精選版 日本国語大辞典 「ケインズ」の意味・読み・例文・類語
ケインズ
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
20世紀を代表するイギリスの経済学者。6月5日ケンブリッジに生まれる。父はケンブリッジ大学の経済学および論理学の講師で、のちに学校行政にも携わった。母はケンブリッジ市長を務めたこともある。イートン校を卒業後、ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに入学。そこで学生グループ「ザ・ソサエティ」に加わり、若き倫理学者G・E・ムーアの思想的影響を受けた。1905年、大学を卒業、翌年文官試験に合格し、08年までインド省に勤務した。同年A・マーシャルの努力によってケンブリッジに戻り、09年キングズ・カレッジのフェローとなり、金融論を担当した。また11年には『エコノミック・ジャーナル』の編集者となり、以後33年間この任にあった。15年から19年まで大蔵省に勤務し、パリ講和会議には大蔵省主席代表、大蔵大臣代理となったが、連合国の対独賠償要求に反対して辞任、自らの主張を『平和の経済的帰結』The Economic Consequences of the Peace(1919)と題して公刊した。23年から25年にかけてのイギリスの金本位制復帰問題に関しては、『貨幣改革論』A Tract on Monetary Reform(1923)を著し、金本位制に反対して管理通貨制を主張した。しかし、25年イギリスが金本位制に復帰し、その結果不況と失業にみまわれると、『チャーチル氏の経済的帰結』The Economic Consequences of Mr. Churchill(1925)を発表して保守党の政策と自由放任主義を批判し、また自由党の支持と改革を目的とした『私は自由主義者か』Am I a Liberal?(1925)、『自由放任の終焉(しゅうえん)』The End of Laissez Faire(1926)などの一連のパンフレットを著した(これらの諸論文は31年に刊行された『説得評論集』Essays in Persuasionに収められている)。ついで『貨幣論』A Treatise on Money(1930)を著し、またマクミラン委員会委員となって、大恐慌下のイギリスの金融と失業問題を論じた。そして、A・C・ピグーとの論争のなかでマーシャル的な新古典派経済学への疑問を強め、36年に主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』The General Theory of Employment, Interest and Moneyを発表し、経済学史上「ケインズ革命」とよばれるほどの大きな影響を与えた。第二次世界大戦中は大蔵大臣顧問、イングランド銀行理事の地位にあり、42年には貴族に叙せられた。また44年、戦後の世界経済と金融問題の処理のためのブレトン・ウッズ連合国通貨会議に出席して「ケインズ案」を提示したが、アメリカの「ホワイト案」に敗れた。45年、国際通貨基金と国際復興開発銀行総裁に就任。46年4月21日サセックス州ティルトンの別荘で心臓麻痺(まひ)のため死去、62歳。
ケインズの経済学史上の寄与は、なによりもまず、『一般理論』において、不況と失業の原因を究明し、それを克服するための理論を提示した点にある。彼は、従来の経済学が想定していなかった不完全雇用下の均衡、すなわち、有効需要が不足している場合には、失業が存在したままでの経済均衡がありうることを論証し、自由放任にかわって、政府が積極的に経済に介入すべきことを主張した。従来の経済学が暗黙のうちに想定していたセーの法則を否定し、産出量の大きさおよび雇用の水準は、投資と消費からなる有効需要の大きさによって決まるとする有効需要論を示した。また投資の量が増加すると、その増加分の何倍かの所得ないし産出量が増加することを分析した乗数理論、利子率は投資と貯蓄が相等しい点で決まるのではなく、資産を現金の形で保有するか債券や証券の形で保有するかに関連して決まるとする流動性選好説を提示した。以上の分析から、彼は、産出量を増加させて失業をなくすためには、公開市場政策などによって利子率を引き下げて民間投資を増加させること、政府が直接投資を推進すること、消費需要を増加させるために、遺産相続税と累進課税による所得平等化政策を実施することなどを主張した。このように、ケインズの経済学は、自由放任の経済にかわって、政府の経済への積極的介入を支持し、修正資本主義の理論的根拠を与えるとともに、租税による所得平等化政策と完全雇用政策は、福祉国家を指向するものでもあった。
