コンスタンティヌス[1世](読み)コンスタンティヌス

百科事典マイペディア の解説

コンスタンティヌス[1世]【コンスタンティヌス】

ローマ皇帝在位306年―337年)。コンスタンティウス1世の子。ディオクレティアヌス退位後の混乱を収拾して帝国を統一した。ミラノ勅令を発して信教自由認め,自らもキリスト教徒となり,さらに教会内の紛争調停に努めた(ニカエア公会議)。330年新都コンスタンティノープルを完成し,ビザンティン帝国基礎を固めた。
→関連項目イスタンブール凱旋門コンスタンティーヌサン・ピエトロ大聖堂バチカンユリアヌス

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世界大百科事典 第2版 の解説

コンスタンティヌス[1世]【Constantinus I,Flavius Valerius】

280ころ‐337
ローマ皇帝。在位,副帝306‐310年ころ,正帝310ころ‐337年。大帝と呼ばれる。はじめてキリスト教を公認した皇帝。モエシア(今のブルガリア)のナイッススの生れ。父はコンスタンティウス1世,母はヘレナ。父が副帝としてブリタニア,ガリアを支配しているときには正帝ディオクレティアヌスの宮廷におかれた。東の副帝ガレリウスに従ってペルシア遠征に加わり,戦功をあげた。305年ガレリウスが正帝となるに及んでコンスタンティヌスはその宮廷に人質としてとどめられる形となった。

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世界大百科事典内のコンスタンティヌス[1世]の言及

【イスタンブール】より

…この特権は,ペスケンニウス・ニゲルの反乱に荷担してセプティミウス・セウェルス帝の包囲(193‐195)をうけ降伏した際に取り上げられ,市は破壊されたが,まもなく同帝の手で復興され,0.7km2の旧市域は2倍に拡大された。
【ビザンティン帝国時代】

[コンスタンティノポリスの建設]
 行政,軍事の必要からローマ帝国東半部に第二の新しいローマ建設地を求めていたコンスタンティヌス1世(大帝)は,ビュザンティオン近くの海戦でリキニウスを破った直後(324),ここを新首都建設地に選んで自らの首都計画の構想を実施に移した。新都は,彼の名にちなみ〈コンスタンティヌスの都〉と名づけられた。…

【学校】より

…教授法として問答法を採用し,異教徒をも入学させ,キリスト教文化史上大きな役割を果たしたが,4世紀以降,教会生活の変化とともに,本山学校,僧院学校に変わった。変化をもたらした最大のものは,313年のコンスタンティヌス1世(大帝)による信教の自由を定めたミラノ勅令の公布であり,これによりキリスト教は国家の保護の下に置かれることになり,人々の生活に強い影響を与えるようになった。そして6世紀末のグレゴリウス1世の教皇就任から16世紀のルターによる宗教改革までのほぼ1000年の間,ヨーロッパの学校はキリスト教の支配下に置かれることになった。…

【クリスプス】より

…在位,副帝317‐326年。コンスタンティヌス1世の長子。その第1の妻ミネルウィナの唯一の子。…

【コンスタンス】より

…在位,副帝333‐337年,正帝337‐350年。コンスタンティヌス1世の第4子。コンスタンティノポリスでギリシア,ラテンの教育をうけ,父帝死後兄弟と共に正帝としてイタリア,アフリカなどを統治。…

【コンスタンティヌスの寄進状】より

…作成の事情に関しては異見が多く,ピピン3世の754年のローマ教会への寄進に関連して,または800年のカール大帝の戴冠を正当化するためにローマで作成されたとする説が有力であるが,9世紀前半フランク王国成立説もある。内容は,コンスタンティヌス1世(大帝)が癩病を時のローマ司教シルウェステル1世(在位314‐35)の洗礼によって治癒してもらったことに感謝して,ローマ司教とその後継者がアンティオキア,アレクサンドリア,コンスタンティノープル,エルサレムの四主教座の上に支配権を有すること,またローマ市を含む全イタリア,西方属州,地区および都市をローマ司教の支配にゆだねることを述べており,教皇権の世俗権,皇帝権に対する優越を主張したものとされる。その偽書たることは15世紀にニコラウス・クサヌスおよび最終的にはバラによって論証された。…

【シルウェステル[1世]】より

…在位314‐335年。癩病にかかったコンスタンティヌス大帝に洗礼を施して全快させ,大帝より財産を寄進されたとの伝説がある(《コンスタンティヌスの寄進状》)。ラテラノ大聖堂(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を建立した。…

【磔刑】より

…歴史的には,ペルシアのダレイオス1世により前519年にバビロンで政治犯3000人が,後30年ころにナザレのイエスがエルサレム郊外で処刑された例が有名である。キリスト教を初めて公認したローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)は,337年これを禁止した。 イエスの磔刑は新約聖書によれば,エルサレム郊外ゴルゴタの丘で行われた。…

【ニカエア公会議】より

…小アジアのニカエアNicaea(現,トルコ領イズニク)で開かれた2回のキリスト教公会議。第1ニカエア公会議は,第1回公会議にあたり,325年,ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって召集され,各地の主教318名(伝承による。実際には250名以下)が参加した。…

【ローマ】より


[第4期――専制君主政期(284‐395)]
 ディオクレティアヌスは統治と防衛をより効果的なものにするために,帝国を4分割し,自分とマクシミアヌスの2人を正帝とし,ガレリウスとコンスタンティウスを副帝とする四分治制(テトラルキア)を敷いた。彼の自発的退位(305)に際して再び起こった内乱のなかからコンスタンティヌス1世とリキニウスが勝ち残り,再度(313,314)の内戦ののちコンスタンティヌス1世が単独皇帝として残った(在位306‐337)。すでにディオクレティアヌスは首都をニコメディアに移していたが,コンスタンティヌス1世はビュザンティオンの地に新首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス。…

【ローマ[市]】より

…このような政策の基本線は諸皇帝に継受され,市民は〈パンとサーカス〉を与えられて,太平を謳歌することができ,諸皇帝のフォルムや公衆浴場,競技場,円形闘技場,劇場,諸神殿も建てられ,町は世界帝国の首都たるにふさわしい外観を呈し,帝国の津々浦々からの人を吸収することになった(図)。しかし,コンスタンティヌス1世(大帝)は首都をビュザンティウム(コンスタンティノープル。現,イスタンブール)に移し,さらに410年には西ゴート族のアラリックの,455年にはバンダル族のガイセリックの侵攻を被り,町もしだいに荒廃し,以後は教皇の町ローマになっていく。…

※「コンスタンティヌス[1世]」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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