映画が1895年に誕生して数年後,はやくも〈トーキー〉や〈色彩映画〉が試作されたという記録もあるが,資本の高度化と技術的進歩によってトーキーの時代を迎えるまでの約30年間,映画は〈音〉をもたない〈サイレント映画〉であった。〈音〉をもたないこの30年の間に,映画は目に訴える映像だけの芸術,純粋に視覚的な芸術となっていった。無声映画ともいう。
現実のできごとをカメラで記録し,それをスクリーンに投影する〈動く写真〉,つまり〈実写〉から出発した映画は,初歩的な〈技術〉と〈話術〉を発見しながら各国で各様に発達した。ジョルジュ・メリエスが発見したトリック撮影による荒唐無稽な喜劇や《月世界探険》(1902)がつくられたフランスでは,文学や演劇と結びついて〈文芸映画〉が生まれ,舞台劇を引き写した《ギーズ公の暗殺》(1903),さらにデュマ,ゾラ,ユゴーらの原作から《キーン》,《惨殺者》(ともに1910),《レ・ミゼラブル》(1912),《ジェルミナール》(1913)などがつくられ,また劇作家に脚本を書かせて映画の〈芸術化〉が試みられ,サラ・ベルナール主演の《椿姫》(1911)や《エリザベス女王》(1912)がつくられた。一方,イタリアでは,《クオ・バディス》(1911)をはじめローマ史を背景とした小説や劇の映画化によって徹底したかたちの〈芸術化〉が試みられて〈歴史スペクタクル〉と呼ばれるスタイルをつくりあげ,詩人・小説家ガブリエル・ダンヌンツィオが製作に参加した《カビリア》(1914)は,雄大な自然と歴史的建造物を背景にしたロケーションと移動車による移動撮影によって映画的空間を拡大し,〈歴史スペクタクル〉の頂点を示した。原始的で幼稚な〈もの言うフィルムsprechender Film〉などもつくられていたドイツでも,フランスの〈文芸映画〉にならって文学作品の映画化が始まり,シラーの《ドン・カルロス》(1910),シュニッツラーの《恋愛三昧》(1912),ハンス・ハインツ・エーウェルスの《プラーグの大学生》(1913),ワーグナーの楽劇《タンホイザー》(1914)などが映画化され,〈活動〉(キーントップ)から〈映画〉(キーノ)へ,さらに〈映画芸術〉(フィルムクンスト)への道をたどり始めた。
第1次世界大戦が始まる1914年までは世界の映画の90%をフランス映画とイタリア映画が占め,アメリカ映画はヨーロッパ映画のあとを追いかけていたが,古い伝統や芸術の歴史を背後にもっていなかったため,ヨーロッパよりさきに〈映画〉という表現形式の特質を発見し,映画のもっとも素朴で原始的な性質である〈動くということ〉から出発した。それはのちに映画史家が,滝の特性をつくりだすのは水ではなくて水の運動であるのと同じように,映画の本質は〈画〉ではなくて〈運動〉であると指摘した発見であった。アメリカ映画は,それまでのあらゆる古い芸術と絶縁して,なによりもまず〈モーション・ピクチャーmotion picture〉であり〈ムービーmovie〉であった。そして,物語をものがたる力をもっていることが発見されて〈ストーリー・ピクチャーstory picture〉が生まれ,文学とも演劇とも異なる〈視覚〉と〈アクション〉本位の〈西部劇〉や〈連続活劇serial〉などがつくられた。とりわけ,1910年代から20年代にかけてつくられた〈スラプスティック・コメディ〉は,映画独自の発達のために大きな役割を果たした。それは,奇想天外なアイデアをもとにした,論理の継続がなくその場かぎりのアクションで終わる〈アクション・コミック〉で,映画だけができる超現実的なファンタジーを具現して見せた。
第1次大戦を契機にアメリカ映画が世界の映画をリードしたが,D.W.グリフィスの《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)およびトーマス・H.インス(1882-1924)の《シビリゼーション》(1916)は,〈クローズアップ〉〈カット・バック〉などの映画的技巧を完成して〈サイレント映画〉の表現技術を集大成した。それは,写真的な〈模写〉から芸術的な〈創造〉への第一歩であった。つまり,映画が物語をものがたる独自の〈ことば〉と〈文法〉と〈修辞〉をつくりだし,映画芸術の基礎である〈モンタージュ〉を発見したのである。戦後の混乱したドイツに生まれた〈表現主義〉の映画《カリガリ博士》(1919)が世界の注目を浴びたころ,ドイツの哲学者コンラート・ランゲは《現在および未来における映画》(1920)の中で,芸術は〈静〉で〈動〉を表現するというイリュージョンで成り立つものであるから,映画が〈動く画面〉を基礎とするかぎり芸術とは無縁であると映画の芸術性を否定したが,20年代を通じて世界の各国で〈サイレント映画〉の芸術性が追究された。例えばフランスでは,アベル・ガンスが《鉄路の白薔薇》(1923)をつくり,グリフィスのモンタージュを視覚的なリズムによる心理的なモンタージュに発展させ,カール・ドライヤーは《裁かるるジャンヌ》(1928)で大胆なカメラアングルと,クローズアップを最大限に活用したモンタージュでそれまでの常識を破り,〈サイレント映画〉形式の一つの頂点を示した。また,ドイツ映画の黄金時代(古典時代)を代表するフリードリヒ・W.ムルナウの《最後の人》(1925)は,文学的な借物であるタイトル(字幕)を排除し,カメラを自由奔放に駆使して映画以外の手段では不可能な映画的表現を開拓した。映画を純視覚的な時間芸術に還元するドイツの〈絶対映画〉や,純粋に感性的で視覚的なリズムの芸術としてのフランスの〈純粋映画〉も現れた。そして,映画の生命として発見された〈モンタージュ〉を〈映像による思想の伝達手段〉として理論化し実践したソ連で,世界の〈サイレント映画〉時代を代表する作品《戦艦ポチョムキン》(1926)がつくられた。