ケインズは狭い意味での経済学者ではなく、「時代の問題」に対して積極的に政治的発言を行う行動の人であった。彼はまた熱心な自由党支持者であり、保守党への批判、自由党の革新、労働党の穏健化を主張した。思想的には、青年時代にムーアの影響を受け、功利主義批判と知性主義を主張するとともに、L・ストレーチー、V・ウルフなどの芸術家たちとブルームズベリー・グループを形成した。また、『ネーション』『ニュー・ステーツマン・アンド・ネーション』の主筆、国民相互生命協会の理事、国立美術館理事、音楽奨励協会の会長なども歴任した。なお、夫人はロシア人バレリーナ、リディア・ロポコワであった。
[中村達也]
『イギリス王立経済学会編『ケインズ全集』全30巻(1976~ ・東洋経済新報社)』▽『伊東光晴著『ケインズ』(岩波新書)』▽『早坂忠著『ケインズ』(中公新書)』▽『伊東光晴著『ケインズ』(1983・講談社)』▽『浅野栄一編『ケインズ経済学』(1973・有斐閣)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
1883~1946
イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学の出身で,ブルームズベリ・グループの一員。母校で経済学を講じた。第一次世界大戦中は大蔵省に勤務し,パリ講和会議には大蔵省の主席代表として出席,ドイツへの過大な賠償金に反対して辞任。自由放任主義の終りを明言し,主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で,失業を克服するための国家の役割を強調し,経済学に大きな変革をもたらした。1942年男爵に叙された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…創刊当時は文字どおり世界第一級,類似の学術誌が激増した今日でも世界有数の純学術的経済学の専門雑誌である。F.Y.エッジワースが初代編集者で,J.M.ケインズが12‐45年の33年間その任に当たったが,前者も終生共同編集者として発展に貢献した。45年以降E.A.G.ロビンソンとR.F.ハロッドが共同編集者となってから,編集者の交代もかなり頻繁になり,また,おそらく経済学の多極的専門化の進展のために共同編集者の数も増えて今日にいたっている。…
…なぜならば,上記の貨幣類似資産が狭く定義された貨幣とほぼ同様の影響を経済に与えるであろうと考えられているためである。たとえば,現代の金融理論の基礎を構築したJ.M.ケインズは,マクロ経済の金融的側面を流動性選好(流動性選好理論)という概念によって叙述したが,その概念の中で扱われている貨幣は,実際に決済手段として機能するものばかりでなく,貨幣類似資産をも含んでいる。ケインズは,これらの資産が(ほぼ)確実に決済手段として機能するという意味で流動的であるのに対し,その他の金融資産はそのような流動性をもっていないがゆえに人々が進んでその他の金融資産を保有するためには,それらは利子を生まなければならないとして,利子率の存在を説明したのである。…
…通常,重商主義は金が国富であると考える重金主義に基づく貿易差額重視の政策であるといわれるが,これについては貨幣量と物価の比例関係を主張する貨幣数量説による批判が当時からあった。ケインズは有効需要を確保する政策として重商主義政策の意義を高く評価している。また,自国の産業のために市場を確保する政策と解するならば,現代の貿易摩擦との関連も否定しえない。…
…イギリスの経済学者J.M.ケインズによって創始されたいわゆる〈ケインズ経済学〉を研究し,その分析結果に基づいて一定の政策提言を行う経済学上の一学派をいう。
[新古典派とケインズ経済学]
通常ケインズ経済学とよばれる経済学は1936年に刊行されたケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》によって樹立された。…
…このうち第三命題は後に《産業変動論》(1927)へと発展させられたが,景気変動論はむしろ,彼の後継者D.H.ロバートソンの《産業変動の研究》(1915),《銀行政策と価格水準》(1926)などを通じて早くから展開されていた。 イギリス経済は,その後29年の大恐慌後の不況期に多量の失業者と遊休設備に悩まされるようになったが,そのなかでJ.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)が出版され,〈供給は需要をつくりだす〉という〈セーの法則〉に立って完全雇用のもとでの資源配分を取り扱ってきた従来の経済学に批判を加え,いわゆる〈ケインズ革命〉をひき起こすことになった。彼の理論はやがてケインズ学派を生みだしていくことになった。…
…資本的支出が借入れによってまかなわれるときには,償還のために減債基金が設けられ維持されなければならなかった。ケインズ主義はこの古典派の均衡予算原則を否定した。公経済の収支バランスはそれ自体は好ましいことだが,国民経済が失業あるいはインフレに悩んでいれば,経済全体が好ましい状態にはない。…
