改訂新版 世界大百科事典 「ケルト美術」の意味・わかりやすい解説
ケルト美術 (ケルトびじゅつ)
ケルト美術は,ヨーロッパの第二鉄器時代に当たるラ・テーヌ期(前5~後1世紀)の美術を指し(ラ・テーヌ文化),地域によっては(アイルランド,グレート・ブリテン島など),その伝統がさらに8世紀あまり続いた。従来はケルト美術を中部ヨーロッパの第一鉄器文化(いわゆるハルシュタット文化,前12世紀~前6世紀)にまでさかのぼらせていたが,近年はハルシュタット美術とラ・テーヌ美術はごく限定された影響関係(技法,動物主題,陶器などについて)をもつにすぎないとされるようになった。ケルト文化は前500年ころから今日の南ドイツおよび東フランスを中心にして東西に広がり,西はアイルランド,イベリア半島,東はドナウ川流域からバルカン半島,小アジアに及ぶ。その間,北のゲルマン,東のスキタイの諸族と接触するが,とくに南のギリシア・ローマとは接触,交流,抗争の関係を持続させた。全般的にいうとケルト美術は地中海美術とは対照的な性格をもつものであり,そのゆえに,古典主義を中軸的原理とする在来の美術史観によって,低く評価されてきたが,近年は美術史観の進展および発掘資料の増加によって,地中海美術に拮抗する重要な意味をもつものとして再認識されるようになった。
ケルト人はまとまった人種ではなく統一的な国家を作らず,流動的な生活を好む傾向にあったため,末期に城塞集落(ローマ人のいうオッピドゥムoppidum)を作りはしたが,本格的な都市は営まず,そのうえ建築および日常生活の用具は主として木造であったので,その生活の痕跡は,ほとんど姿を消した。今日知られる遺品は主として墓地から出土した金属器や陶器に限られ,それに少数の石造品および木製品が加わる。金工品は,武具(刀剣,楯,冑など),服飾品(首輪,腕輪,指輪,腰帯,帯鉤など),馬具,祭器,貨幣などで,素材は金,青銅,鉄を主とし,それにガラス,サンゴ,エマイユ(七宝)などを併用することも少なくない。技法的には,鋳金,鍛金,彫金など多彩にわたり,しかもきわめて高度のものである。それらの装飾主題には,スキタイの影響が強いと思われる動物文,地中海の影響を思わせる植物文や人像文があるが,その主流は巴(ともえ)文,螺旋(らせん)文,S字文などの曲線の自由奔放な組合せによって展開される抽象文である。鳥獣,人体,植物などを主題として用いる場合も,その多くを抽象文の中に巻き込んで,容易にその原型を判別しがたいことも少なくない。抽象文の好例は1世紀ころイングランドで作られた鏡,楯などの文様で,類似した文様はアイルランドの石造品(トゥーローTuroeなど)にも見られる。このケルト特有の抽象文をよく示すものは貨幣で,これは最初ギリシア・ローマの貨幣をまねて横顔(プロフィル)や馬などを写実的に表現していたものが,しだいに変形し,多くは原型の意味を失って判読困難な記号の構成と化している。人像表現は一般に地中海から北上したものと考えられ,デンマークのゴネスドロブGundestrup出土の著名な銀製大鉢の人像も,ケルト的に消化された例である。石造品では,前4世紀前後にさかのぼる石柱様のものがラインラント地域(ファルツフェルトなど)から発見されており,人面も見られるが抽象文に同化している。ローマ人との接触,そしてとくにその進攻によって,ガリアでは人間像が多数出現するが,純ローマ風のもの以外に,ケルト的に修正されたものが多く,動物表現とともに高度の域に達している(ロアール川中流のヌビ・アン・シュリアスNeuvy-en-Sulliasのブロンズ像など)。木造品は,水神への奉納品としての人像がセーヌ川の水源その他から発見されており,これは1世紀に属するが,ケルトの木彫の伝統を継ぐものと思われる。陶器はろくろの使用も初期から見られ,曲面を優美に仕上げた器形が多く,装飾は線彫,象嵌,印文などさまざまな技法が行われ,金属器の影響が著しい。
以上のケルト美術の伝統は,ローマ,次いでゲルマンの支配によって紀元後急速に弱まっていったが,それらの力が及ばなかったアイルランド,グレート・ブリテン島西部方面では,ケルト文化がそのままキリスト教化して,ケルト的キリスト教美術が発達し,9世紀ころまで抽象文を基盤とした石造十字架,写本画(《ダローの書》675ころ,など),金工品などが独自の発達をし,その影響が大陸にも入った(アイルランド美術)。11~12世紀にヨーロッパ各地に栄えたロマネスク美術にも,ケルト的伝統の痕跡を見いだすことができる。
執筆者:柳 宗玄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報