸領域に現実に存在する差別や貧困の打破を目標とするものであり、ここから、キングはベトナム戦争反対の立場を明確にすると同時に、貧しいうえにしばしば未組織の黒人労働者の闘争を積極的に支援するようになっていった。この運動が十分に発展し成果をみる前にキングは凶弾に倒れたが、彼の行動の軌跡は、今日の黒人解放運動の課題や解決の方向をよく示している。

[大塚秀之]

『W・R・ミラー著、高橋正訳『マーチン・ルーサー・キングの生涯』(角川文庫)』


キング(Phillip King)
きんぐ
Phillip King
(1934―2021)

イギリスの彫刻家。北アフリカのチュニジアに生まれる。1955年から3年間ケンブリッジ大学で言語学を専攻。1957年から1958年までセント・マーチン美術学校に学ぶ。ヘンリー・ムーアの助手となり、母校で教える。1960年代に、ポリエステルやグラスファイバーなどの新しい素材の作品により、アンソニー・カロに続く色彩彫刻の代表的作家となる。このころの代表作に『貫通』(1965)がある。1968年ベネチア・ビエンナーレに出品。1970年代に入り、鋼板のほか木やスレートなど自然のままの素材を組み合わせた重厚な作品が多くなる。『オープン・プレース』(1977)にみられる構築性はその好例。1980年王立美術学校教授となる。1987年(昭和62)北九州市で開催された「第1回国際鉄鋼彫刻シンポジウム」に参加。1990年(平成2)「第1回フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展」(長野県・美ヶ原(うつくしがはら)高原美術館)に『月光の中の太陽』を出品し、特別奨励賞を受賞する。パブリック・アートとして大阪御堂筋(みどうすじ)の彫刻ストリートに『火の玉No.1』、千葉県幕張(まくはり)新都心に『たそがれのオベリスク』が展示されている。

[斉藤泰嘉]


キング(Gregory King)
きんぐ
Gregory King
(1648―1712)

イギリスの政治算術派の統計学者。イングランドのリッチフィールドに生まれ、ロンドンに出て製図、測量などの技術を学び、1677年に紋章官となり、のち徴税監督官ともなった。紋章学についての著作もあるが、彼を有名にしたのは『イングランドの状態についての自然的政治的観察と結論』Natural and Political Observations and Conclusions upon the State and Condition of England(1696)で、ここで彼は、イングランドとウェールズの人口、所得、地価、生産量などの推定を行ったが、この書物は今日の国民所得論の先駆をなすものといわれ、また当時の経済状態を知る貴重な資料ともなっている。ほかに『イングランドの海上貿易』Of the Naval Trade of England(1697)などの著書もある。なお、穀物の収穫高と穀物価格との変動の関係を定式化した「キングの法則」によっても知られている。

[浜林正夫]


キング(大衆娯楽雑誌)
きんぐ

大衆娯楽雑誌。1925年(大正14)1月、講談社より創刊。先に『雄弁』『講談倶楽部(くらぶ)』『少年倶楽部』『面白(おもしろ)倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』を刊行していた「雑誌王」野間清治(せいじ)は「万人向きの百万雑誌」をつくろうと研究を重ねた。当時最高に売れている雑誌でも25万~26万部であったから、100万の読者をもつには「年齢、性別、職業、地位を超えて親しまれ、そのうえためになり、とても安い雑誌」を出さなければと5年間考え続けた。数百の候補のなかから『キング』と誌名を決めた。掲載原稿の審査も厳重を極めた。そして空前の大宣伝をし、創刊号は350ページ50銭であったが74万部売れた。内容は野間イズムの集大成で、「わが成功訓」「世界一保険勧誘員奮闘物語」「二宮尊徳」「軍神を泣かした孝子清一郎」など、出世と金儲(かねもう)けと忠君愛国道徳をミックスしたもので創刊の翌年には150万部に達した。43年(昭和18)にはキングは敵性語であるとして『富士』と改題。戦後の46年(昭和21)ふたたび『キング』と改題されたが、まったく振るわず57年終刊。

