コムーネ(読み)こむーね(英語表記)Comune イタリア語

デジタル大辞泉 「コムーネ」の意味・読み・例文・類語

コムーネ(〈イタリア〉comune)

中世イタリア都市国家
現代イタリアの地方自治体日本での市町村にあたる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コムーネ」の意味・わかりやすい解説

コムーネ
こむーね
Comune イタリア語

11世紀以降、北・中部イタリアの各地に発達した自治都市。イタリアでは古代以来都市の伝統が存続していたが、都市によってはすでに10世紀末に市民集会を開く権利と慣習をもっていたものもある。この時代には商業の発展、都市人口の増大が生じ、さらに11世紀には教会改革や十字軍のような新たな運動が生じていた。このような激動のなかで都市住民の団結は強まり、やがてコムーネと称する自治団体が各地の都市で出現した。コムーネは、初め平和維持のための一時的な誓約団体であったが、しだいにコンソレ(執政官)を代表とする恒常的な都市の政治機構に発展した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位1152~90)は北イタリアのコムーネを弾圧しようとしたが、結局コンスタンツの和(1183)によって都市の自治権を認めざるをえなくなった。コムーネには商人手工業者だけでなく、周辺農村の領主その他の土地所有者層が参加していたため、コムーネは周辺領域(コンタード)をもつ領域支配権力となった。12、13世紀には都市経済の発展や周辺からの人口流入によってコムーネの政治秩序が動揺した。そのため都市外の有力者に一定期間の行政を委任するポデスタ制が考案された。また、従来政治から排除されていた新興市民層が自衛団体であるポポロを形成し、13世紀後半にはこれをコムーネ内部の重要な機関とした。アルテギルド組織)がその基盤として活用された。しかし、都市政治に参加できる者は事実上限定されており、大多数の小商人、職人は排除されていた。

 13世紀以降コムーネ相互の抗争党派対立によってコムーネ政治は不安定となり、やがて1人の有力者が都市の全権を掌握するシニョリーア制が成立し、15世紀にはベネチア、フィレンツェなどごく少数の都市を除いて広く普及するようになった。シニョリーア制の成立でコムーネ体制は終わりを告げることになる。なお、農村の都市的集落に成立したコムーネをとくに「農村コムーネ」とよぶ。また、現在でも市町村にあたる地方自治体はコムーネとよばれる。

[清水廣一郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コムーネ」の意味・わかりやすい解説

コムーネ
comune

中世イタリアの北・中部で数多く生じた自治都市。成立は,11~12世紀に諸都市の内部で統領制(コンソラート)と呼ばれる行政機関が形成されたときに求められる。その後,商工業活動の発展,皇帝と教皇の対立の利用,周辺農村地域(コンタード)の支配などを通して自治的都市共同体=都市国家の性格を強めていった。代表的な都市としては,ベネチアジェノバピサなどがあげられる。12世紀頃までには,ロンバルディアのクレモナ,ベネトのパドバ,トスカナのフィレンツェシエナなどの内陸諸都市に多数出現した。コムーネ内部には,行政権や裁判権をもつ参事会制度(数人の代表で構成),全市民が参加したアレンゴと呼ばれる市民議会があったが,その後,ポデスタと呼ばれる最高の行政権を行使しうる官職が設けられた。参事会員,ポデスタとなるのは土地所有貴族が多かったが,13世紀中頃になると商人階級が台頭し,その財力や威信にものをいわせて都市の政治に参画するようになった。彼らはポポロと呼ばれる一種の圧力団体を組織し,統治機関に大規模に参画するようになった。14世紀初め頃になるとシニョリーア制が発展し,コムーネはしだいに終息していった。(→コミューン

