精選版 日本国語大辞典 「コペルニクス」の意味・読み・例文・類語
コペルニクス
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ポーランドの聖職者、天文学者。地動説の創設者。ポーランド名Mikołaj Kopernik。トルニの銅卸商の末子に生まれ、10歳で父を失い、兄姉とともに母方の伯父で聖職者のワッツェンローデLucas Waczenrode(1447―1512)に養われた。1491年、聖職を志してクラクフ大学に入学、学芸学科で哲学教授ブルゼウスキーAlbert Brudzewski(1445―1497)の数学、天文学の講義を聴き、宇宙観について啓発され、開眼した。そこでは、当時のプトレマイオスの天動説理論と『アルフォンス星表』にまとめられた観測結果との間のずれが指摘された。当時、ユリウス暦を採用していた教会祭礼暦は実際の日付より約10日の遅れがあった。また天動説に基づいて計算された天文航法用の天体位置暦は精密を期しえなかった。前者は宗教上の権威に、後者は航海者の生命にかかわる問題であり、この社会的問題がコペルニクスの天文学への関心を強めさせたに違いない。
1496年、伯父の援助でルネサンスの本拠地、北イタリアへの遊学が実現し、コペルニクスはボローニャ大学に編入した。ここはヨーロッパ最古の大学であり、伯父の出身校でもあった。ギリシア語の学習から始めて、ギリシア哲学、ギリシア天文学へと進んだ。天文学教授ノバラDomenico Maria Novara(1454―1504)は、黄道傾斜を観測してプトレマイオスの宇宙体系に訂正が必要なことをみいだした篤学の人であった。コペルニクスは彼に師事して、1497年にアルデバラン星の星食の観測を手伝った。この年、留学中のまま、母国の教団からワーミアの聖堂の評議員に任命され、さらに留学を引き続き認める許可も下りた。1500年にはローマの聖誕祭に兄とともに正式資格で参列し、約1年間滞在し、天文学の講演を行い、月食を観測した。
1501年いったん帰国し、改めて留学延期の承認を得、ただちにイタリアに戻ってパドバ大学を訪ねた。ここで神学の研修に励んだのち、1503年フェッラーラ大学に転じて神学の学位を得た。ふたたびパドバ大学に戻り医学を学び、1506年にはその学位を受けるまでに上達した。
この大学遍歴の間にコペルニクス宇宙体系、いわゆる地動説の構想を固めたに違いないのであるが、その直接の動機となったといわれる古代ギリシアのアリスタルコスの手記にどこの大学で接したかは明らかでない。
およそ10年間のイタリア留学を終え、1506年ごろ帰国し、伯父の任地ハイスベルクに赴き、秘書兼侍医として管内監督に、出張旅行に同行するなどして仕えた。彼の評判を高めたのは医療の技であり、貧民への施療にも精魂を注ぎ人望を集めた。1512年、伯父の他界とともに、フロムボルク(フラウエンブルク)の寺院に着任した。ここで昼間は聖職、医療、税務の任にあたり、夜間は寺院の望星台で、手製の測角器を専用して天体観測に励んだ。目ざすところは地動説の確認にあり、その技術は熟達の域には及ばず、観測精度は十分ではなかったが、天体位置の予測に関しては従来の天動説によるものよりは優れていることに自信をもった。1514年、教皇庁の改暦審議会に召請されたが辞退した。その理由として、太陽年の1年の長さが未解決であることなどをあげているが、その実は、地動説がカトリックの教義に照らし異端であることをひそかに配慮したためと思われる。地動説を確信しながらも、これを著述し公刊することは大きな勇気を必要とした。
1516年、エルムランド教区会計監査役兼アレンシュタイン寺院評議員に補されて転任したが、1526年にふたたび元のフロムボルクに大管区長として帰任することができた。そして17年後にこの地で永眠したのであるが、その臨終の枕辺(まくらべ)に彼の終生の主著『天球の回転について』の第一刷が届いたという。
地動説を執筆した期間は20~30年間に及んだらしい。そしてそれが完稿に近い1530年ごろ、『概要』をまとめた。この『概要』は理論的に書かれた太陽中心説の初めての概説書であり、小部数だけ自費出版され、活動的な天文学者・数学者・聖職者らに配布された。その一部は教皇クレメンス7世およびシェーンベルクNicolaus von Schönberg(1472―1537)僧正にも贈られ、僧正からは主著公刊の激励を受けた。
