シュトラウス

デジタル大辞泉 「シュトラウス」の意味・読み・例文・類語

シュトラウス(Strauss)

(Johann Baptist ~)[1804~1849]オーストリアの作曲家。ウィーンで楽団を組織、ウィンナワルツの基礎を築く。ワルツの父と称される。作品に「ローレライラインの調べ」「ラデツキー行進曲」など。
(Johann ~)[1825~1899]オーストリアの作曲家。の長男。ウィンナワルツを芸術作品にまで向上させ、約500曲もの作品を残した。ワルツ王と称される。作品に「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」、オペレッタ「ジプシー男爵」「こうもり」など。

シュトラウス(Richard Georg Strauss)

[1864~1949]ドイツの作曲家・指揮者。ドイツ後期ロマン派の代表者。リストワグナーの影響を基礎に、官能的・色彩的な独自の境地を開いた。作品に交響詩「英雄の生涯」「ドン=ファン」、オペラ「ばらの騎士」など。

シュトラウス(David Friedrich Strauss)

[1808~1874]ドイツの哲学者・神学者。ヘーゲル哲学の影響を強く受け、神秘的、超自然的なものを排斥する立場から聖書批判を行い、福音書の内容を神話とする「イエスの生涯」を書いた。

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精選版 日本国語大辞典 「シュトラウス」の意味・読み・例文・類語

シュトラウス

  1. [ 一 ] ( David Friedrich Strauss ダーフィト=フリードリヒ━ ) ドイツの神学者。ヘーゲル左派の指導者。聖書の歴史的・批判的研究を開拓した。主著「イエス伝」は福音書の否定的批判の書。(一八〇八‐七四
  2. [ 二 ] ( Johann Baptist Strauss ヨハン=バプチスト━ ) オーストリアの作曲家、指揮者。「ワルツの父」と呼ばれる。一九世紀前半ウィーンで楽団を組織し、洗練されたウィンナワルツを作曲、演奏して人気を博した。(一八〇四‐四九
  3. [ 三 ] ( Johann Strauss ヨハン━ ) オーストリアの作曲家、指揮者。[ 二 ]の長男。「ワルツ王」と呼ばれる。父の開拓したワルツをさらに多様に洗練化し、四〇〇を超えるワルツ、ポルカなどを作曲した。代表作はワルツ「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「皇帝円舞曲」、オペレッタ「こうもり」など。(一八二五‐九九
  4. [ 四 ] ( Richard Georg Strauss リヒャルト=ゲオルク━ ) ドイツの作曲家、指揮者。ミュンヘンに生まれ、ブラームスやワーグナー、ベルリオーズの影響の下に、標題楽的傾向の大曲を作った。代表作はオペラ「サロメ」「ばらの騎士」、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」「英雄の生涯」など。(一八六四‐一九四九

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百科事典マイペディア 「シュトラウス」の意味・わかりやすい解説

シュトラウス

ドイツの作曲家,指揮者。ホルン奏者を父にミュンヘンに生まれる。少年時代からピアノ,バイオリン,作曲を学び,10代で早くも成熟した作曲技法を示した。ビューローの知遇を得,その推薦で1885年マイニンゲン宮廷楽団の副指揮者,のち宮廷音楽監督となる。本格的な作曲活動に入る一方,ミュンヘン,ワイマール,ベルリンの宮廷楽長を歴任し,1919年−1924年にはウィーン国立歌劇場の指揮者を務めた。ナチス政権下で音楽局総裁(1933年−1935年)のポストに就いたことは,大戦後その音楽の思想性の不足と関連して問題にされた。ドイツ後期ロマン派の掉尾(ちょうび)を飾る作曲家であり,19世紀末に集中して書かれた交響詩群,20世紀に入って創作活動の要となったオペラが2つの峰を形づくる。《ドン・フアン》(1887年−1888年),《ツァラトゥストラはこう語った》(1895年−1896年),《英雄の生涯》(1898年)などの交響詩で駆使された精緻な作曲技巧は,大管弦楽を用いたオペラ《サロメ》(1904年−1905年)に引き継がれ,R.ワーグナーの後継者としての名声を確立。続く《エレクトラ》(1906年−1908年)で無調的(無調音楽参照),表現主義的な世界に踏み込んだのち作風は一転,《ばらの騎士》(1909年−1910年),《ナクソス島のアリアドネ》(1911年−1912年)ではウィーン古典派を思わせる簡素な音楽様式に移行する。《エレクトラ》以来,6つのオペラ台本がホフマンスタールによって書かれている。最晩年の《4つの最後の歌》(1948年)をはじめ,歌曲(リート)にも名品が多い。→楽劇/K.ベームマーラー
→関連項目エルガーオーボエシマノフスキシュワルツコップティル・オイレンシュピーゲルニジンスキーニルソンばらの騎士バルトークバレーズブッシュフンパーディンクメンゲルベルクライトモティーフライナーレーマンロマン主義

