南イタリアのサレルノにある最古の中世大学の一つ。中世前半期における医学のセンターとして全欧的な名声を博していた。サレルノはナポリの南にあって、すでに7世紀にはベネディクト派の修道院が建ち、気候がよかったことなどから、保養地としても知られ、医学校も設けられるようになった。9世紀に起源をもつといわれる医学校は、11~13世紀中ごろにかけて、法学のボローニャ、神学のパリと並ぶ学問の中心地でもあった。サレルノは重要な海港都市であり、東ローマや地中海諸国家と密接な関係にあったからである。そこで生み出された医学書『サレルノ健康法』Regimen sanitaris salernitanumは全欧で広く読まれ、大きな影響を及ぼした。イギリスの大学史研究者でもあるラシドールHastings Rashdall(1858―1924)によれば、サレルノ医学校が中世大学として公的に承認されたのは、1231年神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220~50)の勅令によるとされている。ところが、近隣に設立されたナポリ大学(1224)との統合(1253)・分離(1258)を繰り返すうちに衰退し、13世紀末にはアラビア医学の影響が強まるとともに、医学研究・医学教育の中心は、サレルノから、しだいにフランス南部にあるモンペリエ、イタリア北部のボローニャへと移っていった。
サレルノは中世医学発祥の地ではあったが、13世紀末以降のサレルノ大学は組織として存在したものの、他大学への影響は少なかったといわれている。そして19世紀初頭に至ってついに閉学を余儀なくされた。
[馬越 徹]
1970年に再建されたサレルノ大学には、往時をしのぶ医学部は設置されておらず、中世大学の伝統とは異なる新しい大学として発展している。79年には法学、経済学・商学、文学・哲学、理学の4学部だけであったが、その後、教育学、工学、政治学、薬学、社会科学の5学部が加わり、1999年現在、9学部から構成されている。
[馬越 徹]
保養地として病人を集め〈ヒッポクラテスの町〉と称されたイタリアのサレルノには,古くから医学校が存在していたが,その起源については不明である。9世紀にはすでに著名な医師が存在し,10世紀にはフランス,イギリスの王族が治療のために訪れるほどの名声を博していた。11世紀末にコンスタンティヌス・アフリカヌスによってそれまでギリシア・ローマ医学を伝統としたサレルノにアラビア医学がもたらされ,12世紀には《サレルノ養生訓Regimen sanitatis salernitanum》など,後に全ヨーロッパに流布した医学著作が多数生み出されて,この医学校は医学の全ヨーロッパ的中心となった。また,ここで作成された医学教育のカリキュラムは,パリをはじめとする中世大学の医学教育に導入されて,後世まで影響を与えた。しかし,この学校が組合・規約・学位授与など中世大学固有の組織機能を持ったのは13世紀以降であると考えられ,その時代にはパリ,ボローニャ,モンペリエなどの中世大学,とりわけ近隣に設立されたナポリ大学の隆盛によって衰退を余儀なくされた。最初の法的承認は1231年の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の勅令によるとされる。53年コンラート4世がナポリ大学をサレルノに移動させたが,58年にはナポリに大学が再興されてサレルノには医科大学のみが残された。14世紀には都市による教師給与の支給の開始など,都市の大学関与が強化された。15世紀頃から哲学,法学なども教授され,16,17世紀に再興の兆候が現れた。しかし,18世紀における幾何学,産科学などの講座新設によっても衰勢いかんともし難く,ついに1812年に閉学されるに至った。1970年に再建されて,96年現在,法学,経済学,文学,理学,教育学,工学,政治学の7学部を擁している。
執筆者:児玉 善仁
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
サレルノにある国立総合大学。「ヒポクラテスの町」として知られたサレルノには古くから医学校が存在し,12世紀には『サレルノ養生訓』(Regimen sanitatis salernitanum)などの医学著作が多数生み出されて,医学の全ヨーロッパ的中心となった。ここで作成された医学教育のカリキュラムは,パリをはじめとする中世大学の医学教育に導入されて後世まで影響を与えた。しかし,この学校が組合・規約・学位授与など中世大学固有の組織機能を持って大学となったのはパリ,ボローニャ,モンペリエなどの大学成立以後のことである。
最初の法的承認は1231年の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の勅令によるとされる。1253年コンラート4世がナポリ大学(イタリア)をサレルノに移動させたが,58年にはナポリに大学が再興されてサレルノには医科大学のみが残された。14世紀には都市による教師給与の支給の開始など,都市の大学関与が強化された。15世紀頃から哲学,法学なども教授され,16~17世紀に再興の兆候が現れた。しかし,18世紀における幾何学,産科学などの講座新設によっても衰勢いかんともし難く,ついに1812年に閉学されるに至った。1970年に再建されて,2011年には16学科,正教授261人,准教授327人,研究員403人,2015/16年の登録学生数約3万5000人。
著者: 児玉善仁
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
ヨーロッパ最古の大学の一つ。起源は不明だが,11世紀にコンスタンティヌス・アフリカヌスによってアラビア医学が伝えられたことにより発展した。12世紀にはヨーロッパで最も著名な医学校となったが,13世紀以降,しだいに衰退。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…少なくとも10世紀末には,医学を教える施設がつくられていた。〈サレルノ医学校の4人の教師〉という伝説が示すように,この医学校(サレルノ大学)は,4文化圏出身の教師たちによって始められたと考えてよい。1140年には,医学校はこの地を支配していたシチリア王の名で,〈以後医療をおこなわんとするものは,試験を受けて合格することを要する〉旨の布告を出させて開業制限をおこなった。…
※「サレルノ大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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