クロムウェル
[一] (Oliver Cromwell
オリバー━)
イギリスの
軍人、政治家。一六四二年
清教徒革命勃発後、
鉄騎隊、新模範軍を組織して、王党軍を
撃破。四九年チャールズ一世を
処刑し、共和制を樹立した。五一年航海条例を発して、英蘭戦争を
誘発。五三年
護国卿(
護民官)となり、厳しい清教主義によって
独裁政治を断行した。(
一五九九‐一六五八)
[二] (Thomas Cromwell
トマス━) イギリスの政治家。ヘンリー八世に仕え、
枢密顧問官をはじめ重職を
歴任。宗教改革に尽力したが、のち王の不興をこうむり、処刑された。(
一四八五頃‐一五四〇)
[三] (
Richard Cromwell
リチャード━) イギリスの政治家。父オリバー=クロムウェルの後を継ぎ、第二代護国卿(護民官)に
就任。王制復古と同時に、フランスに
亡命。(
一六二六‐一七一二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「クロムウェル」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディア
「クロムウェル」の意味・わかりやすい解説
クロムウェル
英国の宗教改革の立役者となった政治家。青年時代にはヨーロッパ大陸で軍人・商人をしていたが,1514年に帰国して大法官ウルジーの秘書となり,1531年には枢密顧問官に昇進した。国王ヘンリー8世の王妃キャサリンとの離婚問題が発生すると,事態を収拾しきれなかったウルジーに代わって頭角を現し,議会の制定法による解決を図り,上告禁止法(1533年)によって英国が主権国家である旨の宣言をし,国王至上法(1534年)によって英国国教会を樹立して,宗教改革を断行するとともに,国家財政の強化のために修道院を解散した(1536年−1539年)。それに応じて国家行政機構に大幅な改革を進め,また国教会の教義の面ではクランマー大主教と組んでルター主義に基づく改革路線をとり,聖書の翻訳を助成し,それを各教会におくことを命じ,また教区教会には教区民の出生から死亡にいたるまでの記録簿を常備させるなど,英国の近代的な主権国家の整備に果たした彼の役割はきわめて大きい。しかしルター主義のドイツ領邦と組もうとする考えから彼が進めた,クレーフェのアンとのヘンリー8世の4度目の結婚が,国王自身の不興を買い,処刑された。
クロムウェル
英国の政治家,オリバー・クロムウェルの三男。リンカン法学院で学び,父の護国卿政権下の議会に1654年以降議席を占め,国務会議議員,オックスフォード大学総長などの要職についた。1658年父の死去後,二人の兄は死去していたため護国卿をついだが,軍隊と議会の対立の激化をさばくことができず,1659年解任された。王政復古後はパリとジュネーブで〈ジョン・クラーク〉の偽名で暮らしたが,1680年ごろ帰国し,隠遁生活を送った。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
クロムウェル
Cromwell, Oliver
[生]1599.4.25. ハンチンドン
[没]1658.9.3. ロンドン
イギリスの軍人,政治家。イングランド共和国およびスコットランド,アイルランドの護国卿 (在任 1653~58) 。清教徒革命の指導者として知られる。清教徒のジェントリーの家に生れ,ケンブリッジ大学に学ぶ。 1628年下院議員。 40年短期議会,長期議会議員に選出され,清教徒革命が勃発すると,軍人として議会軍に参加し,鉄騎兵を率いてマーストンムーアの戦いなどに活躍し,45年ニュー・モデル軍の副司令官となり,ネーズビーの戦いで勝利を収めた。その後は独立派の指導者として,長老派,平等派を押えて実権を握り,49年1月国王チャールズ1世を処刑し,次いでアイルランドとスコットランドに遠征 (49~51) して反対派を制圧。 53年に護国卿となり,最後には議会も解散し,軍人行政官を任命して独裁政治を行なった。彼の政治はきびしい清教主義に基づき,国内では不満を招いたが,オランダやスペインとの戦争に勝ってその後のイギリスの海上覇権の基礎を築いた。
クロムウェル
Cromwell, Thomas
[生]1485頃.ロンドン
[没]1540.7.28. ロンドン
イギリスの政治家。宗教改革の立案実行者。鍛冶屋兼縮絨業の家に生れたが,前半生には不明な点が多い。若いうちに大陸に渡り諸国で兵士,貿易商,金貸しなどを経験した。帰国後 T.ウルジーに認められ法律を学び,1523年議会に入りウルジーの側近として活躍したが,29年の彼の失脚後も巧みに立回って国王ヘンリー8世の信頼を得,短期間にめざましい昇進をとげ,ウルジーに代って事実上の筆頭顧問になった。また 35年以降大主教代理として修道院解散を断行し,その富を没収した。国王とアンの結婚をとりまとめ,エセックス伯に叙せられたが,アンに対する王の不満が一因となって失脚し,処刑された。 O.クロムウェルは遠い姻戚にあたる。
クロムウェル
Cromwell, Richard
