百科事典マイペディア 「ザスーリチ」の意味・わかりやすい解説
ザスーリチ
→関連項目宮崎夢柳
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ロシアの婦人革命家。スモレンスク県の貴族の家に生まれる。1868年首都ペテルブルグに出て革命運動に加わり、69~71年、ネチャーエフの事件に関係して投獄され、のち流刑となった。78年、同志ボゴリューボフを鞭(むち)打ちに処したペテルブルグ市長トレポフを銃撃して負傷させた。彼女は、この件で陪審員から無罪を宣せられたが、再逮捕を恐れて国外へ逃亡。79年、帰国してナロードニキの秘密結社「チョールヌイ・ペレジェール(全土地割替)派」に加盟。翌年ふたたび国外に逃れ、83年「労働解放団」の設立に参加。マルクス、エンゲルスの著作を翻訳し、彼らと文通した。1903年、ロシア社会民主労働党の第2回大会でメンシェビキを支持して、その指導者の一人となった。05年ロシアに戻り、17年のボリシェビキの革命には反対の態度をとった。レーニンは彼女のメンシェビズムは攻撃したが、若いときの革命活動は高く評価している。
[外川継男]
1849~1919
ロシアの女性革命家。貴族の娘で,女子学生のときネチャーエフのグループに入り,シベリア流刑。ナロードニキとなり,1878年ペテルブルク特別市長官トレポフを狙撃,裁判で無罪となる。亡命地でマルクス主義者となり,のちメンシェヴィキに属した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
… しかし,当局の弾圧がきびしく,ここから権力との直接闘争に向かう志向が生まれた。78年のザスーリチの狙撃が開いたテロルの道が人々の心をとらえ,79年6月,結社内の政治闘争派はリペツク会議で,〈執行委員会〉を発足させた。一時妥協がなったが,結社は,この政治闘争派の人民の意志派と農村工作志向の〈土地総割替〉派に分裂した。…
※「ザスーリチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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