サルデーニャ島(読み)さるでーにゃとう(その他表記)Sardegna

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サルデーニャ島」の意味・わかりやすい解説

サルデーニャ島
さるでーにゃとう
Sardegna

イタリア半島南西地中海に浮かぶ台地状の島。英語名サルディニア島Sardinia。南北長約260キロメートル、東西幅約120キロメートル、面積2万3833平方キロメートル。シチリア島に次ぐ地中海第二の島。周辺の島々とともにサルデーニャ自治州を形成する。州の面積は2万4090平方キロメートル、人口159万9511(2001国勢調査速報値)。サッサリヌオロカリアリと、1974年発足のオリスターノの4県で構成される。州都はカリアリ。島内最高点はジェンナルジェントゥ山塊中のラ・マルモラ山(1834メートル)。島の海岸線は1385キロメートルと長いが、その大部分断崖(だんがい)であり、海岸平野が開けている場合でもその多くはマラリア蔓延(まんえん)する低湿地であったため、住民は内陸部に住む傾向が強かった。牧羊と粗放的な穀作、それに林業鉱業が伝統的な生業であった。20世紀に入ってからも近代化の恩恵を受けることなく、工業も概して未発達で、イタリアの後進的な地方であった。1960年代から南部開発政策の一環として、ポルト・トッレスとサッロークに精油・石油化学、オッターナに化学繊維、ポルトベスメにアルミニウムなどの近代工業が誘致されたが、それらの島内経済への貢献度はかならずしも大きいとはいえない。

[堺 憲一]

歴史

城塞(じょうさい)などに使われたとされる、巨石でつくられたヌラーゲnuragheとよばれる遺跡などから、高い水準の文化が先史時代に栄えていたといわれる。その後、カルタゴ人がカリアリなどの沿海都市に現れ、紀元前7世紀には奥地への植民を開始した。前6世紀中葉にはギリシア人も島の北東部への定住を企てている。前1世紀~後2世紀ごろに、ローマ人が島の支配を確立して商業が繁栄し、道路などが整備された。455年ごろにはバンダル人の、534年には東ローマ帝国の支配下に入った。11世紀にはイスラム教徒の侵略にさらされたが、教皇ベネディクトゥス8世の要求もあって、ピサジェノバがそれを撃退した。この時期から、麦、チーズ、銀、塩、毛皮などの商業活動を通じて、ピサとジェノバが島に進出し、その結果、島内の社会構造に大きな変化をもたらした。14世紀中葉からアラゴン家によるスペインの王朝支配下に入り、それが1713年まで続いた。18世紀初頭、スペイン継承戦争に巻き込まれ、戦勝国の一つオーストリアが1714年に島を領有することになった。1720年、サボイア家が、シチリア島と交換してサルデーニャ島を領有し、ビットリオ・アメデオ2世がサルデーニャ王の称号を得た。ナポレオン1世のイタリア支配時代(1799~1814)には、サボイア家の君主はサルデーニャ島に避難した。1861年のイタリア王国の成立によりイタリア領となった。

[藤澤房俊]

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旺文社世界史事典 三訂版 「サルデーニャ島」の解説

サルデーニャ島
サルデーニャとう

イタリア半島の西方,コルシカ島南方にある地中海第2の大島
地中海貿易の要地として,古代から諸民族の植民・支配が行われた。イスラーム王朝形成のころ独立し,11世紀にはピサの,ついでスペイン・オーストリアの支配を受けた。1720年,サヴォイ家のもとでピエモンテ・サヴォイとともにサルデーニャ王国を形成した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サルデーニャ島」の意味・わかりやすい解説

サルデーニャ島
サルデーニャとう

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