[生]1626.10.4. ハンチンドン
[没]1712.7.12. ハーフォードシャー,チェスアント
イギリス,清教徒革命期の政治家。 O.クロムウェルの3男。護国卿政権下に議員,国務会議員をつとめ,父の指名によってその没後護国卿に就任 (1658.9.) 。穏和な人柄であったが政治力に乏しく,議会と軍隊の対立の板ばさみになって8ヵ月で辞職し,護国卿政権は崩壊。 1660年王政復古に際して偽名で亡命したが,80年帰国,隠居生活をおくった。
クロムウェル
Cromwell, Henry
[生]1628.1.20. ハンチンドン
[没]1674.3.23. ケンブリッジ
イギリス,清教徒革命期の軍人。 O.クロムウェルの4男。 1654年アイルランド派遣軍の部将となり,55年以降は事実上のアイルランド統治者。 59年護国卿政権の崩壊によって本国に召喚され,辞任して引退。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
クロムウェル
Oliver Cromwell
1599〜1658
イギリスの政治家・軍人
ピューリタンでジェントリの出身。下院議員となり,1642年ピューリタン革命が始まるや議会軍にはいり,鉄騎隊を中核とする新型軍を編成して,ネーズビーの戦いで王党軍を破った。しかし,議会派の内部にプレスビテリアン(長老派)と独立派,独立派の内部にもクロムウェル一派と急進的な水平派(レベラーズ)の対立が激化し,長老派は幽閉中のチャールズ1世と通じ,1648年第2次内乱を起こした。独立派を率いてこれを平定したクロムウェルは,長老派を議会から追放(プライドの追放)し,1649年王を処刑してイギリス史上唯一の共和政を宣言。カトリックや王党派のアイルランドに対して遠征し,土地の没収を行った。これが現在のアイルランド問題のはじまりとなった。1651年にはスコットランドを征圧,またオランダに対抗するため航海法を発布し,52年からの英蘭戦争でオランダを破った。1653年には護国卿となり,ピューリタニズムと新型軍を背景とする軍事独裁により反動派と急進派を弾圧して政権を維持した。彼の死後,その子リチャードがあとを継いだが,力不足で間もなく辞職し,1660年に王政が復古した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
クロムウェル【Oliver Cromwell】
1599‐1658
イギリスの軍人,政治家,ピューリタン革命の指導者。イングランド東部ハンティンドンの,T.クロムウェルの末裔にあたるジェントリーの家系に生まれる。母親からピューリタンの信仰を受けつぎ,ケンブリッジのシドニー・サセックス・カレッジに学ぶ。ロンドンに出て法学院に席をおいたが,商人の娘と結婚して帰郷し,1628年下院議員に選出される。翌年議会が解散されたのちは,東部の各地で所領の経営にあたるとともに,この地方の干拓を進めようとする貴族に抵抗して農民の利益を守り,〈干拓地の王者King of the Fens〉の異名を奉られた。
クロムウェル【Thomas Cromwell】
1485?‐1540
イギリスのヘンリー8世期の政治家。青年期に外国で兵士,商人の経験をもち,帰国後トマス・ウルジーに仕え,庶民院議員(1523)となる。ウルジー失脚後も,枢密顧問官(1531),秘書官長(1534),宗務代官(1535),王璽尚書・男爵(1536),エセックス伯(1540)と栄進する。しかし1540年反対派の策謀によって失脚・処刑された。クロムウェルは議会法制定に尽力し,なかでも主権国家の宣言を行った〈上訴禁止法〉(1533)が有名である。
クロムウェル【Richard Cromwell】
1626‐1712
イギリスの政治家,O.クロムウェルの三男。リンカン法学院に学び,父の護国卿政権下の議会に1654年以降議席を占め,オックスフォード大学総長,国務会議員の要職についた。58年,父の死後2代目の護国卿になったが,軍隊と議会の対立の激化するなかで事態を収拾できず,翌年軍隊により解任され大陸に亡命。王政復古期にはパリで匿名で暮らしたが,80年ごろ帰国し,以後隠遁生活を送った。【今井 宏】
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
クロムウェル
1970年製作のイギリス映画。原題《Cromwell》。オリバー・クロムウェルの生涯を描く。監督:ケン・ヒューズ、出演:リチャード・ハリス、アレック・ギネス、ロバート・モーリーほか。第43回米国アカデミー賞衣裳デザイン賞受賞。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
世界大百科事典内のクロムウェルの言及
【イギリス】より
…
[軍事政策]
