シュミット
[一] (Adolf Schmidt
アドルフ━)
ドイツの地球物理学者。ポツダム
観測所長兼ベルリン大学
教授。磁気嵐などの研究にあたり、シュミット式磁力計の考案で知られる。一九〇三年「地磁気年鑑」を創刊。(
一八六〇‐一九四四)
[二] (Isak Jakovljevičh Šmidt イサーク=ヤコブレビチ━) ロシアの東洋語学者。
蒙古語、
蒙古史に通じ、ロシア東洋学および蒙古学の創始者として知られる。
著書に、蒙古語、
チベット語の
文典、辞典がある。(
一七七九‐一八四七)
[三] (Ernst Schmidt
エルンスト━) ドイツの薬学者。ハレ大学教授、マールブルク薬学化学研究所長を
歴任した。
主著「薬化学便覧」。(
一八四五‐一九二一)
[四] (Florent Schmitt フローラン━)
フランスの
作曲家。フランス的な華麗さにドイツ的重厚さを加味した
作風で、独特の
ロマンチシズムを表現。
合唱曲「詩篇第四七番」、バレエ曲「
サロメの
悲劇」など。(
一八七〇‐一九五八)
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デジタル大辞泉
「シュミット」の意味・読み・例文・類語
シュミット(Carl Schmitt)
[1888~1985]ドイツの政治学者・公法学者。全体主義的国家論を提唱し、ナチスに理論的基礎を与えた。政治的なものの本質が友と敵との対立にあるとする、友敵理論でも知られる。著「政治的なものの概念」「政治神学」など。
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シュミット
Schmitt, Carl
[生]1888.7.11. プレッテンベルク
[没]1985.4.7. プレッテンベルク
ドイツの公法学者,政治学者。敬虔なカトリック信徒である両親のもとに生まれ,ベルリン大学,ミュンヘン大学,シュトラスブルク大学で法律を学び,1915年博士号取得。ボン大学,ケルン大学などで教え,1933年政権掌握まもないナチスに入党したが,その後日和見主義(オポチュニズム)的な主張が党内で批判された。1933~45年ベルリン大学教授。第2次世界大戦後,ナチスに協力したとして一時投獄されたが,1950年釈放され学界に復帰。初期にはカトリック的規範主義の立場をとっていたが,やがて決断主義へ移行した。民族の政治的実存を起点に近代的自由主義国家思想を否定し,社会に対する国家,経済・文化に対する政治の優位を主張した。また,政治の本質は敵と味方を区別することにあり,国家が敵を決定し,憲法は民族が自己の政治的統一体の種類とかたちについてくだすものであるとした。このほか,決断主義の欠陥を克服するために,国家,党,国民の 3要素を結合した三重国家を提唱し,「具体的秩序の理論」を展開した。決断主義から「具体的秩序」にいたる複雑な理論は『パルチザンの理論──政治的なものの概念についての中間所見』Theorie des Partisanen(1963)に集約されている。著書はほかに『政治的ロマン主義』Politische Romantik(1919),『政治神学』Politische Theologie(1922),『現代議会主義の精神史的地位』Die geistgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus(1923),『政治的なものの概念』Der Begriff des Politischen(1927),『合法性と正当性』Legalität und Legitimität(1932。→合法性),『大地のノモス』Der Nomos der Erde(1950)などがある。
シュミット
Schmidt, Helmut
[生]1918.12.23. ハンブルク
[没]2015.11.10. ハンブルク