シュトラウス

オーストリアの作曲家,指揮者,バイオリン奏者。〈ワルツの父〉J.シュトラウスの子で,〈ワルツの王〉と呼ばれる。父の反対を押してひそかにバイオリンを習い,1844年には楽団を組織してデビュー。父の死後はその楽団を吸収し,欧米各地に演奏旅行を重ねた。その洗練された芸術的感覚と精緻な管弦楽法はブラームスからも称賛され,広く音楽界の尊敬を集めた。作品は500曲を超え,ワルツは《美しく青きドナウ》(1867年),《芸術家の生活》《ウィーンの森の物語》《ウィーン気質》《春の声》《皇帝円舞曲》など約170曲,ほかに《トリッチ・トラッチ・ポルカ》,弟ヨゼフ〔1827-1870〕と共作の《ピチカート・ポルカ》など約120曲のポルカがある。またパリのオッフェンバックに触発され,1870年代からはオペレッタの作曲にも力を注いだ。《こうもり》(1874年),《ジプシー男爵》(1885年)など18曲が残されている。→レハール

シュトラウス

オーストリアの作曲家,指揮者,バイオリン奏者。〈ワルツの父〉と呼ばれる。10代前半からM.パーマー〔1782-1827〕率いるダンス楽団でビオラ奏者を務め,作曲家J.F.K.ランナー〔1801-1843〕とともに1819年独立。翌年自分の楽団を組織し,1833年からはヨーロッパ各地に楽旅し,広く人気を博した。250曲以上の作品のうち約150曲がワルツで,ランナーとともにいわゆるウィンナ・ワルツの様式を確立した。ほかに《アンネン・ポルカ》《ラデツキー行進曲》なども知られる。高名な長男ヨハンをはじめ,次男ヨーゼフ〔1827-1870〕,4男エドゥアルト〔1835-1916〕も作曲家。
→関連項目ポルカレハール

シュトラウス

ドイツのプロテスタント神学者。《イエスの生涯》2巻(1835年―1836年)で,福音書の記事は史実ではなく〈神話〉であると主張,論争を呼んでヘーゲル学派が左派・中央派・右派に分裂するという事態をもたらした。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シュトラウス」の意味・わかりやすい解説

シュトラウス(子)
しゅとらうす
Johann Strauß (Sohn)
(1825―1899)

「ワルツ王」の名で親しまれるオーストリアの作曲家、指揮者、バイオリン奏者。「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスの長男として10月25日ウィーンに生まれる。6歳で36小節のワルツを作曲するほどの楽才を示したが、音楽家の道を歩むことに父は反対であり、銀行家としての勉強を強いられた。しかし、母親の理解によりバイオリンも学び、1842年に父が家庭を捨てて若い女のもとに走ったのを契機に、正式な音楽の勉強を開始した。シュトラウスはアントン・コールマンにバイオリンを、聖シュテファン大聖堂合唱長であったヨーゼフ・ドレクスラーに音楽理論を学んだ。

 1844年9月、18歳のシュトラウスは公開演奏の公認許可証を手に入れ、24人からなる楽団を組織し、ウィーン西部ヒーツィングのカジノ・ドームマイヤーでデビューした。大成功の結果、たちまち父の楽団のライバル的存在に成長するが、49年に父が死ぬと両楽団を統合指揮し、文字どおりウィーンのワルツ界を支配するようになった。48年の三月革命の際に共和派のために行進曲を作曲したため宮廷入りは遅れたが、新皇帝フランツ・ヨーゼフの即位の結果として63年には宮廷舞踏会音楽監督の地位を得、ウィーンの舞踏会シーズンの中心的存在となった。父と同様、演奏旅行も盛んに行い、56年から86年にかけてロシアを含むほとんどのヨーロッパ諸国で演奏し、「ワルツ王」としての地位を不動のものとした。72年にはアメリカに渡り、プロイセン・フランス戦争終結を祝うボストンでの演奏会では、ワルツ『美しく青きドナウ』と『酒、女、歌』を、1万人からなるオーケストラと2万人の合唱を用いて演奏したが、超大編成のため100人の副指揮者を必要とした、と伝えられている。

 1858年にオッフェンバックのオペラ・ブッファがウィーンに紹介され、さらにそれに刺激されたスッペのウィーン風オペレッタが大成功を博したため、アン・デア・ウィーン劇場は彼にもオペレッタの作曲を依頼し、『こうもり』(1874初演)、『ジプシー男爵』(1885初演)に代表される16曲のオペレッタが生まれた。このウィンナ・オペレッタの伝統は、さらに、ホイベルガー、ツェラーらを経てレハールへと受け継がれた。

