ドイツ観念論を展開した哲学者の一人。
[高山 守 2015年2月17日]
1775年1月27日、ドイツ、ウュルテンベルク地方のレオンベルクに生まれる。きわめて早い時期から天賦の才を発揮し、1790年15歳の若さでチュービンゲン大学に入学する。ここで5歳年長のヘルダーリンおよびヘーゲルと親交を結ぶ。早くから哲学研究に携わり、フィヒテの哲学をいちはやく摂取して『哲学の原理としての自我について』Vom Ich als Prinzip der Philosophie(1795)等を執筆・出版する。やがて1798年に出版された『世界霊について』Von der Weltseele等において、独自の哲学構築の第一歩であるいわゆる「自然哲学」を展開する。これがフィヒテ、ゲーテらに高く評価され、23歳でイエナ大学員外教授となる。イエナにおいて、「自然哲学」を体系的に補完する著作『超越論的観念論の体系』(1800)を公刊。翌1801年、この体系と「自然哲学」とを統合した独自の哲学、「同一哲学」を『わが哲学体系の叙述』Darstellung meines Systems der Philosophieにおいて発表、絶頂期を迎える。
1803年、親友W・シュレーゲルの夫人カロリーネKaroline(1763―1809)との結婚問題などから、シェリングは、ロマン派と結び付いた華々しい活躍の舞台であったイエナを去り、ウュルツブルク大学の教授の職につく。翌1804年『哲学と宗教』Philosophie und Religionを公刊。1806年ミュンヘンに移居、学士院会員となる。このころを境にシェリングの哲学は濃い神秘の影を帯び始め、いわゆる後期思想へと移行する。1807年、彼を痛烈に批判したヘーゲルの『精神現象学』の出版を契機にヘーゲルとの親交を断つ。1809年『人間的自由の本質』を公刊。1820年よりエルランゲン大学教授、1827年ミュンヘン大学が創設され、同大学教授に就任、同年学士院院長となる。1840年、ヘーゲル死後のベルリン大学に招かれ、ここでかねてよりの構想である「積極哲学」を展開する。1854年8月20日、スイスのラガツにて死去した。
[高山 守 2015年2月17日]
シェリングの哲学を一貫して規定したのは、彼の初期の思想「自然哲学」である。彼によれば自然とは、けっして近代自然科学がとらえるような機械的な作用や反作用が支配する物質の世界ではなく、一つの生命、霊魂であり、「見ることのできる精神そのもの」である。「自然哲学」は、この豊饒(ほうじょう)な生命ある大自然を、「重力」と「光」という2原理よりなる無限な「絶対者」の開示として把握するのである。前期思想の頂点をなす「同一哲学」も、新たにとらえ直された「絶対者」を根源において展開される「自然哲学」である。つまり「同一哲学」は、「絶対者」を「同一律(A=A)」の形式において存在する「理性」ととらえ、「光」を認識の原理、「重力」を存在の原理と規定することによって、大自然が確固たる「絶対者」「理性」の自己認識であることを明確にする。後期思想は、それまで人間ももっぱら自然と一体のものと説かれていたのに対して、両者の乖離(かいり)を主題化する。人間とは、神的秩序である自然から離反しうる自由をもつ者、否、この「自由」そのものである。ここに、「自然哲学」がキリスト教における救済史をも包摂することによって、「積極哲学」が成立する。ヘーゲル哲学への批判を含む「積極哲学」とは、いっさいが神そのものである世界において、なにゆえに神からの離反、悪が存在するのかという問いを契機に、「存在する」ということ自体の根拠を問う学である。シェリングは、現代の実存哲学を先取りするこの「積極哲学」を、『神話の哲学』Philosophie der Mythologie、『啓示の哲学』Philosophie der Offenbarungとして壮大な視野のもとで論じたのである。
[高山 守 2015年2月17日]
『赤松元通訳『先験的観念論の体系』(1948・蒼樹社)』▽『山本清幸訳『哲学的経験論』(1973・ミネルヴァ書房)』▽『細谷貞雄訳『近世哲学史講義』(1974・福村出版)』▽『岩崎武雄・渡辺二郎他訳『世界の名著43 フィヒテ・シェリング』(1980・中央公論社)』▽『西谷啓治訳『人間的自由の本質』(岩波文庫)』▽『勝田守一訳『学問論』(岩波文庫)』▽『服部英二郎・井上庄七訳『ブルーノ』(岩波文庫)』