…失業が発生するのは労働市場の不完全性のために発生する失業か資本設備や技術の変化によって均衡条件が変化する場合,これに適応する過程で発生する失業だけである。
【ケインズ派の主張】
ところが,両大戦間,とくに1929年世界恐慌以後,大量の失業が発生すると同時に,それが慢性化した。新古典派はこの要因を労働市場における労働組合の独占力,失業保険の下支えにより,実質賃金が均衡水準よりも高く維持されることに求めた。…
…イギリスの経済学者J.M.ケインズの主著。1936年刊。…
…消費性向では,通常所得と消費の平均的比率(=消費/所得)で定義する平均消費性向と,所得・消費のある期間内の増分の比率(=消費の増分/所得の増分)で定義する限界消費性向とは必ずしも等しくならず,それを区別して用いる場合が多い。 ケインズは,国民所得水準の決定を論ずるに際して,一国のマクロ・レベルの消費(実質)が,所得(実質)の線形関数で近似的に表現できるとした。それをC=αY+βと表す。…
…1930年代に行われたJ.ロビンソンやE.チェンバレンの独占的競争理論も,独占の弊害を指摘し,市場が資源配分にバイアスをもたらすことを明らかにしたものの,合理的行動と市場均衡という新古典派の基本仮説を否定するものではなかった。 ところが,J.M.ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論(一般理論)》は,新古典派からの逸脱であり,ケインズ革命とよばれるにふさわしい出発点であった。そこにおいてケインズは,企業および家計の合理的行動は一部認めつつも,価格の市場調整機能を否定し,短期的には価格よりも生産販売数量のほうが伸縮的であること,および貨幣を含む市場経済においては不均衡現象としての非自発的失業がむしろ常態であることを強調した。…
…そして,このような歴史への興味は,それだけにとどまらず,自然界ばかりか歴史においても一定の秩序を見いだそうとする彼の努力を示しており,神の被造物である自然と神の預言の成就としての歴史のいずれにおいても同一の普遍的な統一性が存在するという確信の結果であった。このように,ニュートン手稿の再収集に努力した経済学者のJ.M.ケインズの〈ニュートンは理性の時代の最初の人〉ではなく,〈最後の魔術師〉であったという発言もなるほどと思われる。いずれにせよ,今日の科学は近代的合理主義の所産であると考えられているが,その合理主義は宗教的情熱と無関係ではなかったということをニュートンは端的に示している。…
…名称はスティーブン家がロンドンのブルームズベリー街にあったことに由来する。メンバーは,姉妹のそれぞれ夫になるクライブ・ベル,レナード・ウルフをはじめ,J.M.ケインズ,リットン・ストレーチー,ロジャー・フライ,E.M.フォースターらで,美術評論家,政治評論家,経済学者,小説家など多分野にわたっているが,いずれも同世代でケンブリッジのトリニティ,キングズ両学寮で学んだ。そして当時の哲学教師G.E.ムーアの《倫理学原理》(1903)の中の〈最も価値あることは人の交わりの喜び,美しいものを享受すること〉という文句に影響されていた。…
…この結果,彼の理想主義の破綻は決定的となった。
[批判]
ベルサイユ条約ならびにベルサイユ体制に対する同時代人の批判としては,イギリスの経済学者ケインズの《平和の経済的帰結The Economic Consequences of Peace》が重要である。彼は最初パリ講和会議にイギリス大蔵省首席代表として出席していたが,この地位を中途で放棄して1919年12月に同書を刊行した。…
…この委員会の正式名称は〈金融および産業に関する委員会Committee on Finance and Industry〉であるが,委員長の名にちなんで〈マクミラン委員会〉と呼ばれる。委員会の最も活動的で最も影響力のあるメンバーがJ.M.ケインズであった。31年7月に提出された委員会報告すなわちマクミラン報告では,賃金・俸給の切下げは不況打開策として無力であること,固定為替相場制度のもとでの金融政策の有効性は限られたものにすぎないこと,公共事業を中心とする直接的な有効需要政策が望ましいこと,などが主張されているが,これらの主張のほとんどは,その後ケインズによって体系づけられた,いわゆるケインズ理論の中核となったものである。…
…ケインズ学派を批判して1960年代に台頭した学派で,その首唱者はM.フリードマンである。この学派の人々をマネタリストmonetaristと呼ぶ。…
※「ケインズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
地震や風雨などによる著しい災害のうち、被災地域や被災者に助成や財政援助を特に必要とするもの。激甚災害法(1962年成立)に基づいて政令で指定される。全国規模で災害そのものを指定する「激甚災害指定基準に...
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新