ドイツ分裂後のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の政治家。首相(在任 1974~82)。有力週刊紙『ディー・ツァイト』の発行人も務めた。第2次世界大戦中は兵役に服し,復員後ハンブルク大学で経済学を学んだ。1946年ドイツ社会民主党に入党,1949~53年ハンブルク市庁経済・運輸局勤務。1953~61年連邦議会議員を務め,1965年に再び同議員に選出された。1968年同党副委員長,1969年キリスト教民主同盟 CDUとの大連合の成立に指導力を発揮した。1969~72年ウィリー・ブラント内閣の国防大臣,1972~74年財務大臣を歴任。1974年5月ブラント首相がギヨーム事件で引責辞任したあと首相に就任する。ブラント前首相の理想主義的な姿勢に対し堅実な実務家として早くから党内外に人望があり,首相として西ドイツ,フランスの提携を軸にアメリカ合衆国,ソビエト連邦の両大国との均衡外交を展開,またドイツ民主共和国(東ドイツ)との関係を深めるなど,西ヨーロッパの卓越したリーダーの一人だった。1976,1980年に再任。1982年,連立相手の自由民主党が離脱して CDUと組んだ結果,CDU党首のヘルムート・コールを後継首班とする建設的不信任案が議会を通過,退陣した。1987年政界を引退した。
シュミット
Schmidt, Karl Ludwig
[生]1891.2.5. フランクフルト
[没]1956.1.10. バーゼル
ドイツのプロテスタント新約聖書学者。ベルリン大学講師 (1918) ,ギーセン (21~25) ,イェナ (25) ,ボン (29~33) 各大学教授。スイスで牧師 (33~35) ののちバーゼル大学新約聖書学教授 (35) を歴任。引退後同名誉教授 (53) 。 M.ディベリウス,ブルトマンと並び様式史的研究を主唱。"Theologische Blätter" (22~37) および"Theologische Zeitschrift" (45~52) を編集。著書"Der Rahmen der Geschichte Jesu" (19) ,"Die Stellung des Evangeliums in der allgemeinen Literaturgeschichte" (23) ,"Die Polis in Kirche und Welt" (40) ,"Die Judenfrage im Licht des Kap. 9~11 des Römer" (43) ,"Kanonische und apokryphische Evangelium und Apostelgeschichten" (44) ,"Die Verkündigung der Kirche an die Welt" (44)。
シュミット
Schmidt, Brian P.
[生]1967.2.24. モンタナ,ミズーラ
アメリカ合衆国生まれの天文学者。1989年アリゾナ大学を卒業,1993年ハーバード大学で天文学の博士号を取得。オーストラリア国立大学研究員などを経て 2010年から同大学特別教授。アメリカとオーストラリアの両国籍をもつ。オーストラリアのストロムロ山天文台に在籍していた 1994年に,高赤方偏移超新星探査チーム HZTを立ち上げ(→赤方偏移),超遠方の超新星の探査を開始した。Ia型超新星の観測から宇宙膨張率を求め,1998年,観測した超新星 16個の明るさは予想より暗く,宇宙の膨張は加速していると発表した。同 1998年に,ローレンス・バークリー研究所の超新星宇宙論プロジェクト SCPも同様な結果を公表した。2011年,多数の超新星を観測して宇宙の膨張が加速していることを発見した功績により,データのコンピュータ解析に携わったアダム・G.リース,SCPのソウル・パールムッターとともにノーベル物理学賞を受賞した。(→一般相対性理論,宇宙論)
シュミット
Schmidt, Fritz
[生]1882.3.13. ザクセン,ワーレンブリュック
[没]1950.2.1. ヘッセン,オーベルウルゼル
ドイツの経営経済学者。 E.シュマーレンバハ,H.ニックリッシュなどとともに第2次世界大戦前のドイツ経営経済学を代表する。高校卒業後実務についたが,のちにライプチヒ商科大学に学んだ。 1914年フランクフルト大学教授。彼の学説の特徴は,会計目的観と評価論にある。会計目的については,一つの会計組織によって損益計算と財産計算とをあわせて行う立場を取り,評価については,徹底的に時価主義をとり,実体資本維持の立場を展開した。主著『シュミット有機観対照表学説』 Die organische Tageswertbilanz (第3版,1929) のほか,論文が多数あるが,"Zeitschrift für Betriebswirtschaft" ("Der Betrieb im Kreislauf der Wirtschaft"〈20巻,50〉) が著名。
