デジタル大辞泉
「クリュニー修道院」の意味・読み・例文・類語
クリュニー‐しゅうどういん〔‐シウダウヰン〕【クリュニー修道院】
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クリュニー修道院
クリュニーしゅうどういん
L'Abbaye de Cluny
フランスのクリュニーを根拠としたベネディクト会修道院。創立は 910年。最初の修道院長はベルノー (在職 906~927) で,彼の指導下に聖堂 (第1期) そのほかの建物が建立された。その後継者たちの時代に,その精神活動は高まり,各地のベネディクト会修道院群の改新を遂行し,11世紀後半のフーゴー院長の時代にはその頂点に達した。第2期クリュニー修道院の建設は,981年頃。三廊十字形のバシリカ式聖堂で,3つの東アプスをもち,筒形ボールトのアトリウムとナルテックス,トンネル形ボールトの身廊部から成る。このタイプの聖堂は,ブルゴーニュからノルマンディー,さらにドイツのヒルザウの聖堂にまで影響を及ぼした。スペインのサン・ファン・デ・ラ・ペーニャもこの様式。第3期クリュニー修道院は,フーゴー院長時代の 1088~1130年頃に着工され,40年ないし 45年を費やして完成。東西約 184m,身廊部の高さ約 29m。2つの東袖廊 (トランセプト) ,4つのアイル,半円形のアンビュラトリー,5つの放射状に配置された礼拝堂をもち,筒形ボールトの身廊部が交差ボールトの天井をもつ側廊に支えられている。この建築は,当時最大の規模,最新の技術で,またその柱頭彫刻そのほかの彫刻絵画もロマネスク美術の代表的な傑作で,その影響は,ドイツ,スペイン,イタリア,スイスにまで及んでいる。フランス革命によって修道院は廃され,建物の大半は破壊されて,現存しているのは第3期の一部のみである。
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クリュニー修道院
くりゅにーしゅうどういん
L'Abbaye de Cluny
フランスの中東部、ソーヌ・エ・ロアール県の小村クリュニーにあるベネディクト会修道院。910年アキテーヌ公ギョーム1世が創設に力を貸したこの修道院は司教および封建諸侯から独立してローマ教皇庁と直結し、11世紀に「クリュニーの改革」とよばれた修道院改革の中心となった。2代目修道院長オドーののち、オディロー(在位994~1049)、ユーグ(在位1049~1109)の二大院長時代にはクリュニーだけで400人以上の修道僧が住み、12世紀初頭には約1500の同派修道院がヨーロッパ各地に生まれて一大勢力を誇った。聖ペテロとパウロに捧(ささ)げられた付属教会は1095年に献堂式が行われたが、当時のキリスト教建築中最大の規模をもち、ブルゴーニュ派ロマネスク建築の出発点となった。しかし14世紀にはすでにその勢力は衰え、16世紀の宗教戦争中は荒廃にさらされた。さらにフランス革命ののち1823年には、かつての大修道院のおもかげは失われ、今日みるようなわずかの遺構を残すのみとなった。
[名取四郎]
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「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説
クリュニー修道院【クリュニーしゅうどういん】
フランス中東部,ブルゴーニュ地方の古い町クリュニーClunyにあるベネディクト派の修道院。909年―910年アキテーヌ公ギヨーム1世が創設,修道院改革運動(クリュニー改革)の中枢として,最盛期の12世紀中葉には全欧での分院数1500を数え,絶大な影響力を誇った。第6代院長フーゴーの造営になる第3聖堂はロマネスク建築の最高傑作。
→関連項目帝国教会政策|ベネディクト会
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世界大百科事典 第2版
「クリュニー修道院」の意味・わかりやすい解説
クリュニーしゅうどういん【クリュニー修道院】
909‐910年に,アキテーヌ公ギヨーム1世によって彼の所領ブルゴーニュのクリュニー荘園内に建設された修道院で,初代修道院長ベルノー以下歴代優れた修道院長をえて修道院改革(クリュニー改革)に空前の成功を収めた。当初からの貧民救済と第2代院長オドーOdo(878ころ‐942)から始まる典礼の重視は不安な時代に生きる人々の心を当院に向けさせ,農民のみならず上層階級の支持をも受けた。この修道院の制度的特色をなす分院体制に基づく中央集権的組織は特に11世紀初頭における幾つかの教皇特許状によって,司教権をも排除しうる教皇直属の修道会として強化された。
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クリュニー修道院
クリュニーしゅうどういん
Cluny
南フランスのクリュニーにあるベネディクト修道会修道院
アキテーヌ公ギョーム1世によって910年に建設され,11〜12世紀には当時の世俗化した修道院の改革運動の中心となった。戒律の厳格化,肉体労働による修養の重視,世俗権力からの独立を目標とした。西ヨーロッパ全体に強い影響をおよぼし,教皇権強化の支柱となった。教皇グレゴリウス7世やウルバヌス2世はこの派の出身。
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世界大百科事典内のクリュニー修道院の言及
【ドイツ】より
…それが叙任権闘争である。その端緒となったのは10世紀に南フランスのクリュニー修道院で起こった教会改革運動であった。聖職売買の批判からはじまったこの運動はやがて私有教会制の否定にまですすみ,世俗君主が聖職者を任免してきたゲルマン諸国の慣習と全面的に対立することになった。…
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