[松浦総三]

『講談社編・刊『講談社の歩んだ五十年』(1959)』


キング(Ernest Joseph King)
きんぐ
Ernest Joseph King
(1878―1956)

アメリカの海軍軍人。オハイオ州に生まれ、1901年海軍兵学校卒業。海軍大学校校長などを経て、1941年2月大西洋艦隊司令長官(大将)。同年12月第二次世界大戦参戦直後、合衆国艦隊司令長官。翌1942年3月海軍作戦部長を兼任。空母機動部隊を作戦の主柱とした立体的海軍戦術を多用するなど、アメリカの勝利に貢献した。また大西洋憲章のための会談、カサブランカ会談などに顧問格として随行するなど、F・D・ルーズベルト大統領を外交面でも補佐した。1944年12月海軍元帥。1945年11月退役。

[遠藤雅己]


キング(William Lyon Mackenzie King)
きんぐ
William Lyon Mackenzie King
(1874―1950)

カナダの政治家。有名な政治改革者W・L・マッケンジーの孫としてオンタリオ州キッチナーに生まれる。トロント、シカゴ、ハーバードの各大学で学び、労働問題を専攻。1900年初代労働次官として政界入りし、08年自由党から議会に選出され、19年ローリエの後継者として自由党党首に就任。以後、三度首相となる(1921~26、1926~30、1935~48)。彼は、自由主義圏において最長の政権維持の記録をもっているが、彼のカナダ政治への貢献は、前半においてはイギリスからの外交上の自治を達成し、後半においては第二次世界大戦中のカナダを第一次大戦時と異なってイギリス系、フランス系による国論の分裂なしに導き、戦後ニューファンドランドのカナダ参加を達成したことに求められる。特異な個性の持ち主として知られ、「議会が決定する」をモットーに何事にも即断を避けたといわれるが、優れた政治指導者であった。

[大原祐子]

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改訂新版 世界大百科事典 「キング」の意味・わかりやすい解説

キング
Martin Luther King,Jr.
生没年:1929-68

アメリカのキリスト教牧師。マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗方式を人種差別撤廃を目ざす黒人闘争へ移植した黒人指導者。ジョージア州アトランタの有力黒人牧師の家庭に育った彼は,〈敵をも愛す〉キリストの愛を深く信じてはいたが,個人をこえた人種間の闘争手段としては有効でないと考える。黒人のためのモアハウス大学を卒業後,北部のクロイツァー神学校とボストン大学に学び,1955年に博士号を授与されるが,この間人種正義実現への手段を求めて思想的遍歴を重ね,ガンディーに到達した。ガンディーは相手の暴力を甘受することによってより大きな成果を得たのである。55年赴任先のアラバマ州モンゴメリーで,座席の差別待遇に対するバス・ボイコットが黒人市民によって起こされたとき,キングはこれをガンディー方式とキリストの愛(アガペ)を結合した非暴力直接行動nonviolent direct actionによって成功に導く。続いて南部キリスト教指導者会議Southern Christian Leadership Conference(SCLC)を結成し南部各地で非暴力研修会を開く。60年代前半の黒人闘争は,かくしてキングを五大黒人組織団結の中心的つなぎ役として展開し,世論を喚起して二つの公民権法を成立させる。北部都市の暴動化は,63年ワシントン大行進での演説〈私には夢がある〉の夢を悪夢に変えるが,65年シカゴのギャング団員に非暴力訓練を与えて成功し,暴動の地での非暴力闘争の有効性を実証する。67年春,反戦に踏み切る。64年のノーベル平和賞受賞は彼に国際平和への使命感を植えつけていた。また国内では政府の戦争政策が,黒人問題の基幹をなす貧困の解決にとって最大の障害なることに気づき,反戦・反権力姿勢を強める。遺書《良心のトランペット》では,貧者の闘争のための新しい非暴力方式として,大衆的市民不服従を提案している。黒人闘争に発し,人種平等,経済平等,平和,民主主義の非暴力的達成を目ざしたキングはひとつの時代精神となったのである。68年4月,テネシー州メンフィスにて凶弾に倒れる。逮捕歴30回以上。
公民権運動
執筆者:


キング
William Lyon Mackenzie King
生没年:1874-1950

カナダの首相(在職1921-26,26-30,35-48)。オンタリオ州に生まれる。母方の祖父は有名な急進的政治家のW.L.マッケンジー。トロント大学,シカゴ大学で労働問題を学び,ハーバード大学で社会学の博士号を取得。1900年新設の労働省次官となり,07年には日系・中国系移民の排斥を叫ぶバンクーバー騒動の調停に当たった。09年ローリエ首相の要請により自由党より出馬して下院議員となり,同時に労働大臣に就任した。11年総選挙で自由党が敗北して下野し,10年間政界を離れた。その間アメリカへ招かれたり,現在では古典ともいうべき《産業と調和》(1918)の執筆を行った。19年,ローリエ死去の後の自由党党首に選出され,21年の自由党の勝利で首相となる。以降30年まで,1926年の3ヵ月の保守政権期を除く第1期統治の時期は,ナショナリズムの高揚期として知られる。すなわち第1次世界大戦の勝利で自信を得たカナダは,イギリスからの外交上の自治権を求める運動を1920年代に推進し,26年のバルフォア宣言で実現した。国内では,革新政党の進出や地域主義の台頭に抗してリーダーシップを発揮したキングであったが,大恐慌には有効な対策を見いだしえず,30年に下野した。35年再び自由党を率いて勝利を収めたキングが直面した難問は,第2次世界大戦の勃発である。この時のキングは,防衛・経済面でアメリカ合衆国と提携し,国内ではフランス系カナダ人の離反という第1次大戦時の轍を踏むことなく,カナダを戦勝へ導いたといわれる。戦後のキングの最後の大事業は,ニューファンドランドのカナダ帰属(1949)であり,ここにカナダは現在の国土を完成した。一生独身を通したキングには,祖父を賛美する母へのコンプレクスがあったとされ,その性格には特異な面もみられるが,20世紀カナダの諸問題を乗り越え,カナダ人を分裂させることなく世界第一級の国家へと導いた手腕は高く評価されている。
執筆者:


キング

野間清治によって1925年(大正14)1月号から刊行された大衆娯楽雑誌。大正期に成長しつつあった社会の大衆化現象を敏感にとらえた野間は,〈万人のための百万雑誌〉という望みを託し,〈日本一おもしろい,日本一為になる,日本一安い雑誌〉をモットーとした。創刊号には〈《キング》は雑誌界の王者(キング)である。国立公園(ナシヨナルパーク)である。一大驚異(グレートワンダー)である〉と抱負を述べ,多額の宣伝費を投入した。誌面の構成では,表紙・口絵に洋画の大家を起用,3色刷りの泰西名画,アートの写真ページを並べ,本文では成功美談,道徳訓などのノンフィクションと大衆小説を混じえて変化を与えた。当初50万部を見込んだ創刊号は74万部に達し,その後順調に発展,講談社文化(本誌発刊を機に社名を大日本雄弁会講談社と改称)の中心的存在となった。43年その誌名が敵性語であることから《富士》と改名,第2次大戦後の46年再び元に戻ったが,戦後文化に適応できず,57年に廃刊された。
講談社
執筆者:


キング
Ernest Joseph King
生没年:1878-1956

アメリカの海軍軍人。オハイオ州ロレーン出身。大西洋艦隊司令官などを経て,第2次世界大戦時には海軍作戦部長(1942-45)。1944年に海軍元帥となった。大戦時には,アメリカ統合参謀本部(JCS),英米合同参謀本部のメンバーで,軍事戦略問題に関するF.ローズベルト大統領の顧問でもあった。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「キング」の意味・わかりやすい解説