シュミット
Schmidt, Wilhelm
[生]1868.2.16. ホールダ
[没]1954.2.10. フライブルク
ドイツの民族学者,カトリックの聖職者,人類学者。ウィーン大学,フライブルク大学各教授。歴史科学としての民族学の意義を強調し,文化圏と文化層の仮説のもとで世界の民族の文化を歴史的に体系化しようと試みた。また言語学上卓越した貢献をなし,モン=クメール語の研究においてすぐれた足跡を残した。 1906年には雑誌"Anthropos"を創刊し,文化史的民族学の興隆に貢献した。主著"Der Ursprung der Gottesidee" (1912~55) ,W.コッパースとの共著『民族と文化』 Völker und Kulturen (24) のほか,文法性や数詞の体系など文法特徴を示す 14枚の世界言語地図をつけた『世界の語族と言語圏』 Die Sprachfamilien und Sprachenkreise der Erde (26) がある。
シュミット
Schmidt, Isaac Jacob; Jakov Ivanovich
[生]1779. アムステルダム
[没]1847
ロシアの東洋学者。モンゴル学の創始者の一人。 1798年ロシアに移住,最初商業に従事しながらカルムイク語とチベット語を学び,1812年ペテルブルグに移って聖書協会に勤務。聖書をモンゴル語に全訳して注目された (1827刊) 。 27年ロストク大学でドクトルの学位を得,29年ペテルブルグ大学東洋学講座の助教授となった。続いて『蒙古源流 (エルデニイン・トプチ ) 』 (29) や『ゲセルハン物語』 (39) をドイツ語に翻訳。『モンゴル=ドイツ=ロシア語辞典』 Mongolisch-deutsch-russisches Wörterbuch (35) ,『チベット=ドイツ語辞典』 Tibetisch-deutsches Wörterbuch (41) などを著わして世界的な名声を博した。ロシア科学アカデミー会員,ロンドン,パリ,カルカッタのアジア協会会員。ドイツの東洋学協会会員となった。
シュミット
Schmidt, Kurt Diertrich
[生]1896.10.25. ウトレーデ
[没]1964.7.27.
ドイツのプロテスタントの教会史学者。ゲッティンゲン大学講師 (1924) ,キール大学教授 (29~35) ,ドイツ教会闘争に参加して告白教会に加わり,罷免されて,ヘルマンスブルクの宣教師養成学校の神学教師 (36) ,第2次世界大戦後ハンブルク大学教授となる (52) 。ゲルマン民族のキリスト教化や,宗教改革,トリエント公会議などに関する研究で知られる。主著"Die Bekehrung der Germanen zum Christentum" (36) ,"Germanischer Glaube und Christentum" (48) ,"Grundriss zur Kirchengeschichite" (49) ,"Gesammelte Aufsätze" (67)。
シュミット
Schmid, Joseph
[生]1893.1.26. ホルツハウゼン
[没]1975.9.4. ミュンヘン
ドイツの新約聖書学者,カトリック司祭。ディリンゲン・ドナウ神学校教授 (1945) ,ミュンヘン大学新約聖書釈義学教授 (51) を歴任。著作活動のかたわら後進の養成に努め,現代ドイツ・カトリック聖書学の更新と発展に貢献した。主著は『マタイとルカ』 Matthäus und Lukas (30) ,『マルコとアラム語マタイ』 Markus und aramäische Matthäus (論文,53) ,『ギリシア語黙示録の史的研究』 Studien zur Geschichte des griechischen Apokalypsetextes (3巻,55~56) 。このほか共観福音書の注解,『新約聖書入門』などがある。
