コプトとはエジプトにおけるキリスト教徒の意で、彼らの美術の総称。コプト人は2世紀末にエジプトにキリスト教が導入されて以来、ナイル流域の各地に住んだが、7世紀中ごろエジプトがイスラム化されてからは、大都市を離れナイル上流の僻地(へきち)や砂漠のオアシスなどに小さな集団をつくって住み、独特のキリスト教文化を形成した。とくに修道院建築や、木、石、象牙(ぞうげ)の彫刻、および装飾品、染織品などに優れた遺例がある。
コプト美術には王朝時代以来の古代エジプト美術の伝統とともに、ヘレニズム、ローマ、ビザンティンなどの美術の影響が認められ、しばしばそれらの様式の折衷、混成も指摘される。コプト人は、政治権力の中枢から遠ざかっていたために、その美術は時代の主流となることはなく、つねに地方的な分派として存在したことが一つの大きな特色である。
[友部 直]
建築は、修道院建築がおもな遺構である。その多くは荒廃が激しいが、エジプトの各地に残存している。初期のものとしては、5世紀初めに東ローマ皇帝アルカディウスが建立したアブ・ミナの聖メナス修道院、カハルガ・オアシスに残るエル・バガワット修道院が代表的で、後者には『旧約聖書』の場面を描いた壁画がある。この時期の建築細部の浮彫りなどには、むしろギリシア・ローマ神話にモチーフをとったものが多く、異教的伝統も強く残存していたことを示し、目がとくに大きく彫られているのも特徴である。
建築活動は5世紀後半から最盛期に入り、ソハグの白(しろ)修道院および赤(あか)修道院、バウイトの聖アポロ修道院、アスワン近郊の聖シメオン修道院などが建てられた。建築のプランは原則としてビザンティン教会堂とバシリカ式教会堂の混合ないし折衷であり、しばしば壁画で飾られたが、その多くは破損が激しい。壁龕(へきがん)、フリーズ、柱頭などの細部には、ぶどう唐草、アカンサス、組紐(くみひも)、幾何学文様などの浮彫りが施され、現存するコプト美術の主要な一群を形成している。
イスラム支配が確立されて以後は、大規模な建築活動はほとんどみられず、コプト美術は衰退に向かった。後期の建築の例としては、9世紀のワディ・ナトルンの修道院の諸建築がわずかな例としてあげられよう。
[友部 直]
染織品の遺例のほとんどは埋葬された遺骸(いがい)の着衣あるいはそれに付属する装飾布で、麻糸を経糸(たていと)とし羊毛を緯糸(よこいと)とした綴織(つづれおり)である。これらはコプト織と通称され、芸術的にも高く評価されている。文様のモチーフは、ギリシア・ローマ風のものとキリスト教的なものに大別されるが、人物像は建築細部の浮彫りと同様に目が大きく表現され、身体のプロポーションの正確さには配慮がみられない。
コプト美術のコレクションとしては、カイロ旧市の一角にあるコプト美術館が代表的なもので、建築遺構の一部を含めて、各分野にわたるコプト美術を総括的に収蔵展示している。コプト織は各国のコレクションに散在する。わが国にも主として個人的なコレクションであるが、比較的多数の作品が入っている。
[友部 直]
エジプトのナイル川中流および下流で,2世紀末ごろから7世紀ごろまで,いわゆるコプト人によって営まれたキリスト教美術をいう。7世紀にイスラム教徒が侵入し,この地域を占領したのちもコプト美術は数世紀間存続し,イスラム美術に文様などの点で影響をあたえた。
コプト美術は,まず,古代末期にヘレニズム文化活動の最大の中心地であったアレクサンドリアから出発する。しかし4世紀初頭までのアレクサンドリアの美術は,独自の様式(すなわちコプト様式)が十分成熟するにいたらず,むしろローマ末期ないし初期キリスト教時代のコスモポリタン的性格が強い。しかしナイル川流域は,さまざまな文化圏の接合点であり,自然主義風のヘレニズム的要素以外に,古代エジプト,シリア,ビザンティンの要素が複雑に重なりあい,これが4世紀初頭から建築,絵画,彫刻,工芸各部門にわたって独自の様式を成熟させ,東方キリスト教美術のなかできわめて特色のある一世界を形成した。建築では,ソーハーグ近郊の〈白修道院〉(ディール・アルアビアド)と〈赤修道院〉(ディール・アルアフマル)が知られ,ともに三廊式バシリカである。
コプト美術の諸部門のうち,とくに織物(コプト織)は遺品が多い。この織物は,3世紀ころから発達し,7世紀にエジプトがイスラム文化圏に吸収されるまでつづくが,その初期にはギリシア・ローマの異教的色彩が強く,またイスラムの時代になってもコプト織の伝統は継続するので,時代的限界ははっきりしない。現存遺品は,サッカラ,アフミームAkhmīm,アンティノエAntinoēなどの墓所から発見されており,これらはだいたいが埋葬用のための衣またはおおい布で,その多くは色あざやかな綴織--経(たて)糸は麻,緯(よこ)糸は染めた羊毛,また絹も用いる--を施したものである。綴織以外には輪奈(わな)織,浮織の技法も見られる。
綴織の部分は肩,首の縁,腕,胸などに,帯状,円形,方形などを単位として美しい文様をあらわしたもので,その文様には人獣,植物,幾何学文などさまざまのものが見られる。初期のものはギリシア・ローマ神話に題材を求めたものが多い。このヘレニズム的色彩の強い様式は5世紀ころまでつづく。やがてキリスト教的象徴や聖書に題材を取った図像などが現れるようになる。このほか,たとえば狩猟文のようなペルシア系のものも認められる。初期の文様は写実的で,色彩は単純であるが,後期に入って文様はしだいに定型化し,色彩も数が多く,それがモザイク風に用いられるようになる。7世紀以降は,イスラムにおける偶像表現忌避のために,文様は抽象化していく。以上は埋葬遺品に見られる織物であるが,一般用の衣服,壁掛,敷物などもだいたい同じ様式発展を示したものと思われる。
執筆者:柳 宗玄
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…しかし多数の作例が残るのは,エジプトの,いわゆるコプト時代(3~7世紀)に入ってからである。死者を葬る棺衣の一部に織りこまれたパネルや壁掛けなどには,滑らかな曲線を出す〈はつり〉の技法やハッチング(段ぼかし)が用いられており,技術的水準の高かったことがわかる(コプト美術)。 西欧ではゴシック時代以降,急速な発展を遂げるが,その制作は中世のかなり早い時期に始まったものと推定される。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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