 シュトラウスは生涯に3回結婚した。最初の妻はイェッティと愛称された歌手のヘンリエッテ・トレフツ、その死後再婚したのが若い女優アンゲリカ・ディットリヒであった。この二度目の結婚は性格の相違などから不幸なものとなり、9年後に離婚し、アデーレ・シュトラウス(銀行家アントン・シュトラウスの若い未亡人)と結婚し、幸福な晩年を過ごすことができた。しかし、アンゲリカと離婚するためシュトラウスはプロテスタントになり、オーストリア国籍を捨て、ザクセン・コーブルク・ゴータ伯国の国籍をとることを余儀なくされ、終生この国籍にとどまったまま、1899年6月3日ウィーンで世を去った。「ワルツ王」シュトラウスの音楽は19世紀後半のオーストリア、ハプスブルク王朝の首都ウィーンの栄華を象徴している。『美しく青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』『皇帝円舞曲』に代表されるワルツが約170曲、『トリッチ・トラッチ・ポルカ』などのポルカが約120曲、さらにマーチ、ガロップ、カドリーユも多い。序奏とコーダに挟まれた5曲のワルツという定型は、父やランナーから踏襲したが、各舞曲の規模はより大きく、有機性、構想の豊かさ、旋律の美しさなど、あらゆる点で先駆者をしのいでいる。

[樋口隆一]

『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』



シュトラウス(Botho Strauß)
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Botho Strauß
(1944― )

ドイツの劇作家、小説家。ニュルンベルクに生まれる。ベルリンの「シャウビューネ」で1970年前半に文芸部員を務めた。体制と化した市民の認識を打ち破るために、観客にショックを与えることを意図する。いわば物語の線を随所で断ち切って、点と点の非連続的な断片にするところに彼の作風の特色がある。劇作品として『気で病む者たち』(1972)、『再会の三部作』(1978)、『大と小』(1980)、『訪問者』(1988)などがある。小説の代表作は『マルレーネの姉妹』(1975)、『騒ぎ』(1980)、『始まりの喪失』(1992)ほか。1980年代には対話形式の小品を数々書いて、ドイツ中流階級のメランコリーにみちた精神状況をミスティック(神秘的)に描き続けた。1989年ビュヒナー賞を受賞。

[宮下啓三]

『青木隆嘉訳『始まりの喪失 点と線に関する省察』(1996・法政大学出版局)』『ボート・シュトラウス著、日中鎮朗訳『住むまどろむ 嘘をつく』(1998・法政大学出版局)』『谷口廣治監訳『照らし出された戦後ドイツ――ゲオルグ・ビューヒナー賞記念講演集(1951―1999)』(2000・人文書院)』


シュトラウス(Franz Josef Strauß)
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Franz Josef Strauß
(1915―1988)

ドイツの政治家。ミュンヘン生まれ。ミュンヘン大学を卒業して第二次世界大戦に従軍。戦後キリスト教社会同盟(CSU)の創設に参加して1949年同党書記長、1952年同党副党首、1961年同党党首に就任。1949年連邦議会議員に選ばれ、1953~1955年無任所相、1955~1956年原子力相、1956~1962年国防相。1962年NATO(ナトー)軍に関する国家機密漏洩(ろうえい)のかどで雑誌『シュピーゲル』の記者を逮捕させて権力乱用したとして世論の反撃を受け(いわゆる「シュピーゲル事件」)、このため同年国防相を辞任した。

 その後もキージンガー内閣で蔵相(1966~1969)を務め、1980年の総選挙ではキリスト教民主同盟(CDU)とCSUの統一首相候補として戦ったが、社会民主党(SPD)のH・シュミットに敗れた。

[深谷満雄]


シュトラウス(David Friedrich Strauß)
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David Friedrich Strauß
(1808―1874)

ドイツのヘーゲル左派神学者。1月27日ドイツ南部のルートウィヒスブルクに生まれる。チュービンゲン神学寮の補習講師のとき『イエスの生涯』Das Leben Jesu 2巻(1835、1836)を書いて、その革命的神学批判が賛否両論を巻き起こし、一躍有名になるとともに、教職と宗教界から一生涯追放されるはめになった。この書物で、現存の福音書(ふくいんしょ)はおもに神話よりなり、そこから史的イエスは認識できないが、信仰の真理は聖書の歴史に基づかず、神人の理念に基づくので、聖書批判はキリスト教の真理を廃棄しない、と主張した。あらゆる復職の希望が絶たれたのち、キリスト教はすっかり清算したが、宗教そのものを否定するまでに至らず、ニーチェからも「教養あるペリシテ人」と嘲笑(ちょうしょう)された。

[森田雄三郎 2015年2月17日]


シュトラウス(父)
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Johann Strauß (Vater)
(1804―1849)

