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デジタル大辞泉
「サラエボ」の意味・読み・例文・類語
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サラエボ
Sarajevo
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。同国中東部,アドリア海とハンガリー平原を結ぶ交通の要地。 15世紀後半からのオスマン帝国の支配下で繁栄し,1878年オーストリア=ハンガリー帝国にボスニア・ヘルツェゴビナが占領されると,その行政府が置かれた。一方,セルビア人の独立運動の一中心地でもあり,1914年にはサラエボ事件が起こって第1次世界大戦の発火点となった。製鋼,製陶,製材,食品加工などの工業があり,織物,木工品などの手工業も盛ん。市の北郊では鉄鉱石,石炭の採掘も行なわれる。カトリック司教座およびセルビア正教会主教座の所在地。またイスラムの中心地でもあり,市内にはイスラム風の街並み,市場や多数のモスク,聖堂などがある。大学をはじめ,文教施設も多い。 1984年オリンピック冬季競技大会が開催された。 1992年旧ユーゴスラビアからの分離独立に伴ってボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発,市街戦で町は大きく破壊されたが,1995年 11月のデートン和平合意,12月のボスニア和平協定の成立でようやく終結した。人口 39万3000(2008)。
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サラエボ
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。ディナル・アルプスの山間盆地,ネレトバ川支流のミリャツカ川の両岸にある。町はトルコとオーストリア・ハンガリー帝国支配下でそれぞれ創建された旧市街と新市街,それに工業地帯の三つに分かれる。旧市街は中東風の職人街で,市場やモスクがある。新市街は行政・商業の中心地。第2次大戦前は絨毯などの手工業が主体であったが,戦後は重工業が重視され,金属・機械・食品工業が行われる。大学(1946年創立)がある。7世紀ころセルビア人とクロアチア人が定住。15世紀にトルコ領となり,住民の一部はイスラム教に改宗。1878年オーストリア・ハンガリー帝国領。サラエボ事件の地。1984年冬季オリンピック開催地。1992年の旧ユーゴからの独立を契機に起こったボスニア・ヘルツェゴビナ内戦によって,戦場と化した。36万9534人(2013)。
→関連項目サラエボオリンピック(1984年)|ボスニア・ヘルツェゴビナ
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サラエボ【Sarajevo】
ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都。ミリャツカ川両岸,標高550mの盆地にあるオリエント色豊かな美しい町。人口25万(1995)。住民はボスニア人と呼ばれることもあるが,ボスニア民族というものは存在せず,古くから東方正教徒のセルビア人,カトリックのクロアチア人,イスラム教徒のムスリム人などが混在している。 古くから森と水の豊かな土地で,近郊から先史時代の住居跡が発見されており,西方のサラエボ平原は2~3世紀には第3アウグストゥス・ローマ軍団の駐屯地であった。
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世界大百科事典内のサラエボの言及
【第1次世界大戦】より
…この二つの出来事は日露戦争と1905年の〈血の日曜日〉に始まる第一革命の痛手からまだ十分に回復していなかったロシアにとって,パン・ゲルマン主義の挑戦であり,さらに周辺の独立国セルビアにとっても重大な脅威であった。サラエボ事件の伏線はここにあった。 1914年6月28日に突発したボスニアの首都サラエボでのセルビアの一青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件は国際間に極度に緊張を高め,ドイツの全面的支援を確信したオーストリアが7月28日にセルビアに対して宣戦を布告すると,この局地戦争は直ちに連鎖反応を引き起こした。…
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