キング
King, Billie Jean

[生]1943.11.22. カリフォルニア,ロングビーチ
アメリカ合衆国のテニス選手。女子プロテニスの地位向上に大きく貢献した。1961年ウィンブルドン選手権大会の女子ダブルスにカレン・ハンツェと組んで出場し,史上最年少ペアで優勝。ウィンブルドン選手権では歴代最多の 20勝(女子シングルス 6勝,女子ダブルス 10勝,混合ダブルス 4勝)を達成したが,2003年にマルチナ・ナブラチロワがタイ記録を樹立した。1968年全豪選手権大会(→全豪オープン)女子シングルス,1972年全仏オープン女子シングルスを制した。ダブルス選手としても最も優れた選手の一人で,27の主要タイトルを獲得した。1967年にはウィンブルドン選手権,全米選手権大会(→全米オープンテニス選手権大会)のシングルス,ダブルス,混合ダブルスの 3種目すべてを制覇という偉業を達成した。1968年にプロに転向。女子プロテニス協会 WTAの設立者の一人で,初代会長(1974)を務めた。1984年に現役を引退し,1990年代中頃からフェドカップオリンピック競技大会のコーチを務めた。1987年に国際テニス殿堂入り,1990年には全米女子殿堂入りを果たした。

キング
King, William Lyon Mackenzie

[生]1874.12.17. オンタリオ,ベルリン
[没]1950.7.22. ケベック,キングズメア
カナダの政治家。 W.L.マッケンジーの孫。トロント大学卒業後アメリカで学び,1900年政界入り。労働次官として 07年のバンクーバーにおける排日移民騒動の処理にあたった。 09年 W.ローリエ自由党内閣の労相。 11年総選挙に敗れ,一時ロックフェラー財団の労働問題顧問をつとめたが,19年ローリエの跡を継いで自由党党首。 21~26,26~30,35~48年首相。イギリス系カナダ人だが,E.ラポアント,L.サン・ローランらフランス系カナダ人のよき同僚を得て,ケベックの自由党支持を確保し,カナダ史上記録的に長い首相の座を維持した。 45年国連創設会議カナダ代表団長,48年国連カナダ首席代表。一生涯独身を通したことでも有名。彼の最大の功績は第2次世界大戦時にカナダの統一を確保し,外交上の自治を一層推進させたことで,カナダが大戦に自国の責任において協力し,戦争への参加が,イギリス系とフランス系カナダ人の対立抗争の種とならなかった点は注目される。一方,カナダとイギリス,アメリカの関係はかつてないほど強化され,特に戦後のカナダ経済における対米依存の傾向は,キング時代の末期から明らかになった。老齢年金の制定,社会福祉的立法の実現に尽力。主著"Industry and Humanity" (1918) ,"Canada and the Fight for Freedom" (44) 。

キング
King, B.B.

[生]1925.9.16. ミシシッピ,イッタベナ近郊
[没]2015.5.14. ネバダ,ラスベガス
アメリカ合衆国ブルースミュージシャン。本名 Riley B. King。ミシシッピ・デルタブルースの伝統に深く根ざしながら,ジャズリズム・アンド・ブルースの影響を受けたキングの音楽は,世界の喝采を浴び,さまざまなジャンルのポピュラーミュージシャンたちにひらめきを与えた。20代初めにテネシー州メンフィスに移り,ナイトクラブで演奏するかたわら,ラジオ局でディスクジョッキーの職を得て「B.B.」(ブルース・ボーイ)というニックネームで呼ばれるようになった。初ヒットは 1951年の『スリー・オクロック・ブルース』。おもなアルバムに,初のグラミー賞受賞作となった『ザ・スリル・イズ・ゴーン』(1969),バン・モリソン,ボニー・レイット,エリック・クラプトンらを迎えたアルバム『デューシズ・ワイルド』(1997)など。グラミー賞は通算 15回受賞。1980年ブルースの殿堂入り。1990年ナショナル・メダル・オブ・アーツ,1995年ケネディ・センター功労賞を受けた。