オーストリアの作曲家、指揮者、バイオリン奏者。ウィンナ・ワルツを確立したため「ワルツの父」とよばれる。ウィーンの旅館の息子として生まれる。ポリシャンスキーのもとでバイオリンを学んでパーマーの楽団に入り、そこでヨーゼフ・ランナー(バイオリン奏者、作曲家)と知り合う。そしてランナーの楽団を経て、1825年に自分の楽団を設立し、ウィーンで人気を高めた。33年に行ったヨーロッパ演奏旅行は彼の名声を不動のものとしたが、その際カドリーユ舞曲をパリからウィーンに導入し、さらに喝采(かっさい)を受けた。ウィーンの宮廷舞踏会音楽監督の称号を得、同地の大衆音楽を支配したが、49年9月25日、しょうこう熱が原因で世を去った。『ラデツキー行進曲』をはじめ、多数のワルツ、マーチなどを残している。長男が「ワルツ王」ヨハン、二男がヨーゼフ、三男がエドゥアルト(1835―1916)で、いずれも舞踏曲に多くの作品を残している。

[樋口隆一]


シュトラウス(Emil Strauß)
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Emil Strauß
(1866―1960)

ドイツの小説家。フライブルク、ベルリンの大学で哲学、歴史、経済学を学ぶ。1892年ブラジルに移住、農業経営と教育に従事。病を得て帰国後、フライブルク、バーデンバイラーにて文筆活動に入る。硬質な言語による簡潔にして明晰(めいせき)な表現と音楽性を秘めた文体、対位法的な構成と作品を包むユーモアゆえに、ヘッセは「ドイツ語の古典主義的作家」と評した。郷土シュワーベンに取材し、海外体験を織り込んだ『エンゲル亭の主人』(1901)、音楽的才能に恵まれた少年の悲劇を描いた『友ハイン』『生命の十字路』『ベール』『生の舞踏』を経て『三和音』(1945)に至るまで、その基本主題は「内面と外部より押し寄せる破壊的な力に耐えて、自らに忠実であれという要請」であった。世紀転換期のどの文学的潮流にも属さなかったが、純化された人間性を追究したという意味で19世紀散文の系譜を引く。

[谷口 泰]


シュトラウス(Josef Strauß)
しゅとらうす
Josef Strauß
(1827―1870)

オーストリアの作曲家、指揮者。「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスの二男で、「ワルツ王」の弟。幼少から病弱で、軍人を望んだ父の意志に反して建築・工学を学び、街路清掃機などの発明もあるが、1855年、作曲家・指揮者としてデビューした。兄ヨハンを助け、また62年以降は弟のエドゥアルトを加えた3人でシュトラウス楽団を指揮し、内外で活躍したが、70年、ワルシャワ演奏旅行中に倒れ、ウィーンに運ばれたのも空しく、そのまま他界した。『オーストリアの村つばめ』『天体の音楽』などのワルツ、『ピッチカート・ポルカ』(兄との共作)などのポルカを多数作曲した。その性格に似て、作風は繊細でロマンチックといわれている。

[樋口隆一]


シュトラウス(Oscar Straus)
しゅとらうす
Oscar Straus
(1870―1954)

オーストリアの作曲家。生地ウィーンで学んだのち、ベルリンでM・ブルッフに師事。ベルリンで劇場指揮者として活躍するかたわら文学寄席(よせ)の音楽を書き始め、ヒット曲『音楽がやって来る』で人気を得た。レハールのライバルとして「オペレッタのシュニッツラー」といわれ、ウィーンの世紀末を典雅なメロディーで活写。代表作に『ワルツの夢』(1907)、『チョコレートの兵隊』(原作はG・B・ショーの『人と超人』。1908)、『愛のロンド』(1914、以上ウィーン初演)がある。第二次世界大戦中はアメリカに移住、ハリウッドで映画音楽も手がけたが、1948年ヨーロッパに戻り、バード・イシェルで没した。

[寺崎裕則]

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改訂新版 世界大百科事典 「シュトラウス」の意味・わかりやすい解説

