百科事典マイペディア 「グレゴリウス[7世]」の意味・わかりやすい解説
グレゴリウス[7世]【グレゴリウス】
→関連項目ウルバヌス[2世]|レオ[9世]
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…西方教会では5世紀中葉以来ローマ司教のみが〈パパ〉すなわち〈信仰上の父〉〈教皇〉と呼ばれるようになった。この親称はグレゴリウス7世Gregorius VII(1073‐85)によって普遍化されるにいたった。グレゴリウス1世(590‐604)は〈神のしもべらのしもべ(セルウス・セルウォルム・デイServus servorum Dei)〉とみずからを称したが,それこそ教皇職の真の姿を表している。…
…ニコラウス2世(在位1058‐61)は1059年のローマ会議で教皇選挙に世俗人の参加を禁止する法を立て,政治的権力から離れた〈教会の自由〉を主張した。先にクリュニーの修道士であったグレゴリウス7世は,教会法学者ペトルス・ダミアニの熱烈な支持をうけて,1076年のウォルムス会議でドイツ皇帝ハインリヒ4世を破門にした。翌年この皇帝がカノッサに赴いて悔悛した話はあまりに有名である(カノッサの屈辱)。…
…これに対し,11世紀半ば以降諸教皇は教皇権の確立,規律の刷新を目指して改革にのりだした。特にグレゴリウス7世は教会の自由,教権の俗権に対する優越を主張し,聖職売買,俗人叙任を強く排撃してドイツ王ハインリヒ4世と対立した。王のミラノ大司教任命をきっかけに,1076年王と教皇との間に全面的衝突が生じ,帝権と教権の争いが開始されたのはこのためである。…
…皇帝は教会から追放されて俗人になり,キリスト者としての義務の履行については教会の判断に従うべきであると説かれたのである。教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を破門するときには,彼は国王職にふさわしくないと述べたのに対して,カノッサで贖罪する皇帝を赦すときに,破門の政治的効果の廃棄=国王職への復職を問題にしなかったのは,この分離の進行を物語っている。 〈精神的〉と〈世俗的〉の分離は,叙任権闘争当時のキリスト教的社会においては,精神的なものの優位=教会政治に帰結したが,教会の至上性の主張が政治と宗教の分離を前提とする以上,宗教と政治の関係は可逆的であったことに留意する必要がある。…
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