精選版 日本国語大辞典 「サファビー朝」の意味・読み・例文・類語
サファビー‐ちょう ‥テウ【サファビー朝】
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イラン北西部、カスピ海近くにあるアルダビールのスーフィー聖者の家柄と仰がれていたサファビーSafavî家のイスマーイール1世が建てたイランの王朝(1501~1732)。預言者ムハンマド(マホメット)の子孫と称する彼が築いた神権政治の基礎も、その死(1524)後、東西からのウズベク人やオスマン・トルコの侵入と、建国の功臣であるトルコ系諸部族の首長たちの勢力争いなどのために揺らいだ。そこで第5代アッバース1世はカズビーンからイスファハーンへ遷都し、王直属軍の創設、王領地の拡大、絹輸出権の独占など一連の絶対主義的政策をとり、国力の充実、失地の回復に努めた。その後3代、比較的平和な時代が続いたが、1722年、首都がアフガン人の手に落ち、事実上王朝は崩壊した。十二イマーム・シーア派を国教とするこの王朝治下では、神学の発達が著しく、美術、工芸、建築なども盛んであったが、文学は振るわなかった。ヨーロッパとの密接な関係も生じ、多数のヨーロッパ人がイランを訪れた。
[羽田亨一]
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…15世紀後半アルダビールのサファビー家の勢力が強まり,全アゼルバイジャンは征服された(1500)。サファビー朝は,アラス川以北をカラバグ,シルバンの2ベイレルベグ(〈将軍中の将軍〉の意)管区に分割した。サファビー朝は絹をオスマン・トルコに対する戦略物資とみなし,養蚕を奨励した。…
… イランでは,垂直性の強調,セルジューク朝時代に始まる二重殻ドームの発展,さらに,煉瓦やしっくいに代わる彩釉タイルによる装飾美の徹底した追求などの特質が,イル・ハーン国(1258‐1353)およびティムール朝(1370‐1507)時代の,壮大なスルターニーヤのウルジャーイートゥー・ハーンの墓廟(14世紀初期),壮麗なマシュハドのゴウハルシャード・モスク(1419),サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスク(1399着工),グール・アミール廟(15世紀)などに認められる。さらに,イラン文化の爛熟期サファビー朝(1501‐1736)にいたり,イランのイスラム建築は技術的にも装飾的にも完成の域に近づく。それは,イスファハーンの王の広場を中心にして17世紀に造営されたマスジェデ・シャー(シャー・モスク),ロトフォッラー・モスク,アーリーカープー宮などに具現されている。…
…アナトリアの絨毯の特色は幾何学的な文様構成,角ばった形と単純な明快な対比の配色などである。 絨毯芸術の頂点は,近世イラン文化の黄金期であるサファビー朝(1501‐1736)期である。とくにタフマースブ1世(在位1524‐76)とアッバース1世(在位1588‐1629)の治世下では,イラン各地に王立工房が設けられ最も興隆した。…
…スンナ派の正統四法学派と並んで,第6代イマーム,ジャーファル・アッサーディクJa‘far al‐Ṣādiq(699ころ‐765)にちなみジャーファル法学派と呼ぶこともある。サファビー朝が同派を国教として以来,現代に至るまでイランにおいて支配的である。そのほか,イラク南部,ペルシア湾岸,レバノン南部,インド,パキスタンなどにも同派が分布する。…
※「サファビー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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