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「コムーネ」の解説

コムーネ
comune

住民共同体,およびそれが支配する自治都市。イタリア北部・中部の神聖ローマ帝国領,教皇領では,皇帝教皇叙任権闘争で互いに権威を失墜させたので,両者の任命する都市領主(司教)の地位も弱化した。一方,経済が発展した都市では,人口と勢力の増大した住民は,コムーネ(住民共同体)を結成していたが,この状況を利用して,12世紀初め頃に都市領主から都市の実権を獲得した。コムーネの支配する都市も,コムーネ(住民の自治都市)と呼ばれた。その権力は,名目上は住民全体にあったが,事実上は旧都市領主の家臣,周辺農村の小領主,大商人などいわゆる都市貴族にあった。コムーネは,やがて徴税権,農村支配権など皇帝大権を行使しはじめたので,皇帝フリードリヒ1世は,これを回復すべくイタリアに遠征したが,ロンバルディア同盟に大敗し,1183年のコンスタンツの和約で事実上それを承認した。ここに,主権(皇帝大権)を行使する,都市国家としてのコムーネが誕生した。

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世界大百科事典 第2版 「コムーネ」の意味・わかりやすい解説

コムーネ【comune[イタリア]】

普通にはイタリアの自治共同体をさすことば。歴史的には中世イタリアの自治都市,都市国家をさす。
[コムーネの成立]
 古来地中海のかけ橋として商業がさかんであったイタリアでは,中世初期の社会的混乱期にも商業活動が存続し,彼らが居住する都市も経済的・政治的機能を維持していた。ランゴバルド時代(6~8世紀)以降,地方行政の中心は都市に置かれていた。とくにイタリアにおけるカロリング家の断絶(888)後の混乱とイスラム教徒,マジャール人の侵入の時代に都市の政治的重要性が増大した。

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百科事典マイペディア 「コムーネ」の意味・わかりやすい解説

コムーネ

イタリアの市町村自治体。特に12―13世紀北・中部イタリアに出現した自治都市をさす。フランスにおけるコミューンと異なり,中央集権的王権がなく外国勢力の介入が多いなど特殊な歴史的条件の下で生まれ,農村地帯をも支配領域に包含し,都市国家の様相を呈した。
→関連項目イタリア

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旺文社世界史事典 三訂版 「コムーネ」の解説

コムーネ
comune (イタリア)

西洋中世の自治都市。フランス語ではコミューヌ(commune)という
11〜12世紀ごろ,貨幣経済の進展に伴い,生産と商業活動の自由を要求する市民は,自治権獲得闘争(コミューヌ運動)を起こした。ギルドが中心になり,国王や諸侯から特許状を得る方法をとったが,武力衝突になる場合もあった。イタリアや北フランスでは自由都市を形成したが,富豪の支配が強くなり,13世紀末には衰えた。なお,1871年に成立した労働者政権に対して,パリ−コミューンの言葉が使われている。

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世界大百科事典内のコムーネの言及

【イタリア】より


[地方主義]
 イタリア人の地縁的な帰属意識は重層的な性格をもっている。都市であれ,農村であれ,日本の市町村に相当するコムーネは,数百年の伝統をもち,大都市域の拡大にともなって都市域に併合される場合を除いて,町村合併などということはない。カンパニリズモ(郷党主義)とも言われるコムーネのまとまりは非常に強い。…

【イタリア美術】より

…これらの小都市に王,皇帝の強権は及ばず,市民は自己の責任によって自己の職分をまっとうすることができた。これらの都市を〈コムーネ〉といい,その市民は自律の意識をもつと同時に,神聖ローマ皇帝および東方教会に対して,真のローマ人の子孫という自負を抱くようになり,ここに本来ラテン的な性格をもつ中世文化が封建的クリマの中に成立する。これを〈ローマ的芸術〉すなわちロマネスク(イタリア語ではロマニコromanico)と呼ぶ(ロマネスク美術)。…

【トスカナ[州]】より

…とくに十字軍によってピサが発展し,地中海貿易の重要な拠点としてジェノバとの間に激しい競争を行うようになっただけでなく,アルノ川流域一帯の内陸部に影響力を及ぼすにいたった。
[コムーネの時代]
 1115年,女伯カノッサのマティルデMatilde di Canossa(1046‐1115)の死去によってトスカナの支配者がいなくなった。この時期に各都市の自立性が一段と強まり,コムーネが形成されるようになった。…

※「コムーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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