シュミット
Schmidt, Bernhard Voldemar
[生]1879.3.30. エストニア,ナイサー
[没]1935.12.1. ハンブルク
ドイツの光学技術者。 1898年まで電信技師,写真技師,設計士などの仕事をしていたが,1901年ドイツ,ミトワイダの工業学校に入り,卒業後そこで光学機械の製作所と天体観測所を開いた。 26年ハンブルク天文台に迎えられ,30年シュミット・カメラを発明。広角で収差がきわめて小さく,天体観測技術の飛躍的向上を促した。カリフォルニアのパロマ天文台には 48インチ (約 122cm) のシュミット望遠鏡が装備されている。
シュミット
Schmidt, Johannes
[生]1843.7.29. プレンツロー
[没]1901.7.4. ベルリン
ドイツの言語学者。 A.シュライヒャーに学んだが,その言語系統樹説に対し,言語波動説を唱えた。主著『インド=ヨーロッパ諸語の親縁関係』 Die Verwandtschaftsverhältnisse der indogermanischen Sprachen (1872) 。
シュミット
Schmid, Karl Christian Erhard
[生]1761.4.24. ハイルスベルク
[没]1812.4.10. イェナ
ドイツの哲学者。 1791年ギーセン,93年イェナの各大学教授。カント哲学の信奉者で,『純粋理性批判概要』 Kritik der reinen Vernunft im Grundrisse zu Vorlesungen (1786) ,『カント哲学用語辞典』 Wörterbuch zum leichteren Gebrauch der kantischen Philosophie (88) を著わした。
シュミット
Schmidt, Arno
[生]1914.1.18. ハンブルク
[没]1979.6.3. ツェレ
西ドイツの作家。第2次世界大戦で捕虜生活を体験,戦後文筆活動に入る。一種の前衛派で,『レビアータン』 Leviathan (1949) から『ツェッテルの夢』 Zettels Traum (70) まで,リアリスティックでありながらロマンチックな文体によるユニークな散文作品がある。作品内に古今の文献から題材を得た「謎」をちりばめることで有名。
シュミット
Schmitt, Florent
[生]1870.9.28. ムルトエモーゼル,ブラモン
[没]1958.8.17. ヌイイシュルセーヌ
フランスの作曲家。パリ音楽院で G.フォーレと J.マスネに学び,1900年ローマ大賞を受け,イタリアに留学。ドイツ,オーストリア,トルコに滞在して帰国。 21~24年リヨン音楽院院長。ドイツ・ロマン派の作風と E.シャブリエの才気,ドビュッシーの色彩感を融合して大編成の曲を書いた。代表作『サロメの悲劇』。
シュミット
Schmidt, Franz
[生]1874.12.22. プレスブルク
[没]1939.2.11. ウィーン近郊ペルヒトルツドルフ
オーストリアの作曲家。 1880年からウィーンでヘルメスベルガーに学ぶ。 96年ウィーン宮廷オペラ管弦楽団のチェロ奏者,のちウィーン音楽院のチェロとピアノの教授を経て,1925~27年院長をつとめた。主作品には4つの交響曲,弦楽四重奏曲,オルガン曲,オラトリオなどがある。
シュミット
Schmidt, Friedrich, Freiherr von
[生]1825
[没]1891
オーストリアの建築家。シュツットガルトで修業し,のちウィーンで活躍。 E.ツウィルナーの助手として,ケルン大聖堂の修復にたずさわった。またフュンフハウス聖堂 (1868~75) を設計。代表作にはウィーン市庁舎 (72~83) があり,ウィーンにおけるゴシック・リバイバルの主導者であった。
シュミット
Schmidt, Julian
[生]1818
[没]1886
ドイツのジャーナリスト,文学史家。著書に『ドイツ文学史』 Geschichte der deutschen Literatur (5巻,1886~96) など。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