シュトラウス
Richard Georg Strauss
生没年:1864-1949

ドイツの作曲家,指揮者。ミュンヘンの宮廷オーケストラのホルン奏者を父とする。1880年代に本格的な創作活動に入る。初期は交響曲,協奏曲,ソナタなど,伝統的なジャンルで作品を書く。85年10月,マイニンゲンでH.vonビューローのもとで副指揮者となって,この時から作曲家と指揮者という二重生活が始まった。同年12月から翌年4月までマイニンゲン宮廷音楽監督,86年秋より3年間ミュンヘン宮廷歌劇場第3指揮者となる。この頃から《ドン・フアン》(1888)や《死と変容》(1889)といった交響詩を書きだし,ドイツ後期ロマン派の最後の代表者として,また華やかなオーケストレーションの技法を駆使した独特の作風を確立。89年秋から94年6月までワイマール宮廷劇場で第2指揮者を務める。94年10月,再びミュンヘン宮廷歌劇場で,第2指揮者に就任。96年第1指揮者に昇格。この頃より,指揮者として,同世代のマーラーおよびワインガルトナーと楽壇の帝王を競うようになる。またこの時期には,作曲家としても目ざましい活躍をして,《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》(1895),《ツァラトゥストラはこう語った》(1896),《ドン・キホーテ》(1897),《英雄の生涯》(1898)といった彼の創作を代表する交響詩の傑作群が書かれた。98年からベルリン宮廷歌劇場の第1指揮者に就任して,20年間その地位にありながら,ヨーロッパ各地,アメリカに演奏旅行。また芸術院会員,ベルリン音楽大学作曲科主任教授ともなる。作曲家としては,20世紀に入ってから交響詩をやめて本格的にオペラを手がけるようになり,《サロメ》(1905),《エレクトラ》(1908),《ばらの騎士》(1910),《ナクソス島のアリアドネ》(1912),《影のない女》(1917)などを次々に発表,オペラ作曲家としての地位を不動のものとした。また《家庭交響曲》(1903)と《アルプス交響曲》(1915)とによって管弦楽曲に新境地を開いた。1919-24年にウィーン国立歌劇場総監督を務める。33年ナチスの音楽局総裁となったが,35年辞任し,アルプスの山荘に隠遁生活を送る。第2次大戦後,戦犯として裁判にかけられたが無罪となった。《エレクトラ》までに見せた大オーケストラを駆使する官能的な作風は,《ばらの騎士》以後消え,代わって簡素な新古典主義的な様相が現れてくる。そしてついに晩年には再び協奏曲などを作曲するなど,彼の様式は大きな転換を示した。
執筆者:


シュトラウス
Johann Strauss

オーストリアの音楽家。19世紀にウィーンで,ウィンナ・ワルツを中心とした通俗的な音楽の作曲・演奏に活躍した父子で,同姓同名のために父を〈ワルツの父〉,子を〈ワルツの王〉と呼び分けることもある。

(1)父(1804-49) 初めパーマーに率いられる大衆的なダンス楽団でビオラを弾いていたが,1824年,バイオリン奏者のランナーJoseph Franz Karl Lanner(1801-43)とともに独立。翌年自分の楽団を組織,作曲も手がけるようになる。29年にウィーンのレオポルトシュタットにある,外国からの訪問客も多いビヤガーデン兼ダンスホール〈シュペールSperl〉の専属となって,人気を集める。33年以後楽団をひきつれて,ヨーロッパ各地を訪問し,ウィンナ・ワルツを広める。150曲を超えるワルツ,14曲のポルカ,16曲の行進曲,28曲のギャロップ,34曲のカドリーユ,などの作品を残した。《アンネン・ポルカ》《ラデツキー行進曲》などがよく知られている。

(2)子(1825-99) 父の反対を押してひそかに音楽の勉強を始め,1842年に父が家庭を棄ててから,本格的に取り組む。44年に独自の楽団を組織してデビュー。父の死後,その楽団を吸収して,ワルツ界の帝王となる。その後ヨーロッパ各地,ロシア,アメリカに演奏旅行を重ねた。60年代から作曲に力を入れ,《美しく青きドナウ》《芸術家の生涯》(ともに1867),《ウィーンの森の物語》(1868),《酒・女・歌》(1869)などをはじめとする数々の傑作を書きだした。このようなワルツ創作は晩年の三名作といわれる《春の声》(1883),《皇帝円舞曲》(1890),《もろ人よ,手をとり合え》(1892)に至るまで続き,約170曲を数える。またポルカも,弟ヨーゼフJosef(1827-70)との合作《ピチカート・ポルカ》(1869)をはじめとして,生涯を通じて創作し,その総数は約120曲にのぼる。一方,70年代に入って,当時パリで流行していたオペレッタにも手を広げ,《こうもり》(1874)や《ジプシー男爵》(1885)に代表される18曲を書き残している。
執筆者:


シュトラウス
David Friedrich Strauss
生没年:1808-74

ドイツの聖書学者・神学者。チュービンゲンで神学を学び,同郷の先輩ヘーゲルに師事すべくベルリン大学におもむいたが,ヘーゲルが急死したため,経歴上はヘーゲルの直弟子ではない。シュトラウスはその著《イエスの生涯》2巻(1835-36)において聖書の批判的研究を試み,福音書に記されているイエス・キリストの事績は歴史的事実ではなく,原始キリスト教団が〈無意識的〉に生み出した〈神話〉である旨を指摘しつつ,ヘーゲルの宗教哲学を継承する方向で独特のキリスト教論を展開した。彼は歴史的事実と信仰的真理とを区別し,その所説は信仰的真理をなんらそこなうものではないと主張したが,正統派の神学者たちからはもとより,ヘーゲル学派からも激烈な批判を浴びることになった。シュトラウスの問題提起を機縁にした内部論争ひいては対外論争を通じて,ヘーゲル学派はいわゆる左派・中央派・右派に分裂するに至る。ちなみに,左派・右派というのも元来はシュトラウス本人の命名である。シュトラウスの敷いた路線は,やがて,当初は右派であったB.バウアー,さらには,L.A.フォイエルバハによって展開され,キリスト教そのものの批判にまで及ぶ。この論脈において,彼はヘーゲル左派一番手としての位置を占める。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シュトラウス」の意味・わかりやすい解説

