イランの王朝。1501-1736年。サファビー神秘主義教団の開祖サフィー・アッディーンṢafī al-Dīn(1252-1334)の子孫で,同教団の長イスマーイール1世が樹立。1501年タブリーズで即位したイスマーイール1世は,彼を神のように仰ぐクズルバシュを率いて,東はヘラート,西はディヤルバクル,バグダードに及ぶ地域を制圧した。一方,彼の行った十二イマーム派の国教化,スンナ派信徒の迫害は,スンナ派を奉じるオスマン帝国,ウズベクとの敵対関係を生み,14年最初の対オスマン・トルコ戦でイラン軍は敗北を喫した。24年,10歳のタフマースブṬahmāsb(1514-76)が即位すると,政治の実権を握ったクズルバシュ貴族たちが互いに勢力を争い,政情が乱れた。ためにオスマン帝国,ウズベクの侵攻に対して十分な手が打てず,首都はタブリーズからカズビーンに移された。しかし彼の親政後,とりわけ54年にオスマン帝国と和平条約が締結されてからは,比較的平和な時代が続いた。タフマースブの没後,国は再び乱れ,それに乗じて侵攻を繰り返すオスマン帝国軍にタブリーズも占領され,サファビー朝は窮地に陥った。88年に即位したシャー・アッバース1世は王朝をこの窮状から救っただけでなく,その最盛期を現出した。すなわち彼は軍制・行政上の諸改革を行って王権を著しく強化し,オスマン帝国から西方・北西方の失地を奪還した。また経済的発展を図り,貿易を奨励した。彼が首都に選んだイスファハーンは,政治・経済の中心として〈イスファハーンは世界の半分〉と称されるほど繁栄した。しかし,このサファビー朝中興の英主も後継者の育成にはなんら関心を払わなかったため,彼の死後王朝は衰退し始め,1722年マフムードの率いるアフガン軍に首都イスファハーンを占領され,事実上崩壊した。
サファビー朝はイランの絹を求めるオランダ,フランス,イギリスなどの西欧諸国と友好関係を結び,国際貿易の繁栄期を現出した。一方,文学は散文・詩ともに低調であったが,建築,絵画,書道,じゅうたん製造など,美術・工芸分野は目覚ましく発展した。また哲学・神学研究も盛んで,モッラー・サドラー,ミール・ダーマードなど優れた哲学者が出た。
サファビー朝は十二イマーム派を国教とし,スンナ派のオスマン帝国,ウズベクと敵対した。その結果,同王朝臣民の間に国民意識が芽生えた。複雑な民族構成を示すイランが,同王朝崩壊後今日まで分裂を免れてきたのは,この国民意識のおかげである。
執筆者:羽田 亨一
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イラン北西部、カスピ海近くにあるアルダビールのスーフィー聖者の家柄と仰がれていたサファビーSafavî家のイスマーイール1世が建てたイランの王朝(1501~1732)。預言者ムハンマド(マホメット)の子孫と称する彼が築いた神権政治の基礎も、その死(1524)後、東西からのウズベク人やオスマン・トルコの侵入と、建国の功臣であるトルコ系諸部族の首長たちの勢力争いなどのために揺らいだ。そこで第5代アッバース1世はカズビーンからイスファハーンへ遷都し、王直属軍の創設、王領地の拡大、絹輸出権の独占など一連の絶対主義的政策をとり、国力の充実、失地の回復に努めた。その後3代、比較的平和な時代が続いたが、1722年、首都がアフガン人の手に落ち、事実上王朝は崩壊した。十二イマーム・シーア派を国教とするこの王朝治下では、神学の発達が著しく、美術、工芸、建築なども盛んであったが、文学は振るわなかった。ヨーロッパとの密接な関係も生じ、多数のヨーロッパ人がイランを訪れた。
[羽田亨一]
…15世紀後半アルダビールのサファビー家の勢力が強まり,全アゼルバイジャンは征服された(1500)。サファビー朝は,アラス川以北をカラバグ,シルバンの2ベイレルベグ(〈将軍中の将軍〉の意)管区に分割した。サファビー朝は絹をオスマン・トルコに対する戦略物資とみなし,養蚕を奨励した。…
… イランでは,垂直性の強調,セルジューク朝時代に始まる二重殻ドームの発展,さらに,煉瓦やしっくいに代わる彩釉タイルによる装飾美の徹底した追求などの特質が,イル・ハーン国(1258‐1353)およびティムール朝(1370‐1507)時代の,壮大なスルターニーヤのウルジャーイートゥー・ハーンの墓廟(14世紀初期),壮麗なマシュハドのゴウハルシャード・モスク(1419),サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスク(1399着工),グール・アミール廟(15世紀)などに認められる。さらに,イラン文化の爛熟期サファビー朝(1501‐1736)にいたり,イランのイスラム建築は技術的にも装飾的にも完成の域に近づく。それは,イスファハーンの王の広場を中心にして17世紀に造営されたマスジェデ・シャー(シャー・モスク),ロトフォッラー・モスク,アーリーカープー宮などに具現されている。…
…アナトリアの絨毯の特色は幾何学的な文様構成,角ばった形と単純な明快な対比の配色などである。 絨毯芸術の頂点は,近世イラン文化の黄金期であるサファビー朝(1501‐1736)期である。とくにタフマースブ1世(在位1524‐76)とアッバース1世(在位1588‐1629)の治世下では,イラン各地に王立工房が設けられ最も興隆した。…
…スンナ派の正統四法学派と並んで,第6代イマーム,ジャーファル・アッサーディクJa‘far al‐Ṣādiq(699ころ‐765)にちなみジャーファル法学派と呼ぶこともある。サファビー朝が同派を国教として以来,現代に至るまでイランにおいて支配的である。そのほか,イラク南部,ペルシア湾岸,レバノン南部,インド,パキスタンなどにも同派が分布する。…
※「サファビー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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