改訂新版 世界大百科事典 「ギリシア解放戦争」の意味・わかりやすい解説
ギリシア解放戦争 (ギリシアかいほうせんそう)
1821-29年にかけて闘われたオスマン帝国からのギリシアの解放戦争。ギリシア革命またはギリシア独立戦争ともいわれている。1821年春,バルカン諸民族の一斉蜂起を目ざしたエテリア蜂起はオスマン・トルコ軍によって速やかに鎮圧されたが,エテリアの組織網はすでにギリシア各地にもひろがっており,蜂起のしらせは大きな反響を呼びおこした。同年4月6日パトラスの主教ゲルマノスは蜂起を呼びかけ,蜂起はモレア半島,大陸部,エーゲ海諸島へ拡大した。翌年1月にはエピダウロスに召集された最初の国民議会が憲法を発布,そこで初めてギリシア語を話しギリシア正教を信仰するギリシア人の民族国家の理念が表明された。これに対しオスマン・トルコ軍はキオスなどで大虐殺を行ったが,クレフティス(ギリシアの義賊)のコロコトロニスらの率いる蜂起軍は海陸でトルコ軍を撃破した。蜂起軍の主体は農民だったが,23年から指導部内にコロコトロニスと新興地主層(コジャバシ),コジャバシと船団所有者の間に対立が生じた。さらに25年スルタンのマフムト2世がエジプトのムハンマド・アリーに援軍を要請し,その子イブラーヒーム・パシャの軍隊がモレア半島を攻略するに及んで蜂起軍は苦境に立たされた。イブラーヒーム軍はついでギリシア人が英雄的な抵抗を示したミソロンギを攻略して全滅させ(1826年4月),アテネも占領した。蜂起勃発後,自由を求める西欧の親ヘレニストのなかには,バイロンのように蜂起側に参加する者もいたが,ヨーロッパ列強は一般に傍観的態度をとり,とくにメッテルニヒは強硬に蜂起に反対した。しかし27年にギリシア中央部でカライスカキスの率いる蜂起軍が勝利したころから,ギリシアをめぐる国際情勢も変化しはじめた。27年4月に開かれた国民議会はロシアの外相だったカポディストリアスを大統領に選出,同年7月に結ばれたロンドン協定で,イギリス,フランス,ロシアはそれぞれ自国の利権確保をねらい,オスマン帝国の存続を前提としながらも,ギリシア自治案を採択した。この案はスルタンによって拒否され27年10月のナバリノの海戦となり,トルコ・エジプト艦隊は敗北した。ロシアはさらにオスマン・トルコとの戦争準備をし,イギリス,フランスはロシアの影響の増大を恐れてそれを阻止しようとしたが,スルタンの好戦的態度によって露土戦争(1828-29)が勃発,軍事的に大敗を喫したオスマン・トルコはロシアとアドリアノープル条約を締結して,初めてギリシアの自治を承認した。主権国家ギリシアの独立は翌年2月のロンドン会議でイギリス,フランス,ロシア3国によって正式に承認されたが,国境設定など未解決の問題を残した。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報