クレメンス[7世](読み)クレメンス

百科事典マイペディア 「クレメンス[7世]」の意味・わかりやすい解説

クレメンス[7世]【クレメンス】

ローマ教皇在位1523年―1534年)。メディチ家出身政治家としては無能で,英国王ヘンリー8世の離反招き,神聖ローマ皇帝カール5世とフランス国王フランソア1世の対立に翻弄されたが,学芸を愛好し,ミケランジェロの庇護者として知られる。

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世界大百科事典 第2版 「クレメンス[7世]」の意味・わかりやすい解説

クレメンス[7世]【Clemens VII】

1478‐1534
ローマ教皇。在位1523‐34年。メディチ家の出身で教皇レオ10世の従兄弟。1513年フィレンツェ大司教兼枢機卿,23年から教皇。個人的には温厚な性格であったが決断力に乏しく,その政策無節操であった。フランソア1世とカール5世との間を浮動し,最初はコニャック同盟によって前者の,〈ローマの略奪〉後は後者の側に立ち,ヘンリー8世の離婚問題でも不決断の延引政策をとった。しかし芸術家や学者を厚く保護した。

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世界大百科事典内のクレメンス[7世]の言及

【シスマ】より

…これは教皇座がアビニョンからローマに帰還した直後に起こった。ローマで選ばれたイタリア人ウルバヌス6世Urbanus VIに対しフランス人枢機卿たちがその選挙を無効としてフランス人クレメンス7世Clemens VIIを立て,再びアビニョンに教皇座を置いた。たびたびの軍事行動をも伴った双方の教皇たちのこの対立は各国の政治的利害が複雑に絡み合って深刻化し,これを解決しようとした1409年のピサ教会会議はアレクサンデル5世Alexander Vを新教皇に選んだ。…

【メディチ家】より

…なおこのジュリオの尽力でフランス王家に嫁ぎ,妃となったカトリーヌ・ド・メディシスと,後代,アンリ4世妃となったマリアという,2人のフランス王妃をメディチ家は出している。ジュリオがクレメンス7世として教皇位に就くと,ロレンツォの子アレッサンドロAlessandro de’ M.に家督が譲られる。暴君で残忍な彼は,27年市を放逐されるが,またもやカール5世の後押しで復帰し,32年フィレンツェ公に叙される。…

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