キング
King, Charles

18世紀初めのイギリスの経済評論家,商人。イギリスの保護主義的重商主義の先駆者で,代表的な論客であった。 1713年トーリー党政府が締結したユトレヒト条約の付帯条項である通商条約案はフランスとの自由貿易再開を認めたものであったが,キングはホイッグ党の機関紙"The British Merchant"を主導して,D.デフォーの主導するトーリー党機関誌"Mercator"の貿易開放論に対抗し,保護主義の観点から通商条約の批准阻止に成功した。彼の説は国内市場を対外市場と区別して重視し,低賃金の後進諸国と競争するための保護関税の必要を説いたものであった。のちキングは新聞によるこの対仏通商論争の主張をまとめ,21年に著書『イギリスの商人』 The British Merchant,or Commerce Preserved (3巻) として出版している。これはイギリス重商主義の代表的文献の一つとされている。

キング
King, Martin Luther, Jr.

[生]1929.1.15. ジョージア,アトランタ
[没]1968.4.4. テネシー,メンフィス
アメリカの黒人牧師,人種差別撤廃運動家。ノーベル平和賞受賞 (1964) 。 1948年モアハウス大学,51年クローザー神学校で神学士,55年ボストン大学で博士の学位を取得。 54年アラバマ州モントゴメリで牧師に叙任された。 56年同地でバス内での人種差別に抗議してバス・ボイコット運動を起し,1年間余にわたり黒人住民の団結と協力を得てこれを成功させた。この後,南部キリスト教指導会議 SCLCを組織。 63年黒人の公民権を求めるワシントン大行進を指導。 67年活動をベトナム反戦運動にまで拡大。 68年に暗殺されるまですべての運動を非暴力主義で貫いた。著書『黒人はなぜ待てないか』 Why We Can't Wait (64) ほか。

キング
King, Gregory

[生]1648.12.15. スタッフォードシャー,リッチフィールド
[没]1712.8.29. ロンドン
イギリスの統計家,系譜紋章学者。土地測量士の子として生れ,印刷,測量士の助手などを経て,紋章関係の図版製図,土地測量の技術を修得。 1667年紋章院属官,のちにランカスター紋章官。紋章学,測量,印刷術などに深い造詣をもっていたが,同時に社会現象の数量的観察に興味をもち,その著『イングランドの状態』 Natural and Political Observations and Conclusions upon the State and Condition of England (1696) は,最初の科学的人口統計調査として名声を博した。

キング
King, Rufus

[生]1755.3.24. マサチューセッツ,スカーバラ
[没]1827.4.29. ロングアイランド
アメリカの政治家,外交官。 1784~87年大陸会議の代表,87年合衆国憲法制定会議に出席,89~96年ニューヨーク州選出の連邦上院議員,連邦派の指導者となる。 1816年 J.モンローに対抗して大統領選挙の候補となったが敗北,連邦派最後の大統領候補となった。2度にわたってイギリス駐在公使をつとめた (1796~1803,25~26) 。

キング
King, Phillip

[生]1934.5.1. チュニス,ケレディン
チュニジア生れのイギリスの彫刻家。 1945年渡英。ケンブリッジ大学で言語学を専攻したのち,1年間セントマーティン美術学校で A.カロに彫刻を学んだ。カロ同様,59年から2年間 H.ムーアの助手となる。初の個展では既成品を組合せた作品を発表。次いで彩色彫刻に移り,カロとともに 1960年代のイギリス彫刻界の代表的作家となった。またプラスチックによる彩色彫刻も制作。 70年代になると金属を素材とし,曲面の交錯するダイナミックな構成的作品を作り出した。

