クラウス(英語表記)Karl Kraus

デジタル大辞泉 「クラウス」の意味・読み・例文・類語

クラウス(Karl Kraus)

[1874~1936]オーストリアのユダヤ系作家・詩人・ジャーナリスト。個人誌「ファッケル炬火たいまつ)」で、逆接や風刺を駆使した社会批判的な評論活動を展開。著「第三のワルプルギスの夜」「人類最後の日々」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「クラウス」の意味・わかりやすい解説

クラウス
Karl Kraus
生没年:1874-1936

オーストリアの批評家,詩人,劇作家ボヘミアのイッチンに,ユダヤ人の製紙工場主ヤーコプの第9子として生まれた。1877年家族がウィーンに移住してから,生涯をウィーンで送った。大学で法学と哲学と文学を学びながら新聞・雑誌に寄稿を開始し,以後死ぬまで,ウィーンというドイツ語文化圏の中でも独特の位置を占める都市の,文化伝統をになった文筆活動と朗読とに生涯をかけた。その活動はすべて〈倫理〉としての文化というただ一つの志向を,オーストリア・ハンガリー二重帝国の崩壊と新しいオーストリアおよびドイツ・ワイマール共和国の危機の中で,そのときどきのアクチュアルな問題と妥協を許さぬ対決をすることで展開したものである。それは当時のウィーン文化の共通の特性であり,例えば言語表現の絶対的倫理を求めたウィトゲンシュタイン姿勢ともつながっている。クラウス自身も言語の虚偽と徹底的に戦ったことから,一方ではジャーナリズムと対決し,他方では自分の言語を痛烈な風刺的言語に磨き上げていった。それは,文化が専門分化した西欧市民社会の中で,逆に遅れたオーストリア・ハンガリー二重帝国の未分化の文化伝統,例えば劇作家と俳優と歌手を一身に兼ねて風刺的即興演技を行ったネストロイのような姿勢に新しい意味を与え,市民文化に対して批判的機能を果たした。その意味でクラウスが果たした役割は,近代西欧市民文化が技術化してユダヤ人のジェノサイド(大量虐殺)に見られるような黙示録的崩壊を遂げた現象を内側から証言することによって,文化再生の使徒となったものといえる。彼のそうした活動は主として,1899年4月に創刊して死ぬまで続けた個人雑誌《炬火Die Fackel》を舞台として行われた。機知と風刺を武器としてあらゆる領域の腐敗と戦ったこの雑誌の特徴は,ウィーンの警察長官や悪徳ジャーナリストに対する攻撃に,典型的に現れている。クラウスはこの雑誌をほとんど一人で書いたが,F.ウェーデキントストリンドベリなど独特の言語表現を行った作家の作品も掲載されている。さらに言語の純粋性を保持するためのアフォリズム集《宣言と反論》(1909),オーストリアの崩壊を仮借ない筆致で描いた《人類最後の日々Die letzten Tage der Menschheit》(1919),第三帝国に対する怒り《第三ワルプルギスの夜》(1952)など,一貫して批判的姿勢の文筆活動を行ったほか,700回にわたって自作やオッフェンバックなど他の作家の作品の朗読会を行い,ネストロイ的手法の実践による文化の倫理的再生を図った。
執筆者:


クラウス
Werner Krauss
生没年:1884-1959

ドイツの俳優。1907年アーヘンでデビュー,ニュルンベルクでモイッシAlexander Moissiと《ハムレット》を共演した縁で,ベルリン,ウィーンへの道がひらかれ,15年以降は映画(《カリガリ博士》等)にも出演,古典・現代物いずれも手堅くこなした。《ユダヤ人ジュースJud Süss》等,ナチスの映画に協力したため,約10年間追放処分をうけた。格調正しいその芸風はドイツ演劇黄金時代の面影を伝え,また自叙伝は多彩な人脈を浮彫にする。
執筆者:


クラウス
Franz Xaver Kraus
生没年:1840-1901

ドイツのトリールに生まれ,広い展望と鋭い批判力をもつ教会史家,芸術史家,エッセイストとして活躍したカトリック司祭。1872-78年シュトラスブルク大学教授,1878-1901年フライブルク大学教授。ローマのカタコンベ解説(1873),聖画像学最初の総括的論述(1900)等で有名。晩年宗教的カトリシズムと政治的カトリシズムを区別し,教皇庁中心の教会統治に落胆していたカトリック知識人を,匿名または偽名の数多くのエッセーで激励した。
執筆者:

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化学辞典 第2版 「クラウス」の解説

クラウス
クラウス
Klaus, Karl Karlovich(Carl Ernst Claus)

ロシア帝国内のドルパト(現在はエストニアのタルトゥー)にドイツ系の住民の子として生まれる.早くに両親を亡くしたので,首都のサンクトペテルブルクの薬局の徒弟となる.1815年にドルパトに戻り,同地の大学の薬学の試験に合格した.1817年サラトフに移り薬局助手を務める.1821年に結婚し,1826年カザンに自分の薬局を開業して移住.1831年ドルパト大学の化学講座の副手になり,化学を本格的に勉強しはじめ,1837年には修士論文を提出.翌年,カザン大学の化学講座の助手に採用され,新設の化学実験室の管理者になる.1838年に博士論文を提出して,化学講座の助教授に昇進.1852年ドルパト大学の薬学講座の正教授に任命された.1840年から白金精錬の残さの研究をはじめ,1844年に白金族の新元素の単離に成功し,ロシアの古名にちなんでルテニウムと命名した.

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「クラウス」の解説

クラウス

主にスウェーデンで活動したドイツ出身の作曲家、指揮者、著述家。文学サークルを通じて知り合ったスウェーデンの学生に誘われ、ストックホルムに移ったためである。国王の提案した筋書きに基づくオペラ《カルタゴ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

百科事典マイペディア 「クラウス」の意味・わかりやすい解説

クラウス

オーストリアの批評家。1899年ウィーンで評論雑誌《炬火(たいまつ)》を創刊,以後死の直前まで通算922号の大半を自ら執筆し,あらゆる芸術分野の背後にある精神の腐敗と虚偽に目を向け痛烈に風刺。ほかに戯曲《人類最後の日々》(1919年)などがある。
→関連項目ネストロイ

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367日誕生日大事典 「クラウス」の解説

クラウス

生年月日:1872年7月24日
チェコスロバキアの哲学者
1942年没

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世界大百科事典(旧版)内のクラウスの言及

【ダルマティカ】より

…初期キリスト教徒の男女に着用され,身幅も袖幅も広く,丈も長い。一般に身ごろと袖に〈クラウス〉という条飾をトリミングした。4世紀ごろからダルマティカは裁断の上にも新しいくふうが行われ,5世紀以来ビザンティン帝国の公服や司祭服となり,中世初期の西ヨーロッパにも継承された。…

【ブレード】より

…シャネル・スーツのトリミングやセーラー服の蛇腹(じやばら)等はブレードを効果的に使った例である。古代ローマの衣服トゥニカにつけた紫の縁取りや線条の飾りクラウスclavusが起源といわれ,これがしだいに縁飾りの部分に残っていく。16世紀のヨーロッパでは貴族の間に銀のテープ,金モールなどの縁取りが流行したが,フランスではルイ14世時代に宰相マザランによって使用が禁止され,それにかわってリボンループを衣服の装飾に使うようになった。…

【モダニズム】より

…イタリアではムリR.Murri(1870‐1944)がカトリックの政治参加と民主主義,社会主義の導入を提唱した。ドイツでの運動は活発でなかったが,F.X.クラウスその他によって宗教的心情の回復が説かれた。教皇レオ13世(在位1878‐1903)はこれらの動向に比較的寛容であったが,次のピウス10世(在位1903‐14)は最初から強硬で,ヒューゲルらを除き聖職者をほとんど破門にし,禁書を命じた。…

【ウィーン】より

…R.シュトラウスと協同してオペラに幻想的世界をつくりだしたホフマンスタール,フロイトの影響下で独自の心理描写を展開したシュニッツラーらがその典型である。文学においても多くの作家はたとえばカール・クラウスの雑誌《炬火》に見られるように,第1次世界大戦の悲惨さと古いオーストリアの解体の意識を担いながら,内面的心理の葛藤を社会批判に結びつけたのである。さらにまた哲学の世界において形式論理学を武器に伝統的な形而上学を批判し,この哲学的立場を法学,心理学,民俗学,経済学,歴史学などにおいて展開させ,多くの場合実証主義的な〈ウィーン学団〉を確立した(論理実証主義オーストリア学派)。…

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