アメリカの経済学者、政治学者。カリフォルニア州オークランド生まれ。1943年カリフォルニア大学バークリー校を卒業し、1951年にハーバード大学で経済学博士号を取得。ホワイトハウス勤務、エール大学教授、ハーバード大学教授を経て、1990年からメリーランド大学教授。利害が対立する者(経済主体)同士の駆け引きを数学的に分析するゲーム理論を、冷戦下の安全保障問題など社会科学のさまざまな領域に応用し、対立と協力の理解を深めた功績によって、2005年にR・J・オーマンとともにノーベル経済学賞を受賞した。
ゲーム理論で1994年のノーベル経済学賞を受賞したナッシュらは、経済主体が合理的に行動するとして理論を構築した。シェリングはかならずしも合理的に行動しないこともあり得るとしたうえで、情報を取り込んだゲーム理論を発展させた。
シェリングにとって、他者に対する言質や一般的な公約などによって自分を拘束し、実行することを意味する「コミットメント」の概念は重要であり、経済主体が意図的に手段を限定したり、自らの立場を悪くしたりする「戦略的コミットメント」(strategic commitments)が、最終的にかえって有利な結果をもたらしやすくなることを示した。1960年に、戦略研究の古典とされる『The Strategy of Conflict』(『紛争の戦略』)を出版し、ゲーム理論の概念や枠組みを用いて、戦略的意思決定の諸問題を解明した。
たとえば東西冷戦下で核戦争の危機が叫ばれたとき、核の先制攻撃に対して自動的に反撃する機能を整えておけば、両者は共倒れを避けるように行動し、かえって先制攻撃を避けられるとする。脅しの通告と交渉によって恐怖の均衡が実現し、このようなコミットメントによって核武装が核戦争抑止に役だつことを理論的に明らかにした。古代から経験的に知られている「背水の陣」が軍事、外交、政治分野のみならず、貿易紛争の解決や経済政策の決定などにも有用であることを理論的に説明した。
ケネディ政権時代にはアメリカ政府の諮問機関のトップに就き、アメリカ・ソ連首脳のホットライン創設を提言した。1993年に核戦争回避などに貢献したとして、アメリカ科学アカデミーの表彰を受けている。
分離と融合の研究では人種、性別、年齢、所得などを対象にし、分離や差別の問題を均衡から他の均衡への移行現象としてとらえる。ミクロのわずかな動機の変化がマクロで大きな変化を生じさせて、安定状態に落ち着くとする。とりわけ人種差別に関する研究が著名であり、1971年の論文「Dynamic Models of Segregation」では、白人と黒人が隣同士で暮らしていても、いつのまにか白人が多く居住する地域と黒人が多く暮らす地域に分かれてしまう現象を、簡易なモデルで説明し、人種問題を扱う数多くの論文に引用されている。
[金子邦彦]
『河野勝監訳『紛争の戦略――ゲーム理論のエッセンス』(2008・勁草書房)』
ドイツの医薬品メーカー。2006年6月に同じドイツのバイエル社に買収され、バイエル・シェリング・ファーマ社となった。
シェリングは、1871年に薬剤師であったエルンスト・シェリングErnst Schering(1824―1889)がベルリンに薬品会社を設立したのが始まりであった。1905年、ロシアで生産を開始するが、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によりロシアの工場をすべて失った。第二次世界大戦前には30の関連子会社をもっていたが、1945年、第二次世界大戦の影響による商品不足などの理由により、海外の子会社はすべて閉鎖された。戦後、海外取引の拡大により再建を図った。取引高のうち海外取引は、1950年は33%であったが、1960年には54.2%、1985年には82%と確実にシェアを伸ばしていった。