キング
King, Stephen Edwin

[生]1947.9.21. メーン,ポートランド
アメリカの小説家。最初の長編小説『キャリー』 Carrie (1974) 以来,『呪われた町』 Salem's Lot (75) ,『シャイニング』 Shinning (77) ,『デッドゾーン』 The Dead Zone (79) ,『It (イット) 』 (86) ,『ミザリー』 Misery (87) など一貫してさまざまな恐怖を主題としたベストセラーを発表し続ける。 1980年までに総計 2200万部が売れたともいわれ,また多くの作品が映画化された。ほかにリチャード・バックマンの筆名でも多くの小説を執筆している。

キング
King, Ernest Joseph

[生]1878.11.22. ロプレイン
[没]1956.6.25. ポーツマス
アメリカの海軍軍人。 1901年海軍兵学校卒業。アメリカ=スペイン戦争に士官候補生として参加,第1次世界大戦では大西洋艦隊参謀。第2次世界大戦中,アメリカの艦隊総司令官兼海軍作戦部長 (1942~45) 。 44年元帥。

キング
King, William Rufus de Vane

[生]1786.4.7. ノースカロライナ,サムソン
[没]1853.4.18. アラバマ,カハバ
アメリカの政治家,外交官。 1810年連邦下院議員。 16年ナポリ王国,ロシア帝国への外交使節。 19~44,48~53年民主党の連邦上院議員。 53年副大統領。

キング
King, John Alsop

[生]1788.1.3. ニューヨーク
[没]1867.7.7.
アメリカの政治家。独立革命時代の政治指導者 R.キングの子で,1849~51年連邦下院議員。 57~59年ニューヨーク州知事。

キング
King, Henry

[生]1592
[没]1669
イギリスの詩人。チチェスターの主教。ダン,I.ウォルトン,B.ジョンソンの友人。形而上詩のスタイルで書かれたエレジー『葬送』 Exequyなどの佳作を含む『詩集』 Poems (1657) がある。

キング
King, Francis Henry

[生]1923
イギリスの小説家。モーム賞を得た『分流』 The Dividing Stream (1951) などがある。イギリス文化振興会京都地区代表として滞日 (59~63) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「キング」の解説

キング(マーティン・ルーサー)
Martin Luther King, Jr.

1929~68

アメリカの黒人解放運動の代表的指導者でバプティスト派の牧師。アメリカの思想家で詩人のソローから市民的不服従,その影響を受けたインドのガンディーから愛の力と非暴力の思想を学び,非暴力直接行動によって黒人差別の撤廃運動を指導した。1955年末からアラバマ州モンゴメリーで,バスの人種分離に抗議するモンゴメリー・バス・ボイコット闘争に勝利して非暴力直接運動の威力を示した。63年ワシントン大行進で「私には夢がある」と演説し世界中を感動させ,64年の公民権法成立に向けて運動を盛り上げた。67年にはベトナム反戦に傾倒,68年にメンフィスで黒人労働者の運動を支援中,暗殺された。83年には,キングの誕生日を祝して1月の第3月曜日が国民の祭日と定められた。


キング(マッケンジー)
William Lyon Mackenzie King

1874~1950

カナダ自由党の首相(在任1921~26,26~30,35~48)。国内でのイギリス系とフランス系世論の融和,英米双方からの相対的自立を掲げて,カナダで最も長く首相を務め,第二次世界大戦期のカナダ政治を指導した。

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百科事典マイペディア 「キング」の意味・わかりやすい解説

キング

米国の黒人牧師。ジョージア州アトランタの黒人牧師の家庭に生まれる。ガンディーの影響を大きく受け,1955年アラバマ州モンゴメリーで,市営バスの差別的座席制に抗議して非暴力によるバス・ボイコット運動を指導したのを契機に全国的な公民権運動の指導者となる。1963年ワシントンで25万人が参加した大行進を主催,公民権法成立に貢献。1964年ノーベル平和賞受賞。1968年メンフィスで暗殺された。
→関連項目バプティストメンフィスモンゴメリー