イギリスの常備軍は,ピューリタン革命中の1645年議会側が創設した〈新型軍(ニューモデル軍)〉に始まり,王政復古後は国王の正規軍として発達した。しかしクロムウェルが〈新型軍〉によってクーデタを起こし,軍事独裁をしいた苦い経験から,議会側は常備軍の動向をたえず警戒し,議会による軍隊の統制に配慮してきた。89年オラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に認めさせた〈権利章典〉では,議会の承認なく平時に国内で常備軍を徴集することが禁止された。…
【キリスト教】より
… 信仰義認論に始まり聖書原理に従ってサクラメントと教皇権とを否定するにいたるルター的な宗教改革の概念が,英国国教会についてもいえるかどうかは,やや疑問である。ここでは以前から教権と王権の対立が深く,ローマに対して地方教会的性格をもっていたが,ウィクリフのような反教皇主義をかかげる先駆者もいてアングリカニズムが強化され,1531年以後,T.クロムウェルの献策でヘンリー8世をイギリス教会の首長とし,その至上権を認めてローマ教皇からの独立がはたされた(国王至上法,1534)。王と教会の関係はその後も長く整わなかったが,1688年の名誉革命により,ブリテン王国はアングリカニズムを国教会とし,非国教徒には信仰の自由を認めて自由教会をつくることを許した。…
【晒首】より
…〈もの〉によるコミュニケーションである。1660年,ピューリタン革命のあと王政復古したイギリスのチャールズ2世が,父チャールズ1世処刑の責任者として,すでに死んでいるクロムウェル,アイアトンらの墓をあばき,首を矛(ほこ)に刺して晒したことは,すでに死んでいる者の首に意味をこめておりその典型である。 日本の近世には,晒首は中国にならって梟首(きようしゆ)とよばれ,また梟首した首を獄舎の門に懸けたので獄門ともよばれた。…
【スコットランド】より
…41年国王が譲歩して契約派は勝利を収めたが,その勝利を強化するため,イングランドの議会派と提携して内乱(ピューリタン革命)に介入した。しかし独立派の台頭のため逆にO.クロムウェルらのスコットランド支配を引き起こした(1651‐60)。短期間とはいえクロムウェルによるイングランドとの合併は,西部の商人層とアメリカ新大陸との接触をもたらし,伝統的な封建的支配層の力は弱まった。…
【ピューリタン】より
… しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。 革命がチャールズ1世の処刑によって最高潮を迎えたころ,ピューリタンの内部分裂はいちだんと激しくなり,数多くのセクトが活動を開始し,なかには千年王国説に立って〈神の王国〉の実現を訴えるものも出て,ピューリタンの神秘主義への傾斜がみられた。…
【ピューリタン革命】より
…その原因は,軍事的経験を積んだ貴族に率いられた国王軍と,地方の民兵隊,義勇軍を主力とした議会軍の質的な差にあった。このような議会軍の弱点を見ぬき,革命遂行のためには軍隊の改革が不可欠であると認識し,その改革を実現させて議会軍の勝利に寄与したことが,O.クロムウェルをしてこの革命の指導者たらしめた最大の理由である。内乱開始直後から熱心なピューリタンから成る騎兵隊を率いて議会軍に参加したクロムウェルは,1643年,劣勢の議会軍がスコットランドの軍事援助を求めたのを契機にして議会派内部で生まれた〈長老派〉と〈独立派〉の対立において,後者の中心人物と目されるようになった。…
【宗教改革】より
…この時期の国教会の教義は〈十ヵ条〉(1536),《主教の書》(1537)にみられ,保守・改革両派の対立の結果,カトリック,プロテスタント両要素が混在している。他方,トマス・クロムウェルによって2回にわたって出された〈国王指令〉(1536,38)では,ルター的宗教改革とエラスムス的教会・社会改革が併用され,国教会のよりいっそうの改革をめざした。これに対し,すでに1521年教皇から〈信仰の擁護者〉という称号を得たほどの反ルター主義者ヘンリー8世は宗教改革の進展を好まず,ノーフォーク公,ガードナー主教と組んで39年〈六ヵ条法〉を通過させ,化体説・一種聖餐communion in one kindの確認,聖職者の結婚禁止など保守化を強め,翌年にはクロムウェルを処刑した。…
【ヘンリー[8世]】より
…王妃との間には男子が育たず,アン・ブーリンとの恋愛によってキャサリンとの結婚解消の認可を教皇に求めたが,教皇クレメンス7世はキャサリンが神聖ローマ帝国皇帝カール5世の伯母に当たることから承認を引き延ばし,最終的に拒絶した。ここに責任者である大法官ウルジー枢機卿は失脚し,大法官職はトマス・モアによって引き継がれたが,政務はトマス・クロムウェルによって行われ,イギリスにおけるローマ教皇権のすべてを取り除くことによって離婚問題の決着が図られることになった。すなわち1533年の〈上訴禁止法〉によって主権国家の宣言と外国からの司法権独立の表明を行い,翌年の〈国王至上法〉によってイギリスの教会をローマ教皇の支配から解放し,イギリス国教会を成立させた(宗教改革)。…
※「クロムウェル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報