シュトラウス
Strauss, Leo

[生]1899.9.20. ドイツ,キルヒハイン
[没]1973.10.18. アメリカ合衆国,メリーランド,アナポリス
ドイツ生まれのアメリカ合衆国の政治哲学者,古典政治理論研究者。1921年にハンブルク大学で博士号を取得,1925~32年にベルリンのユダヤ主義研究所で研究助手を務めた。その後ロックフェラー財団の特別研究員としてイギリスとフランスで研究に従事。1938年にアメリカへ移住,1944年に帰化した。政治学教授として 1938~49年ニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ(のちのニュースクール大学),1949~68年シカゴ大学,1968~69年クレアモント・メンズ・カレッジ,1969~73年セントジョンズ大学に籍を置いた。トマス・ホッブズ,ニッコロ・マキアベリ,ベネディクトゥス・デ・スピノザソクラテスなど哲学者や政治思想家の研究に従事し,その著作も多い。シュトラウスの研究は文言の顕在的意味と潜在的意味を区別したことで知られる。また,アメリカの学術研究の歴史において顕著な役割を果たした。数量政治学行動論政治学がもてはやされた時代に古典的な政治哲学者・思想家に関する研究を大学機関の課程に復活させ,維持した功績で評価されている。政治理論にも重要かつ永続的な遺産をもたらしたことによりシュトラウス学派と呼ばれる研究者たちが生まれた。その一方でいわゆる新保守主義派,特にアメリカのブッシュ政権の外交政策に大きな影響を与えたとして問題視されることもある。主著に,『僭主政治について』On Tyranny(1948,改訂1991),慧眼の名著とされる『自然権と歴史』Natural Right and History(1950),"Persecution and the Art of Writing"(1952),『政治学とは何か』What Is Political Philosophy?(1959)など。(→政治哲学

シュトラウス
Strauss, David Friedrich

[生]1808.1.27. ルートウィヒスブルク
[没]1874.2.8. ルートウィヒスブルク
ドイツの神学者,哲学者,伝記作家。 1825年テュービンゲン大学で神学,哲学を学び,31年ベルリン大学で,F.シュライエルマッハー,G.ヘーゲルの弟子たちの影響を受けた。 32年テュービンゲンに戻り,母校の教壇に立ち,35~36年『イエス伝』 Das Leben Jesu (2巻) を著わした。この書のなかで彼はイエスの生涯が神話による形成にほかならないと批判したために,母校を追われたが,この福音書批判は大きな論議を呼起し,40年までに4版を重ね,またこれがもとでヘーゲル学派は左,中央,右の3派に分裂し,彼自身は左派の中心人物とみなされた。 40~41年『キリスト信仰論』 Die christliche Glaubenslehre (2巻) を著わしたが,以後,二十余年は,神学から離れ,主として詩人,文学者の伝記の著述に費やした。しかし 64年に神学に復帰し,『信仰のキリストと歴史のイエス』 Der Christus des Glaubens und der Jesus der Geschichte (1865) は,シュライエルマッハーのイエス伝の講義に対する批判として著わされた。晩年は,汎神論の立場に立った。主著『ドイツ民族のためのイエス伝』 Leben Jesu für das deutsche Volk (64) ,『新・旧の信仰』 Der alte und der neue Glaube (72) 。

シュトラウス
Strauss, Richard Georg

[生]1864.6.11. ミュンヘン
[没]1949.9.8. ガルミッシュパルテンキルヘン
ドイツの作曲家,指揮者。後期ドイツ・ロマン派の最後の巨匠。 1924年まで各地の宮廷管弦楽団や歌劇場の指揮者をつとめ,以後は世界各国で客演指揮者として活躍。一方作曲家としてオペラ,交響詩,歌曲を数多く作曲。常に重要な地位にあり,数多くの名誉ある称号や栄位を受けた。 R.ワーグナーや F.リストの影響を強く受けながら,楽劇『エレクトラ』『サロメ』『ばらの騎士』および交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』『ツァラトゥストラはかく語りき』『英雄の生涯』などで,20世紀前半にあってロマン派の余光を放った。歌曲は約 150曲。