コペルニクスが主著出版の決意を固めた直接の動機は、ドイツの若い数学者レティクスの熱意による。『概要』に述べられた新説に感銘したレティクスは、1539年にコペルニクスに弟子入りし、およそ1年間教えを受けた。帰国にあたりその公刊を懇願し、説得に成功して、ニュルンベルクのグーテンベルク活版所での印刷を約して原稿を預かった。ところが帰国してまもなくライプツィヒ大学教授に就任することとなって、あとの世話を友人の神学者オシアンダーAndreas Osiander(1498―1552)に依頼した。この世話人は後顧の憂いを避けるために独自の序文を付した。つまりこの著書を単なる便宜的計算書としたのである。もとより著者コペルニクスの本意ではなかったが、それかあらぬか直接の禁書扱いを免れることができた。
以上のように天文学で偉大な業績をあげたコペルニクスは、政治・経済面でも敏腕を振るった。1519年末から1521年まで、オルスチン城がドイツ騎士団によって包囲された際、城内にとどまってこの城を守った。1528年には『貨幣論』を著し、ここでグレシャムに先だって、貨幣の劣悪化が物価騰貴の原因になることを指摘するなど、貨幣改革にも努めるなどした。
[島村福太郎]
『広瀬秀雄著『コペルニクス』(1965・牧書店)』▽『F・ホイル著、中島龍三訳『コペルニクス』(1974・法政大学出版局)』▽『矢島祐利訳『天体の回転について』(岩波文庫)』
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1473~1543
ポーランドの天文学者で近世地動説の提唱者。1495~1505年イタリアに留学中,古代地動説に接し,以後その体系化に生涯を捧げ,1543年主著『天球回転論』を刊行した。彼は天動説の体系を倒立させて地動説の土台のうえに再建,惑星の相対距離を導き,惑星の逆行をみごとに説明できたが,数値的には天動説と変わらず,地動説を立証することはできなかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…12世紀以降アリストテレス主義と結んだキリスト教神学がスコラ学としてギリシア的な宇宙像を受け入れたとき,半ば意識的に拒否されたプラトン,新プラトン主義関係の文献が,フィレンツェを中心に15世紀後半にラテン語に翻訳され,一つの思想運動に発展すると,その中にはさまれていたヘリオス信仰(ヘルメス主義や新プラトン主義に強く見られる)が西欧世界をふうびすることになった。フィレンツェ・プラトニズムの雄M.フィチーノは《太陽と光についてDe sole et lumine》を著して,その先鞭をつけたが,こうした新傾向の洗礼を受けた一人にN.コペルニクスがいた。まさしく天体の中でももっとも神聖な太陽こそ,そして中心からすべてを〈流出〉する源としての太陽こそ,宇宙の中心にあるべきであるとするコペルニクスやJ.ケプラーが,プトレマイオス流の地球中心的宇宙モデルを太陽中心的モデルに書き換えることになったのは,そうした太陽崇拝思想の結果としてむしろ自然なことであった。…
…M.ルターが宗教改革を開始したのは1517年であった。43年は,N.コペルニクスの《天球の回転について》とA.ベサリウスの《人体の構造》が発表された年である。それぞれ近代的な天文学,解剖学の出発点となったものであるが,数学に関係するのはとくに前者である。…
…ポーランドの天文学者N.コペルニクスの著書で,1543年にニュルンベルクで刊行されたが,本書の主要部分は1530年ころに完成されていたものとされ,また,それ以前にコペルニクスは《要綱Commentariolus》を書いて友人らに配っている。本書の見本刷りはフラウエンブルクで臨終の床にあったコペルニクスに届けられたと報じられている。…
…天文学が古くから高い段階の学問として成長したのは,それが民衆の生活に必要な知識を提供したばかりでなく,天体の運動にみられる整然さの中に人々が法則性をつかみとることができたからである。 近世における天文学はコペルニクスの地動説に始まり,ケプラー,ガリレイを経てニュートンに至って大きく進歩した。彼が発見した一般の力学法則および万有引力則に基づいて,18世紀には天体力学が著しく発達した。…
…長さ80kmの細長い砂州で囲まれたビスワ湖に臨む小さな漁港で,サナトリウムが多い保養地でもある。1278年以来の古いワルミア地方の町で,コペルニクスが40年にわたってこの地で活動し,その功績を記念した博物館がある。のちにドイツ騎士修道会が勢力を増し,東プロイセン領となった。…
※「コペルニクス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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