翻訳|Croatia
基本情報
正式名称=クロアチア共和国Republika Hrvatska/Republic of Croatia
面積=5万6594km2
人口(2010)=443万人
首都=ザグレブZagreb(日本との時差=-8時間)
主要言語=クロアチア語(公用語),セルビア語
通貨=クナKuna
バルカン半島北部にある共和国。1991年6月,ユーゴスラビアからの独立を宣言した。クロアチア語ではフルバツカHrvatskaと呼ばれる。面積5万6538km2,人口481万(1992)。民族構成は,クロアチア人351万(79.4%),セルビア人63万(14.2%),ハンガリー人4万(0.8%),スロベニア人3万(0.7%),チェコ人2万(0.4%),ムスリム(イスラム教徒)2万(0.4%),イタリア人2万(0.4%)など。首都はザグレブ。
歴史的にはイストラ半島,ダルマツィア地方,クロアチア地方,スラボニア地方に,地勢的には西部のアドリア海沿岸(31%),中央部の山間地(20%),東部のハンガリー(パンノニア)平原(49%)に大別される。気候は地中海性とパンノニア大陸性で,前者に属する沿岸地方は干ばつがはげしく耕作には向かない。わずかにブドウ,オリーブ,ラベンダーなどが栽培されている。後者に属する中央山間部ではカルスト原野が広がり,果樹やブドウが生育する。さらにスラボニア地方など平野部は沖積土と黄土の穀倉地帯となっている。森林が全面積の35%を占めるが,山地部では針葉樹が少なく,植林が必要である。おもな河川はサバ川とドラバ川で,いずれもドナウ川に合して黒海へ注ぐ。湖では大小16の湖群が早瀬や滝で結ばれている国立公園プリトビツェPlitvice湖が有名。アドリア海岸沿いに走るディナル・アルプス山脈は1500~2000m級の岩山で,際だった高峰はない。石油と天然ガスの埋蔵量は国内の61%と71%を占める。石炭は0.25%ときわめて少ない。金属鉱石の埋蔵もわずかで,非金属ではイストラ半島の良質な石黄土があり,ガラスの原料になる。スロベニアに次いで工業が発達しているが,おもなものに機械,金属加工,鉄鋼,造船,電気,化学,繊維,食品工業がある。主要都市の代表的な工場をあげると,ザグレブのラーデ・コンチャル電気機械工場と〈五月一日〉機械工場,スプリトのスプリト造船所,リエカの〈五月三日〉造船所,オシイェクのドラバ・マッチ工場,カルロバツのユーゴトゥルビナ・タービン工場,バラジュディンのバルテックス繊維工場,ブコバル近郊のボロボ・ゴム製品製靴工場,シベニクのアルミニウム工場などである。
ダルマツィア海岸をもつクロアチアは,国内観光客の6割を受け入れている。とくにアドリア海の真珠と称されるドゥブロブニクは,中世の城砦都市がそのまま息づいている。さらにディオクレティアヌス帝(在位284-305)の宮殿が中心部を占めるスプリト,ローマ時代の円形闘技場のあるプーラ,保養地オパティア,プリトビツェ湖など見るべきものが多い。
ローマ時代はダルマティア州(ダルマツィア)とパンノニア州として統治された。南スラブ民族のクロアチア人が移住してきたのは,6世紀末から7世紀にかけてである。初めサバ川とドラバ川の間に住みつき,9世紀には海岸部まで達した。8世紀ころから国家を形成しはじめたが,フランク王国やビザンティン帝国の支配から脱しきれず,トルピミロビッチTrpimirović朝(845ころ-1091)時代に初めて自由を享受した。トミスラフ公は初代クロアチア王となって(924ころ-928ころ)マジャール人と戦い,スロベニア,ダルマツィアまで領土を拡張した。
クロアチア人も,他の南スラブ族と同じく使徒キュリロス兄弟やその弟子によって,しだいにキリスト教を受け入れていた。だが,9世紀にフランク王国に支配されてからローマ教会の管轄下に入り,ラテン文字を用いるカトリック教徒となって今日にいたっている。ただスラブ語を用いる一派はこれに激しく抵抗し,キリル文字以前のグラゴール文字を用いつづけ,中世クロアチアの宗教紛争の火種となった。
トルピミロビッチ朝の最後の王ズボニミルは農民反乱によって殺され,つづいて内乱が起こると,クロアチアの貴族は1102年,ハンガリー王カールマーンを自分たちの王として戴冠し,事態の収拾をはかった。これ以後800年の長きにわたって,両国は支配関係あるいは同盟関係といった奇妙な形で結ばれることになる。ハンガリー王は総督(バン)を指名してクロアチアを治めさせ,重要な案件はクロアチア貴族の議会(サボール)が決定して王が確認した。モンゴル人の侵略(1241),ザグレブなど都市の出現,15世紀ベネチアのダルマツィア占領の後で,ハンガリーが1526年モハーチの戦でトルコ軍に敗れたため,クロアチアはハプスブルク家の下に入った。それまではまがりなりにも自治を許されていたクロアチア人も,これにより厳格な封建制に組みこまれたことで農民の生活は困窮し,各地で反乱が頻発,とくに1573年マティヤ・グーベツMatija Gubec(?-1573)が主導したものはスロベニア地方まで巻き込み,封建領主を狼狽させた。16世紀中ごろはまたオスマン・トルコの北上を阻止するため,クロアチアとセルビア・ボスニアとの境界線に軍政国境地帯(ミリテールグレンツェ)が設けられた。その間,ハンガリーと接近してクロアチアの自治権を回復しようとはかったズリンスキーとフランコパンの2貴族が処刑される事件(1671)もあった。その後,皇帝ヨーゼフ2世の中央集権主義に反発したハンガリー王が,結局1790年にふたたびクロアチアの支配権をえた。