シュトラウス
Strauss, Franz Josef

[生]1915.9.6. ミュンヘン
[没]1988.10.3. バイエルン
西ドイツの政治家。 1939年ミュンヘン大学卒業。カトリック青年運動に属してナチスと衝突。第2次世界大戦後キリスト教社会同盟 CSUの設立に尽力し,49年連邦議会議員に当選。 53年無任所相,55年初代原子力相,国防会議副議長となり,また原子力委員会顧問をつとめた。 56年には国防相となり,少数精鋭部隊主義を原則とし,最新兵器を装備した軍隊の再編計画を推進した。 61年 CSU党首。 62年シュピーゲル事件で国防相を辞任。 66年 K.キージンガー内閣の蔵相となり,親仏路線を進め,69年蔵相を辞任した。 84年連邦参議院議長。

シュトラウス
Strauss, Emil

[生]1866.1.31. プフォルツハイム
[没]1960.8.10. フライブルク
ドイツの作家。音楽家の家系に生れる。大学で哲学などを学んだのち農業に従事,1892年ブラジルに渡り 10年間農業と教育の仕事につく。帰国して農場経営のかたわら小説を書いた。 19世紀のリアリズムに強く結びついた伝統的な作風を示す。郷土と農耕生活に深く根ざし,過誤や試練のなかで理想主義的に努力する人間像を描いている。小説『友ハイン』 Freund Hein (1902) ,『十字路』 Die Kreuzungen (04) ,『巨人の玩具』 Das Riesenspielzeug (34) ,短編集『ベール』 Der Schleier (31) 。

シュトラウス(子)
シュトラウス[こ]
Strauss, Johann

[生]1825.10.25. ウィーン
[没]1899.6.3. ウィーン
オーストリアの作曲家,指揮者,バイオリニスト。同名の父ヨハンの長男。父が「ワルツの父」と呼ばれたのに対して,彼は「ワルツの王」と称され,演奏会用の大規模な舞曲の様式を確立し,父より一層洗練された,壮麗な作品を書いた。またオペレッタ『こうもり』や『ジプシー男爵』により,ウィーンの軽演劇に新生面を開いた。 1863年から 70年まで,王室舞踏会の指揮者。主要作品には『ウィーンの森の物語』『美しく青きドナウ』『芸術家の生涯』『酒と女と歌』『春の声』『皇帝ワルツ』『トリッチ・トラッチ・ポルカ』などがある。

シュトラウス
Strauss, Botho

[生]1944.12.2. ニュルンベルク
ドイツの劇作家,批評家。 1967~70年演劇雑誌『テアーター・ホイテ』 Theater Heuteの編集にあたる。その後,P.シュタインのもと,ベルリンのシャウビューネ劇場でドラマターグをつとめ,イプセンの『ペール・ギュント』 (1971) などを脚色,上演。さらに,芸術と現実の関係を問う『認知のための3幕』 (77) で劇作家としても国際的な名声を博した。

シュトラウス(父)
シュトラウス[ちち]
Strauss, Johann

[生]1804.3.14. ウィーン
[没]1849.9.25. ウィーン
オーストリアの作曲家,指揮者,バイオリニスト。「ワルツの父」と呼ばれ,ウィンナ・ワルツを洗練されたものとし,全ヨーロッパに広めた。 1830年頃からウィーンの町の人気者になり,1835年に王室舞踏会の指揮者に任じられた。作品は 150のワルツ,『ラデツキー行進曲』など。

シュトラウス
Strauss, Josef

[生]1827.8.22. ウィーン
[没]1870.7.21. ウィーン
オーストリアの作曲家,指揮者。 J.シュトラウス (子) の次弟。『オーストリアの村燕』ほか 283曲のワルツ,ポルカなどを作曲した。

シュトラウス
Strauss, Eduard

[生]1835.3.15. ウィーン
[没]1916.12.28. ウィーン
オーストリアの作曲家,指揮者。ヨハン・シュトラウス (父) の4男。兄ヨーゼフの死後活躍した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シュトラウス」の解説

シュトラウス(父・子)(シュトラウス(ちち・こ))
Johann Strauss

(父)1804~49オーストリアの作曲家。「ワルツの父」と呼ばれる。(子)1825~99前者の子。作曲家。「ワルツの王」と呼ばれ,多くのワルツ,ポルカ,喜歌劇を作曲,「美しき青きドナウ」「こうもり」など500曲以上も残した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「シュトラウス」の解説

シュトラウス(ヨハン)
Johann Strauss(父)1804〜49
(子)1825〜99

ともにオーストリアの作曲家
父は「ワルツの父」,子は「ワルツ王」と称される。作品は,父には「ラデツキー行進曲」ほか,子には「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」などがある。

シュトラウス(リヒャルト)
Richard Strauss

1864〜1949
ドイツの作曲家・指揮者
交響詩「英雄の生涯」,楽劇「サロメ」など,神秘性・色彩性・構成の雄大さに特徴がある。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「シュトラウス」の解説