キング

1925年講談社が創刊して空前の成功を収めた大衆雑誌。大衆社会状況を察知した野間清治が〈万人のための百万雑誌〉を目ざして刊行,最高発行部数150万。〈岩波文化〉に対比される〈講談社文化〉の中心となった。1943年《富士》と改題,1946年旧称に復したが1957年廃刊。
→関連項目主婦の友

キング

米国の小説家。1974年に《キャリー》を発表後,ベストセラー作家となり〈モダン・ホラー〉の旗手とみなされる。映画化作品は多く,また作品のほとんどが邦訳されている。リチャード・バックマン名義の作品を含めて長編は30編を越える。《シャイニング》(1977年),《クージョ》(1981年),《IT》(1986年),《ミザリー》(1987年),《ローズ・マダー》(1995年),《グリーンマイル》(1996年)など。
→関連項目キューブリック

キング

米国のブルース・ギター奏者,歌手。本名ライリー・B.キングRiley B.King。今日,もっともよく知られたブルース奏者の一人で,〈キング・オブ・ザ・ブルース〉の異名をとる。Tボーン・ウォーカーに影響された単音でのギター・ソロ演奏に特徴があり,より成熟したスタイルを現在に伝えている。1965年にリリースされたアルバム《ライブ・アット・ザ・リーガルLive At The Regal》は,ブルースの真髄を示すものとして,高い評価を得ている。

キング

カナダの政治家。労働問題に精通し,労相(1909年―1911年)となる。1907年,日系・中国系移民の排斥を叫ぶバンクーバー騒動を調停。1919年自由党党首に推され,1921年―1948年の間に3度首相となり,22年間政権を握った。この間,米英と軍政両面の協力体制を確立し,国連創立にも貢献した。

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朝日日本歴史人物事典 「キング」の解説

キング

没年:明治19.8.28(1886)
生年:1848
明治期に来日したお雇い外国人。イギリス人機械・造船技師。スコットランドのグラスゴー生まれ。明治6(1873)年ダイアーらと共に来日し,工学寮(東大)の模型師に就任。8年民間雇となり,12年に平野富二の経営する石川島平野造船所の分工場として設けられた横浜石川口製鉄所の顧問技師を委嘱された。官営横浜製鉄所が西洋から買い入れた新しい設備を引き継いで,船舶用機械と一般機械の製造を開始し,その技術指導をした。これが今日の石川島播磨重工業へと発展した。19年コレラにかかり東京で死去し,東京染井霊園外国人墓地に葬られた。

(三好信浩)

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「キング」の解説

キング

正式社名「株式会社キング」。英文社名「K I N G C o., L t d.」。繊維製品製造業。昭和21年(1946)前身の「山田商店」創業。同23年(1948)「株式会社キング染工芸社」設立。同53年(1978)現在の社名に変更。東京本社は東京都品川区西五反田。衣料品会社。ミセス向けなど婦人服中心のアパレル中堅。専門店向けが多い。テキスタイルの卸売りも手がける。東京証券取引所第1部上場。証券コード8118。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「キング」の解説

キング

講談社の野間清治が1925年(大正14)1月巨費を投じて創刊した大衆娯楽雑誌。多彩なグラビア・写真・ノンフィクション物,村上浪六・吉川英治らの大衆小説などが人気を博し,翌年の新年号は150万部という当時では驚異的な部数を発行し,講談社文化の中心となった。太平洋戦争下の43年(昭和18)3月,敵性語という理由から「富士」と改題。46年1月に復題したがふるわず,57年12月廃刊。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「キング」の解説

キング King, Edward Julian

1866-? アメリカの外交官。
1866年3月29日生まれ。明治25年(1892)来日して日本郵船に入社,27年まで船長をつとめる。ついで函館で輸出業をいとなみ,37年函館駐在アメリカ領事に任命された。大正8年(1919)横浜で死去したと推定される。ニューヨーク出身。

キング King, Archibold

1848-1886 イギリスの造船技術者。
明治6年(1873)来日。8年まで工部省工学寮(現東大)の器械学教師,9年から石川島平野造船所(石川島播磨(はりま)重工業の前身)の技師をつとめた。明治19年8月28日コレラのため東京で死去。38歳。グラスゴー出身。