シェリングはドイツ三大化学メーカーであったBASF、バイエル、ヘキスト(現サノフィ・アベンティス)のような総合化路線をとらず、薬品部門に特化(専門化)した経営で発展を遂げ、皮膚病学領域Dermatologie、診断法領域Diagnostik、治療法領域Therapie、ホルモン治療および受胎制限領域Hormontherapie und Fertilitätskontrolleの四つの領域を経営の柱としていた。1998年度時点の売上高64億2500万マルクのうち、これら4領域の占める割合をみると、ホルモン治療および受胎制限がもっとも多く全体の36%(売上高22億7200万マルク)を占め、次いで治療法が31%(同20億マルク)、診断法が23%(同14億8000万マルク)、皮膚病学が6%(同4億マルク)の順となっている。そのほか、植物保護などの領域にも事業展開しており、1994年、この分野でヘキストと提携した。企業形態は持株会社を上位に置くコンツェルン形態をとり、傘下には140余りのグループ企業が存在した。本社は創業以来ベルリンに置かれていた。従業員数は2万1818人(1998)。
[所 伸之]
2006年6月、ドイツの同業バイエル社によって買収され、バイエル・シェリング・ファーマ社Bayer Schering Pharma AG(本社はベルリン)となる。なお、1952年に独立しているシェリング・コーポレーションUSAは、1971年にアメリカのプラウ社Plough Inc.と合併し、シェリング・プラウとなっていたが、2009年11月、アメリカのメルク社に吸収合併された。
[編集部]
ドイツの音楽学者。ブレスラウ(ブロツワフ)に生まれる。ベルリン大学などで音楽学を学び、1902年にライプツィヒ大学のクレッチマーのもとで、ビバルディ以前の器楽協奏曲の歴史に関する論文によって学位を取得。『バッハ年鑑』Bach Jahrbuchの編集などに携わったのち、1928年から没するまでベルリン大学の音楽学正教授の地位にあった。彼の業績は甚だ多岐にわたっているが、とりわけバッハ研究は、バロック時代の音楽と修辞学との関係を明らかにした先駆的研究として知られている。さらに、音楽の象徴内容解釈に力点を置いた『ベートーベンと文芸』Beethoven und die Dichtung(1936)などの一連のベートーベン研究は、クレッチマーの音楽解釈学の継承発展として、音楽美学史的にも重要である。また、古楽の演奏法の研究や資料の整備に尽力した功績も大きい。
[渡辺 裕]
『シェーリング編、モーザー補、皆川達夫訳『西洋音楽史年表』(1971・音楽之友社)』
ポーランド出身のメキシコのバイオリン奏者。ベルリンでカール・フレッシュ、ついでパリでチボーに学び、ドイツ・ハンガリー派とフランコ・ベルギー派の奏法を身につけた。46年メキシコ大学の音楽学部創設に尽力、教授に就任。同年メキシコの市民権を得ている。54年名ピアニスト、ルービンシュタインにみいだされ、彼と共演。これがきっかけになって国際的に広く活動するようになり、戦後のもっとも優れたバイオリン奏者の一人に数えられるに至った。64年(昭和39)初来日。レパートリーはきわめて広く、洗練された美音を駆使、優美で柔軟な演奏を聞かせる。
[岩井宏之]
ドイツ観念論とロマン主義の立場に立つ哲学者。シュトゥットガルト郊外のレオンベルクに,すぐれた東洋学者でもあった牧師を父として生まれる。早熟の天才であり,15歳でチュービンゲン大学に入学を許され,5歳年長のヘーゲルおよびヘルダーリンと親交を結ぶ。19歳のときフィヒテの哲学を祖述した論文を発表し,哲学界に登場する。フランス革命への熱狂的な共感を,ヘーゲルやヘルダーリンと共有し,カント,フィヒテ,スピノザを学ぶ。彼の前期哲学はフィヒテの影響を強く受けた〈自我哲学〉である。《哲学一般の形式の可能性》(1794),《哲学原理としての自我あるいは人間知における無制約的なものについて》(1795)では,フィヒテの主観的観念論を中心にしながらも,スピノザの汎神論に拠って自然それ自体をもとらえようとする。〈知的直観〉のうちでとらえられる,主客の対立をこえた〈絶対的な自我〉が強調され,〈絶対者の学〉が追求される。《自然哲学の理念》(1797),《世界霊魂》(1798),《自然哲学体系の最初の企図》(1799)では,自然全体に〈自由(自我)の隠された痕跡〉を置いて,自我と自然の相互浸透を原理として,フィヒテをこえる。同時に,自然を有機的組織としてとらえることによって,スピノザの機械論的自然観をもこえる。自然そのものに,両極的なものの対立と,段階的な総合がみられるという自然観は,ヘーゲルに引き継がれ,ヘーゲルを経てマルクス主義における自然弁証法にも影響を及ぼしている。