シュトラウス

生年月日:1915年9月6日
ドイツ連邦共和国の政治家
1988年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

20世紀西洋人名事典 「シュトラウス」の解説

シュトラウス


ストラウスをも見よ。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のシュトラウスの言及

【イエス伝】より

…合理主義のイエス伝研究(H.E.G.パウルスやシュライエルマハーなど)は,イエスの奇跡と復活を超自然的事件として説明する立場に対抗して,可能な限り合理的に自然的現象へ還元する説明を企図した(例えば,イエスの復活は仮死状態からの蘇生とされる)。奇跡説明をめぐる論争に終止符を打ったのがD.F.シュトラウスの《イエス伝》(1835‐36)である。シュトラウスはヘーゲル哲学から出発して福音書批判へと向かい,合理的説明に服し切らない記事を,旧約聖書と後期ユダヤ教のメシア的終末理念が原始キリスト教団により二次的にイエスの上に適用されて形成された〈伝説=神話〉であるとして説明した。…

【聖書学】より

…ゼムラーJohann Salomo Semler(1725‐91)は,正典結集の歴史を研究して,聖書は霊感によって一度に書かれたものではないことを明らかにした。D.F.シュトラウスは福音書の超自然的奇跡の史実性を否定し,バウルFerdinand Christian Baur(1792‐1860)は初代教会における律法主義と福音主義の対立を描き,〈パウロ書簡〉のうちどれが実際パウロによって書かれたかを論じた。ホルツマンHeinrich Julius Holtzmann(1832‐1910)は〈二史料説〉(マタイとルカはマルコとイエス語録Qを利用した)を完成した。…

【ヘーゲル学派】より

…1831年ヘーゲルの死をきっかけとして,ヘーゲル哲学がかろうじてつなぎとめていたそれぞれの対立項は,ヘーゲル哲学への内在的批判という形で解体していった。ヘーゲル学派はD.F.シュトラウスの《イエス伝》(1835‐36)の公刊を機に分裂した。《イエス伝》は,歴史的世界に生きる人間としてのイエス像と,聖書の記載とが一致しないことを雄弁に説いて,同時代人に衝撃を与えた。…

【モダニズム】より

… ドイツのプロテスタントでは,シュライエルマハーからK.バルト以前までの神学を広く近代主義神学と呼ぶが,ここでは自由主義神学のほうが一般的名称である。ただし狭い意味での自由主義はD.F.シュトラウス,ビーダーマンA.E.Biedermann(1819‐85)のように教義を解消していくもの,および19世紀の終りに登場する宗教史学派(聖書学者に多いが体系的にはE.トレルチが代表する)にみられる。シュライエルマハーは敬虔主義に連なって,教義中心の正統主義を批判し,キリスト教を宗教論と信仰論としてとらえ直すことに努めた。…

【ワルツ】より

…数曲連鎖したワルツに序奏と後奏のついた形式,変化に富んだ全曲の統一性,低音の1打に二つの和音が続く伴奏型(いわゆる〈ズン・チャッ・チャ〉),かなり急速なテンポなどである。こうした形態はランナーとヨハン・シュトラウス(父)によって磨きあげられ,〈ワルツ王〉と呼ばれた息子のヨハン・シュトラウスは,舞踏用ワルツを鑑賞用の芸術音楽に劣らぬ水準にまで高めた。こうした〈ウィンナ・ワルツ〉のほかにもさまざまな変種があり,フランスのバルスvalse,アメリカのボストン・ワルツが代表的である。…

【サロメ】より

…日本では1913年松井須磨子主演で,島村抱月の芸術座が帝国劇場で上演した。
[音楽]
 ワイルドの《サロメ》のH.ラハマンによるドイツ語訳を基に,R.G.シュトラウスはオペラ《サロメ》を作曲,マスネーは繊細で優美な曲《エロディアード》(1881)を書き,F.シュミットはR.デュミュエールの詩を基にバレエ曲《サロメの悲劇》(1907)を作曲している。【井村 君江】。…

【サロメ】より

R.G.シュトラウスの第3作目の1幕のオペラ。O.ワイルドの同名の戯曲(ドイツ語訳,H.ラハマン)に基づく作品で,1905年,ドレスデンのオペラ座で初演され,その初演は,官能的で頽廃的な筋書と絢爛豪華なシュトラウスの音楽によってセンセーションをまきおこした(日本初演1962)。…

【ばらの騎士】より

R.シュトラウスの代表的なオペラ作品で,1910年,ホフマンスタールの台本をもとに完成された。11年1月26日のドレスデン宮廷歌劇場での初演は,台本の内容が不道徳だということで賛否両論のセンセーションを引き起こした。…

※「シュトラウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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