精選版 日本国語大辞典 「サボイア家」の意味・読み・例文・類語
サボイア‐け【サボイア家】
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
第二次世界大戦直後までイタリアに君臨した王家。11世紀に、ブルゴーニュ公国の有力な家臣の一人であるウンベルト1世(「白い手」と称される)を始祖としてアルプス地方のサボア(サボイアSavoia)におこり、神聖ローマ皇帝コンラート2世からモリエンヌの伯爵領を授与された。13世紀から15世紀にかけてピエモンテ地方に領土を広げ、1416年に公国となるが、概して18世紀初頭まで国土はアルプス地方のフランスとスイス方面に偏っていた。15世紀なかば以降フランスとオーストリアとの対立、抗争の間にあって、しばしば小国の悲運を味わったが、ルイ14世の時代になると列国の勢力均衡を利用しつつ地歩を拡大し、スペイン継承戦争(1701~14)の結果、シチリアなどの領土を獲得し、かつ王号を得た(1713)。しかし1720年シチリアと交換にサルデーニャを得てサルデーニャ王と称した。フランス革命後ナポレオン体制下で本土の領土をすべて失ったが、ウィーン体制とともに旧領を回復し、さらにジェノバを併合したサルデーニャ王国はイタリア第一の雄邦となり、ビットリオ・エマヌエレ2世は1861年イタリアの統一(リソルジメント)を実現した。しかし第二次大戦後の1946年、国民投票により共和制が誕生すると、同家は廃絶となった。
[重岡保郎]
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
…このため,都市支配をめぐってジュネーブ伯と司教は長期にわたって争い続けたが,1124年,ビエンヌ大司教の調停によって司教が都市領主として正式に君臨することになった。 13世紀後半以降になるとサボイア家がジュネーブに支配の足場を築き始め,今度はサボイア家と都市君主たる司教および在地貴族の闘争が展開された。この闘争の間隙をぬって市民もしだいに自治体制を築いていった。…
… ローマの軍事植民市アウグスタ・タウリノルムAugusta Taurinorumとして建設され,6世紀にランゴバルドの公領,8世紀にフランクの伯領となる。9世紀以降領有をめぐって抗争が続き,1131年にサボイア家がトリノ伯を名のったが,すぐに追放され,36年神聖ローマ皇帝の保護のもとに自治都市(コムーネ)となった。この後1世紀以上に及ぶサボイア家との抗争が繰り返され,1280年最終的に同家の領有に帰した。…
※「サボイア家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/26 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
10/19 デジタル大辞泉プラスを更新
10/19 デジタル大辞泉を更新
10/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
9/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新