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占い用語集 「キング」の解説

キング

コートカードの中の一つ。タロットカードの小アルカナ56枚のうち、コートカードは、キング(王)・クィーン(女王)・ペイジ(小姓)・ナイト(騎士)の四種類があり、またキング(王)にはワンド(棒)・カップ(杯)・ソード(剣)・ペンタクル(金貨)の四種類がある。

出典 占い学校 アカデメイア・カレッジ占い用語集について 情報

デジタル大辞泉プラス 「キング」の解説

キング

イギリスで結成されたエレクトロニカ・バンド、イヤーズ・アンド・イヤーズの曲。2015年発売のアルバム「コミュニオン」収録曲。原題《King》。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

367日誕生日大事典 「キング」の解説

キング

生年月日:1648年12月15日
イギリスの統計家,系譜紋章学者
1712年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

防府市歴史用語集 「キング」の解説

キング

イギリスの水師提督。毛利敬親・元徳父子と問屋口の貞永邸で会見し、一緒に写った写真を残しています。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内のキングの言及

【カナダ】より

…減速経済の下,世界各国はむしろ雇用の拡大のために厳しい外国企業の争奪戦の段階に入っていたのである。
[北米市場統合への動き]
 加米経済関係の緊密化は,両大戦間期のアメリカ企業の対カナダ直接投資により深まりつつあったが,マッケンジー・キング自由党政権下で1935年に締結された加米互恵条約によっていっそう強化された。第2次世界大戦以後,59年の防衛生産分担協定を通してさらに強化された。…

【公民権運動】より

…黒人や他の少数グループが,教育,雇用,住居,選挙,司法などの分野における人種差別に抗議し,白人と同等の権利の保障を要求するアメリカの運動。公民権運動がもっとも活発であったのは,1954年の合衆国最高裁判所の人種別学法違憲判決(ブラウン事件判決)から65年の投票権法の制定に至る期間である。この時期には,黒人と白人が参加した有力な運動団体(全米黒人地位向上協会(NAACP),全国都市同盟(NUL),南部キリスト教指導者会議(SCLC),人種平等会議(CORE),学生非暴力調整委員会(SNCC)など)が中心になって,南部における人種隔離制度,差別慣行を打ち破るために非暴力・直接行動が繰り広げられた。…

【平和】より

…社会科学はこれまで,戦争についてほどには平和について知識を蓄積してきていない。実際,戦争の歴史は書かれても,平和の歴史が書かれることはなかった。戦争は激しい情動の源泉であるために,詩歌,文学,絵画,映画などの強いモティーフになってきたが,平和がそれらに占める位置はごくささやかなものにすぎなかった。平和とは失われて初めてその尊さがわかる類のものであり,平和のうちに暮らしているとき,ひとはことさらにそれに思いをはせることはなく,せいぜい平和ならざる他者の不幸との比較において己の平和を自覚するものなのである。…

【マス・コミュニケーション】より

…なお,義務教育就学率は1902年から90%を超えている。(2)マス・コミュニケーションの成立と展開 日本におけるマス・コミュニケーションの世界の成立は,関東大震災以降,都市化が進展し,都市中間層の間に〈マス化現象〉があらわれ始める1920年代の前半,具体的には株式会社として大量生産,大量販売の体制をととのえ,〈不偏不党〉のイデオロギーを定着させた《大阪朝日新聞》《大阪毎日新聞》の両紙がともに100万部を超える24年,講談社の野間清治が〈国民雑誌〉と称するそれまでにない部数(創刊号74万部,翌新年号150万部)をもつ《キング》を創刊し,最初の電波媒体であるラジオが仮放送を開始する25年を,その指標にみてもよい。もっともラジオが農村地帯にまで広く普及し,いわゆるナショナル・メディアに成長していくのは,中国との全面戦争が始まる30年代後半のことである。…

※「キング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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