精選版 日本国語大辞典 「ザクセン朝」の意味・読み・例文・類語
ザクセン‐ちょう ‥テウ【ザクセン朝】
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中世ドイツ王国の最初の王朝(919~1024)。東フランクのカロリング家の王統が断絶したのち、フランケンのコンラート1世の過渡的治世を経て、919年ザクセン公ハインリヒ1世が国王に選ばれて創始した。オットー1世(大帝)、2世、3世と直系で相続され、オットー3世の夭折(ようせつ)後、1世の弟の孫ハインリヒ2世が継いで1024年まで続き、その死後ザリエル朝にかわった。マジャール人、ノルマン人などの異民族の侵入を撃退して、ドイツ王国の安全を確保し、西方では、一時西フランク王国に服属していたロートリンゲンを奪い返した。国内では教会勢力と結んで、いわゆる帝国教会政策を遂行し、諸部族大公の独立化を抑えて、中世ドイツ王国の基礎を固めた。とくにオットー1世はイタリアに遠征してローマ皇帝の帝冠を受け、ドイツ、ブルグント、イタリアにまたがる神聖ローマ帝国を樹立し、教皇権をその保護下に置くとともに、東方スラブ人地域へのキリスト教の布教にも強力な支援を与えた。
[平城照介]
919~1024
神聖ローマ帝国最初の王朝。オットー朝ともいう。初代ハインリヒ1世がザクセン公だったのでこの名がある。2代オットー1世は神聖ローマ帝国を創始し,彼から4代(962~1024年)にわたりドイツ王=神聖ローマ皇帝位を担った。異民族撃退と部族勢力抑圧を通じて,カロリング朝滅亡後の東フランクの政治的統一を果たしたが,その際帝国教会政策を導入したことは,イタリア政策を不可避なものとした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…10世紀半ばから11世紀半ばにかけての約100年間に興隆したドイツ中世初期の美術。時代は,カロリング王朝分裂後にドイツの政治的統一を完成したザクセン朝(919‐1024)にほぼ重なるが,同朝の3人のオットー帝(1~3世)治下で美術が著しい発展を見せたため,こう呼ばれる。この美術は次のザリエル朝の創始者および2代皇帝の時代にも継承された。…
…しかも同家のハインリヒ1世は,919年,コンラート1世の後をうけ,フランク族以外の出身者としてはじめてドイツ王位につく。これ以来,同家は1世紀余にわたりドイツ王国を支配したばかりでなく,オットー1世が皇帝位をえてからは(962),西方キリスト教世界全体を防衛,統治する任務をも負うことになった(ザクセン朝)。そこで,ザクセンにおける大公権の行使は,有力豪族の一つビルング家Billungerにゆだねられたが,その支配は部族領域全域には及ばなかった。…
※「ザクセン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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