シュミット
フランスの作曲家。パリ音楽院でマスネーとフォーレに学び,1900年カンタータ《セミラミス》でローマ大賞を受賞。ローマ留学中に作曲されたソプラノ,合唱,オルガンと管弦楽のための合唱曲《詩編47番》(1904年,初演1906年)で一躍注目を浴び,続けて,女性舞踊家ロイ・フラー〔1862-1928〕によって初演されたバレエ音楽《サロメの悲劇》(1907年),《ピアノ五重奏曲》(1901年−1908年)などを発表。ベルリオーズから印象派(印象主義)に至るフランス音楽の色彩感とドイツ・ロマン派の構築性を融合させた特有の様式を打ち立て,のちのメシアンらにも影響を与えた。作品は多ジャンルにわたり,その後の代表作に,ソプラノ,合唱,オンド・マルトノと管弦楽のための《光の祭典》(1936年),《弦楽四重奏曲》(1948年),最晩年の《交響曲第2番》(1958年)などがある。音楽批評家としても活躍した。
シュミット
オーストリアの作曲家。プレスブルク(現ブラチスラバ)出身。ウィーン音楽院でブルックナーらに学び,宮廷歌劇場管弦楽団のチェロ奏者を経て1925年母校院長に就任。シェーンベルクと同年生れながらブルックナー,マーラーなど後期ロマン派の流れを汲む作風を堅持。没後長らく半ば忘れられた作曲家となっていたが,高度な変奏技法や楽曲構成上の革新性が近年注目を集め,再評価が進んでいる。4つの交響曲(1896年−1899年,1911年−1913年,1927年−1928年,1932年−1933年)のほか,オペラ《ノートル・ダム》(1914年),オルガン曲《シャコンヌ》(1925年),オラトリオ《7つの封印の書》(1937年)などがある。→交響曲
シュミット
スイスの映画監督,オペラ演出家。アルプス山中の小村に生まれ,長編第1作《今宵かぎりは……》(1972年)の舞台となった祖父の所有する城館で,オペラや映画を好む少年期を過ごす。1962年ベルリン自由大学に入学,ファスビンダーらに出会った。《ラ・パロマ》(1974年)で国際的に知られた後,《ヘカテ》(1982年),《デジャ・ビュ》(1987年)などの劇映画のほか,《人生の幻影》(1984年)のD.サーク,《トスカの接吻》(1984年)の老オペラ歌手たち,《ダニエル・シュミットの大野一雄》(1995年)など,被写体へのオマージュに満ちたドキュメンタリーも発表。いずれも現実と虚構が渾然一体となった,甘美な幻影を思わせる映像表現がなされている。またベルクの《ルル》をはじめとするオペラの演出でも評価が高い。
シュミット
ドイツの言語学者,宗教学者,人類学者。精神的・宗教的要素を中心としながら,社会組織と経済様式とを規準として文化圏と文化層の概念を提唱し,それによって人類文化の空間的広がりおよび歴史を再構成しようとした。ウィーン学派の代表。主著《民族と文化》。
→関連項目アウストロアジア語族|石田英一郎|岡正雄|文化圏説
シュミット
ソ連の探検家,地球物理学者,天文学者,数学者。キエフ大学を出て,モスクワ大学教授(1926年),地球物理学研究所長(1938年―1949年),ソビエト連邦科学アカデミー副総裁(1939年―1942年)等を歴任。初め数学,特に群論を研究。学術的北極探検の開拓者で,砕氷船セドフ号(1929年),シビリャコフ号(1932年),チェリュースキン号(1933年―1934年)等による調査を指導。1944年太陽系生成に関する隕石(いんせき)捕獲説を提唱。《ソビエト大百科事典》の編集等出版関係にも業績がある。
シュミット
西ドイツの政治家。ハンブルク大学卒。1946年ドイツ社会民主党に入党,1953年連邦議会議員。1969年国防相,1972年経済相兼蔵相等を歴任。1974年ブラントに代わり首相に就任。内政,外交ともに独自の強力な指導性を発揮。1982年辞任。
→関連項目コール
シュミット
ドイツの政治学者,公法学者。ケルン,ベルリン各大学教授。具体的秩序の思想を説き,ブルジョア民主主義の政治的・法的概念をワイマール共和国の解体過程で鋭く批判した。ナチスの理論的基盤を与える結果になり,戦後一時追放された。主著《現代議会主義の精神的地位》《憲法論》。
シュミット