彼の著作《世界霊魂》がゲーテの目にとまったことから,1798年イェーナ大学講師となる。当時のイェーナはロマン主義の文学者や哲学者の中心地であった。《超越論的観念論の体系》(1801)は,観念と実在,実践と理論の総合を,人間精神の歩みが芸術に達する地点で果たそうとする。イェーナ期の後半では,《わが哲学体系の叙述》(1801),《ブルーノ》(1802)等で,主客の根源的同一性を原理とする〈同一哲学Identitätsphilosophie〉を打ち出し,ヘーゲルに強い影響を与える。〈自我がすべてである〉というフィヒテ主義に代わって〈すべてが自我である〉と主張される。晩年のシェリングは,ベーメの影響を受けて,神秘主義者のバーダーと知り合い,創造説と汎神論と人間の自由という3者の鼎立(ていりつ)可能性を説いて,神の実存と,神の実存の根底〈神の内なる自然〉とを区別し,神秘的な創造説と歴史哲学を展開,《人間的自由の本質》(1809),《世代論》(1811-14)を著す。彼は,つねに自我と有機的な自然との相互浸透を基盤にして,自由と自然との一致を追求したが,独断論と神秘主義の傾向はおおいがたい。彼の哲学は実存主義の先駆となるとともに,マルクス主義者E.ブロッホにも強い影響を及ぼしている。
→ドイツ観念論
執筆者:加藤 尚武
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1775~1854
ドイツの哲学者。カント,フィヒテに続いてドイツ観念論を展開。精神と自然の無差別を説く同一哲学を主張。後期の哲学はヘーゲル以上にドイツ観念論を完成したものとみられている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…客観を観想する形而上学はここに主観に基づく形而上学へと転換するが,ドイツ観念論の形而上学的諸体系はカントの拒否する知的直観を絶対者に適用し,ヘーゲルの絶対的観念論へと転化する。このヘーゲルの体系を消極哲学すなわち合理主義的本質主義と断じ,意志に対してのみ出現する個別的現実存在を原理とするシェリング晩年の積極哲学は,ショーペンハウアーとニーチェとの意志の形而上学の先駆となるとともに,19世紀後半以降の現実存在ないし実存の哲学への端緒でもある。19世紀後半は実証主義の隆盛による形而上学の衰退と特徴づけられるが,二つの世界大戦は認識論的な反形而上学の立場から,有限な人間の人間本性の展開に基づく人間の形而上学を復活させた。…
…この思想的伝統はヘルメス思想の中に生き続け,ライプニッツの活力説(彼は力=エンテレキアentelechiaを実体とした)を経て,19世紀ドイツの〈自然哲学〉にまで及んだ。すなわちシェリングは〈自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である〉と主張し,ロマン派の思想家はさらに民族精神や世界精神についても語った。 狭義の生気論は,自発的活動力を持つ生物にのみ生気を認める立場で,アリストテレスは植物,動物,人間にそれぞれ特有の魂(プシュケー)があるとして生物の諸機能を説明し,これが長い間生物研究の主流であったが,17世紀になってデカルトは人間にのみ魂(アニマ)を認め,植物も動物も人体も機械と同様の物体にほかならないとした。…
… 現代の哲学者,たとえばサルトルが〈事実存在〉に対して〈本質存在〉を優先させてきた西洋哲学の伝統に逆らい――話を人間の存在に限ってのことではあるが――〈本質存在〉に〈事実存在〉つまり〈実存〉を優先させ,そうすることによって人間の根源的自由を主張する実存主義を提唱したことはすでに知られていよう(《実存主義とは何か》)。 同じような企てはすでに19世紀初頭のシェリングの後期思想にも見られる。シェリングもまたおのれのこの企てを〈実存哲学Existenzialphilosophie〉と呼んでいたが,こうした企ての背後には,西洋哲学の根幹をなす形而上学的思考様式を克服せんとする意図がひそんでいたのである。…
…カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。…
…シェリング歳のとき(1809)の,同一哲学から積極哲学への移行期に書かれた著作。正式の標題は《人間的自由の本質およびそれと関連する諸対象に関する哲学的諸探求》。…
※「シェリング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新