百科事典マイペディア 「サン・ピエトロ大聖堂」の意味・わかりやすい解説
サン・ピエトロ大聖堂【サンピエトロだいせいどう】
→関連項目教皇庁|ニコラウス[5世]|バチカン宮殿|ビニョーラ|ポルタ|ボロミーニ|ミラノ大聖堂|ローマ(都市)
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カトリック教会の中心をなすキリスト教世界最大の聖堂。バチカン市国にある。旧堂は326年にコンスタンティヌス大帝が十二使徒の筆頭者・聖ペテロの墓の上に建てたものだが、荒廃し始めたため、教皇ニコラウス5世(在位1447~55)はベルナルド・ロッセリーノに命じて改築を計画させた。1452年ロッセリーノはまず祭室の増改築に着手するが、1455年教皇の死去で工事は中断。その後約半世紀を経て再開のめどがつくが、教皇ユリウス2世(在位1503~13)は、旧堂を全面的に取り壊して改めて新聖堂を再建することに決め、時の建築家たちの諸提案からブラマンテの立案を採用し、1506年に定礎式を行った。ブラマンテの構想はギリシア十字形のプランに、ローマのパンテオンから着想されたクーポラ(円蓋(えんがい))をのせ、周柱を巡らした頂塔をその上に立てるものであった。しかし1514年、中央のクーポラを支える4本の支柱の建立中に彼は世を去った。後継者に指名されたラファエッロはジュリアーノ・ダ・サンガッロとフラ・ジョコンドに協力を求め、ブラマンテによるギリシア十字形プランは典礼に不適合であるとして、ラテン十字形に改めて工事を進めようとする。しかし1520年にラファエッロも没し、バルダッサーレ・ペルッツィ、ジュリアーノの甥(おい)のアントニオ・ダ・サンガッロと工事が引き継がれるが、その間、教会の財源の逼迫(ひっぱく)や有名な「ローマの略奪」のため工事の進展はみられなかった。
1546年アントニオの没後、独自の構想をもって登場し、工事を担当することになったミケランジェロは、齢(よわい)すでに72歳の老境にあったが、ふたたびギリシア十字形を採用して、クーポラを支えるタンブール(円筒形部分)の外観効果を強調し、さらに堂内のアプスや礼拝堂の設計を改めた。今日みられる建築的特徴の多くは彼の構想に負うものである。1564年のミケランジェロ没後、彼が残した木製模型により、ジャコモ・デッラ・ポルタの手でクーポラが完成された。17世紀になってパウルス5世(在位1605~21)の意向を受けたカルロ・マデルナが身廊を西側前方に延長させ、さらにナルテックス(前廊)を設けてラテン十字形プランに改め、1614年に壮麗なファサード(正面)を構築した。かくして着工以来120年の歳月を経た1626年11月18日ウルバヌス8世により新大聖堂の献堂式が行われた。この年は奇しくも旧堂が献堂されてから1300年目にあたっていた。しかし工事はその後も続行され、1656~67年にはベルニーニによって巨大な柱廊を巡らした聖堂前広場が整備され、またこの柱廊から教皇庁に通ずる階段「スカラ・レジア」が1666年に完成されている。
東西186.36メートル、南北137.5メートル、クーポラの高さ132.5メートル、その直径42メートルの規模をもつこの巨大な聖堂は、ルネサンスおよびバロック彫刻によってほとんど埋め尽くされている。アルノルフォ・ディ・カンビオ作と伝える『聖ペテロ像』、ミケランジェロの初期『ピエタ』、カノーバの『クレメンス8世の墓碑』、ベルニーニの『聖ペテロの司教座』と『ウルバヌス8世の墓碑』などが有名である。しかしここで特筆すべき作品は、クーポラの真下、すなわち聖ペテロの墓の真上にベルニーニが建てたブロンズの大天蓋(てんがい)で、世界最大の工芸美術品といえよう。なお、この聖堂のあるバチカン市国は1984年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[濱谷勝也]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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