ドイツの経営経済学者。フランクフルト大学教授。主著《有機的貸借対照表学説》(3版,1929年)で,企業を国民経済という有機体の一細胞としてとらえ,財産評価に再調達価格を用いて市場との関連を保った財産計算を唱えた。また再調達価格と原価との差は別勘定にして成果計算を示し,財産計算と損益計算を区別・統一する二元的学説を展開した。
シュミット
ドイツの作家。言語に関してきわめて急進的な実験を試みた前衛作家で,短編集《レビアータン》ほか多くの小説,またロマン派の作家フケーについてのすぐれた伝記がある。
シュミット
ドイツの光学技術者。1926年ハンブルク天文台に勤務,1929年コマ収差のない広視野の光学系であるシュミット望遠鏡を発明。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
シュミット
Helmut Schmidt
1918~
ドイツの政治家。ブラントのあとを継ぎ,自由民主党(FDP)との連合政権を率いた社会民主党(SPD)の首相(在任1974~82)。さまざまな分野の政策通として著名。連邦議会で院内総務を務めたのち,ブラント政権では国防相,経済・蔵相などを歴任した。首相在任中は,オイルショックによる不況のなか,経済の建て直しと治安対策に奔走した。対外政策においても,フランスとの協調を軸として欧州通貨制度を発足させるなどの功績を残した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
シュミット【Wilhelm Schmidt】
1868‐1954
ドイツに生まれ,スイスで没したが,おもにオーストリアで活躍した民族学者,言語学者。言語学者として出発し,東南アジア,オセアニアの言語分類に貢献したが,のち民族学を主とし,文化圏説の大成者,ウィーン学派の総帥となった。カトリック教,神言会派の神父で,宣教師の民族学的調査を奨励,指導した。神観念の起源をいわゆる原始一神教に求めたが,主著《神観念の起源Der Ursprung der Gottesidee》全12巻(1912‐55)はその成果である。
シュミット【Florent Schmitt】
1870‐1958
フランスの作曲家。パリ音楽院でマスネーやフォーレに師事し,1900年にカンタータ《セミラミス》でローマ大賞をうけた。あらゆるジャンルの作曲に手を染め,とりわけ合唱曲《詩篇47番》(1904),バレエ曲《サロメの悲劇》(1907),ピアノ五重奏曲(1901‐08),弦楽四重奏曲(1948),《交響曲第2番》(1958)などが高い評価を得ている。その音楽は,力強さと優しさ,悲劇性とユーモア,記念碑的な偉大さと細密画風の装飾的な繊細さ,といった互いに相反するものが両立して均衡を目ざすところに,独特な個性を示す。
シュミット【Bernhard Voldemar Schmidt】
1879‐1935
ドイツの光学器械技術者。シュミットカメラ,あるいはシュミット望遠鏡と呼ばれるコマ収差のない広い視野をもつ光学系を発明した。彼は通信技士,写真技師,設計技師などとして働きながら,天文学と光学について独学して経験を積んだ。やがて,小さい光学工場と天文台をもって,光学技師としての評判を得るに及んで,1926年からドイツのハンブルク天文台で働くことになった。シュミット望遠鏡の着想を得たのは29年の日食のときといわれる。
シュミット【Franz Schmidt】
1874‐1939
オーストリアの作曲家。プレスブルク(現,ブラティスラバ)に生まれ,1888年にウィーンへ移住。90年よりウィーン音楽院に学ぶ。1896‐1911年,宮廷歌劇場チェロ奏者を務めるかたわら,1901‐08年母校のチェロ教師。14年より母校が改組された国立アカデミーの教授としてピアノ,対位法,作曲法を教え,25年に同校院長,続いて27~31年,音楽・造形芸術専門学院院長を歴任。34年にウィーン大学より名誉博士号を授与される。
シュミット【Carl Schmitt】
1888‐1985