1809-13年,ナポレオンはスロベニアと共にイリュリア諸州を編成し,次々と改革を行った。こうして民族の自覚を植えつけられた商人階級出のガイらインテリゲンチャがイリュリア運動を展開し,民族の独立を鼓吹した。48年ウィーン政権はクロアチアのバンにイェラチッチを指名,ハンガリー人の反乱を鎮圧させたため,両民族は反目することとなった。67年,アウスグライヒ(妥協)によってオーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生。翌年,ハンガリーとクロアチアの間にナゴダ(協定)が結ばれ,後者は前者に併合された。シュトロスマイエルStrossmayer司教(1815-1905)などの努力で67年ザグレブにユーゴスラビア科学芸術アカデミーが,74年には大学も創設され,いわゆる文芸復興が見られた。しかしヘーデルバーリがバンを務めた1883-1903年に見られるように,極端なマジャール化政策は,クロアチア人に政治的な独立も必要であることを自覚させた。それゆえ,第1次世界大戦中の1915年ロンドンにユーゴスラビア委員会を結成し,17年コルフ島に逃避中のセルビア政府とコルフ宣言を行って,建国への基礎をかためたのである。
第1次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し,新生ユーゴスラビアの一員として独立したクロアチアであったが,第2次大戦前は,セルビアの民族主義と反発し合って,39年には事実上国家を解体させてしまったことがある。いわゆる大セルビア主義(中央集権)に対して大クロアチア主義(地方分権)が反発したわけだが,社会主義社会になってもこうしたライバル意識が完全に消滅したとは考えられない。さらに観光などで多額に入る外貨が,ユーゴスラビア南部の後進地域開発へ流用されすぎるとの不満も加わっている。80年のチトーの死以後,ユーゴスラビア連邦への求心力が弱まり,91年の独立宣言をよんだゆえんである。
執筆者:田中 一生
1990年4月にクロアチアでは,第2次大戦後初の実質的複数政党制の下での議会選挙が実施された。前年の〈東欧革命〉のあおりを受け,共産党は大敗し,クロアチア民主共同体が圧勝した。そして,大統領には同党党首のトゥジマンFranjo Tuđman(1929-99)が就任した。トゥジマン政権はまずクロアチア憲法改正を行った。改正クロアチア憲法では,クロアチア共和国をクロアチア人中心の国家と規定し,またユーゴスラビアからの単独での分離独立権も明記されていた。その後,クロアチア民主共同体は,各選挙を通じて一党優位制を確立していった。
クロアチアでは,民族主義的なクロアチア民主共同体が政権を獲得した時点から,国内のセルビア人に対する同化政策が一部で展開されており,セルビア人地域のセルビア人は共和国政府に対してすでに姿勢を硬化させていた。クロアチアが91年6月に行った独立宣言に対して,国内のセルビア人が激しく反発したことは当然であった。しかも,連邦軍がセルビア人の側で介入したことから,クロアチア人とセルビア人との対立は内戦へと発展していくのである。クロアチアは凍結していた独立宣言を10月にふたたび発し,クロアチアの独立は91年12月のドイツをはじめとして世界各国に承認され,92年5月には国連にも加盟を認められた。
内戦は92年2月までに終結し,クロアチア政府の実効支配が及んでいなかったスラボニア,クライナには国連保護軍が展開することになった。クロアチアは95年春から夏にかけて西スラボニア,クライナを武力で奪還し,東スラボニアも98年1月にクロアチアに返還された。その結果,クロアチアは,内戦前の国土を回復したのである。
クロアチアは,旧ユーゴスラビアではスロベニアに次ぐ経済先進地域であった。東部にはハンガリー平原に連なる肥沃な土壌が広がり,小麦を中心とする農産物が耕作されている。また,アドリア海東岸のほとんどを占め,漁業も盛んである。工業に関しても,ワインなどの食品工業のみならず,造船業をはじめとする重工業も発達していた。内戦においてクロアチアが受けた物的損害は,1993年4月の時点で200億ドルを数え,クロアチア経済にとって致命的打撃であった。しかし,国内総生産の成長率は94年からプラスに転じ,クロアチア経済は順調な回復途上にある。
執筆者:月村 太郎
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(大迫秀樹 フリー編集者 / 2013年)
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クロアチア語ではフルヴァツカという。1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立した共和国。首都はザグレブ。7世紀前半,南スラヴのクロアチア人が定住し,ダルマツィアにまで至る。ビザンツ帝国とフランク王国の対抗関係を利用して,10世紀初めにトミスラヴがこの地域を統合してクロアチア王を名乗った。1102年,中世クロアチア王国はハンガリー王国の支配下に置かれた。16世紀にはオスマン帝国の支配を受けるが,17世紀末から1918年までハプスブルク帝国に組み込まれた。一方,15世紀初めにはダルマツィアの大部分がヴェネツィアの支配下に入り,内陸部のクロアチアと分断された。さらに,ハプスブルク帝国はクロアチアに軍政国境地帯を設けたため,多くのセルビア人が入植。近代のクロアチア人にとって,中世クロアチア王国の領域である内陸部とダルマツィアの統合がめざされた。1848年の革命時には,ハンガリーから自治を求める運動が展開されたが失敗。第一次世界大戦後,クロアチア人の居住地域はすべてユーゴスラヴィア王国に統合。しかし,セルビア中心の集権体制に反発が続いた。第二次世界大戦期,ドイツ占領下で傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」が建国された。戦後,社会主義ユーゴスラヴィア連邦のもとで一共和国となるが,独立を求める傾向は強かった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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