映画は,〈音〉をもたない30年の間に映像だけの,純粋に視覚的な〈サイレント映画〉という新しい芸術形式を完成した。それは,〈音〉や〈ことば〉などをまったく必要としない,自足的な独立した芸術であった。これこそが,チャップリンが原則的に〈トーキー〉に反対したときの考えであったのである。
→映画
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
画面に同調再生される音を伴わぬ映画。無声映画ともいう。映画誕生の当初は一部でレコードの同調などもくふうされたが、技術的に不完全で実用化されず、以来映画は音を伴わぬものとして固定化した。1920年代終わりごろトーキーが登場するまで、30年余サイレント映画の時代が続いた。サイレント映画といっても、映画館では上映の際、伴奏音楽を演奏し、日本などでは台詞(せりふ)や解説をつける活弁(活動写真弁士)がついたが、台詞は字幕により、自然の音は画面に映るもので暗示的に表現した。それが黒白写真的な画像効果と相まって、一種幻想的要素をも帯びるのがサイレント映画の特色であった。サイレント初期はたわいない喜劇や動きの多い活劇が大衆に好まれたが、やがてフランスで文芸映画の試みがおこり、イタリアでは史劇映画、北欧では自然の風景と人間ドラマの結合などが独自の分野として発展した。
サイレント末期といわれる1923年ごろからは写真美的な映像表現や鋭い画面交替のモンタージュによる優れた作品が各国に生まれ、いわゆるサイレント末期の映画芸術の爛熟(らんじゅく)期を築いた。とくにドイツの幻想怪奇劇、フランスの詩的ドラマ、ソ連の革命劇モンタージュ作品には秀作が多い。アメリカでも喜劇や活劇がまず発達したが、第一次世界大戦後はヨーロッパからも監督やスターを集めてハリウッド映画を国際的なものにした。日本でもこの時期に多くの監督が登場し、個性的な表現スタイルを磨いて優れた作品を生み、芸術的水準を高めた。またフランスやドイツでは、美術などの影響もあって、超現実的な表現を大胆に試みるいわゆる前衛映画が活発につくられ、映画の可能性を大きく開こうとした。サイレント映画は、画面によって音までも表現する技術を磨き、これが優れた作品を生む力となった。また映画理論のうえでも、フォトジェニー論やモンタージュ論など独自の理論を確立した点で、サイレント映画の収穫は大きい。
[登川直樹]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 映画のトーキー化は,根本的な技術革新であったから,発声技術のパテント使用料,機械設備など莫大な投資が必要であり,そのため金融資本との結びつきによる映画資本の高度化を急激に促進し,映画の産業的構造を一変して,ウォール街が直接ハリウッドを支配することになった(なお,ドイツでも,映画に着目したルール地方の重工業資本がフーゲンベルク財団を通じてウーファ社を支配するという現象が起こっている)。 新しい〈音声の世界〉に適合できないスター(たとえば容姿端麗でも声の悪いスター)や監督たちは落の運命をたどり,またサイレント映画の体系を根本から書き改めなければならない一大革命であったため,演劇界から新しい人材が導入される半面,映画の初期に見られた〈舞台劇の缶詰化〉となることが危惧され,チャップリンやルネ・クレールのように,30年間にわたって開拓されてきたサイレント映画ならではの視覚芸術が破壊されることに反対する声も強かった。 トーキーの理論的基礎は,まだトーキーを製作してもいなかったソビエトで築かれた。…
…(1)長谷川一夫(1948‐52)(2)鶴田浩二(1952‐53)(3)山村聡(1952‐65)(4)岸恵子,久我美子,有馬稲子の〈にんじんくらぶ〉(1954‐66)(5)三船敏郎(1962‐ 。東京世田谷成城)(6)石原裕次郎(1963‐ )(7)三国連太郎(1963‐65)(8)勝新太郎(1967‐ )(9)中村錦之助(のち萬屋錦之介)(1968‐ )
【時代劇と現代劇】
[サイレント映画の頂点――時代劇の全盛時代]
日本映画は1920年代後半,量産時代に入り,年間650本ほどの作品がつくられるようになった。まだサイレントの時代であり,全盛期には7000人の弁士がいたという。…
※「サイレント映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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