ドイツの公法学者,政治思想家。ウェストファーレンのカトリック系の家庭に生まれる。第1次大戦と戦後の混乱に衝撃をうけ,19世紀の自由主義的法治主義,議会制などがその歴史的基盤を失ったと主張した。彼によれば20世紀は法をこえて〈政治〉が発動する時代であり,その〈政治〉とは規範の拘束を受けない敵味方の関係である。〈政治〉が規範的拘束から解きはなたれて発現する場が〈非常事態〉であり,主権者とは〈非常事態の決断者〉である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
シュミット
Helmut Schmidt
1918〜
ドイツ連邦共和国の政治家
1953年から連邦議会議員となり,ブラント政権の閣僚を歴任後,74年に首相。党首のブラントとともに社会民主党を指導したが,1982年の連邦議会で不信任を受け,キリスト教民主同盟のコールに政権を渡した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
シュミット
生年月日:1891年9月30日
ソ連邦の数学者,地理学者,探検家
1956年没
シュミット
生年月日:1882年3月13日
ドイツの経営経済学者
1950年没
シュミット
生年月日:1860年7月23日
ドイツの地磁気学者
1944年没
シュミット
生年月日:1843年7月29日
ドイツの言語学者
1901年没
シュミット
生年月日:1761年4月24日
ドイツの哲学者
1812年没
シュミット
生年月日:1845年7月13日
ドイツの薬学者
1921年没
シュミット
生年月日:1864年8月6日
ドイツの考古学者
1933年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典内のシュミットの言及
【シュミット望遠鏡】より
…B.シュミットが考案した光学系をもつ望遠鏡。この光学系を利用した天体写真儀をシュミットカメラSchmidt cameraという。…
【議会】より
…そうしたなかで,ワイマール共和国期のドイツでは,ひときわはげしく議会制論がたたかわされた。カール・シュミットは,〈議会制〉と〈民主主義〉のむすびつきをきりはなし,それどころか,その二つを相互排斥的なものとして位置づけ,議会主義への信念は民主主義でなく自由主義の思想界に属するとし,民主主義の名において議会主義を否定した。彼によれば,民主主義は議会によってではなく,国民の歓呼とアクラマチオAkklamatio(喝采)によって支持される独裁によってこそ,よりよく実現されるというのである。…
【憲法改正】より
… 改正限界説は,憲法変更現象を認識する理論という性格と同時に,すぐれて実践的主張としての性格をもった理論である。もともと改正限界説は,所説の内容からして,憲法改正権から憲法の基本原理を防衛するという実践的主張としての性格(保守的機能)を本質的にもつが(ワイマール憲法のもとで限界説を主張したC.シュミットの基本的な狙いのひとつは,社会主義勢力が多数を占める議会=憲法改正権者から憲法を防衛する点にあった),今日のドイツや日本の一部の学説で主張されている限界説のように,憲法の基本原理を超実定法的自然法原理とし,憲法制定権力もこのような基本原理に拘束されるとする限界説の場合には,限界をこえた〈改正〉に対しては国民の抵抗権の発動が要請されることになり,憲法保障のための実践的主張という性格をいっそう強くもつことになろう。これに対して,C.シュミットのように,群集の歓呼や喝采に国民の憲法制定権力の発動をみる場合には,限界説は,逆に非合理的な憲法破壊を弁証する実践的主張としての性格(変革機能)を強くもつことになる。…
【憲法制定権力】より
…シエイエスの母国でも,近代憲法の確立期であった第三共和政期の憲法学は,pouvoir constituantという言葉を,もっぱら憲法所定の形式に服する憲法改正権という意味で使用し,本来の憲法制定権を法的思考の外に締め出したのであった。その後,憲法の現代的危機の時代になって,この観念は,C.シュミットによって,ふたたび意義づけを与えられた。彼は,基本的な政治的諸決定を実体とする〈憲法〉と,普通の〈憲法律〉を区別し,〈憲法律〉に基づいて規律される憲法改正権の上位に,みずから〈憲法〉を制定する憲法制定権力の存在を考える。…
【国家緊急権】より
…第3に,憲法の規定によらずに,国家緊急権が行使される場合である。 C.シュミットは,第2のものを委任的独裁,第3のものを主権的独裁とよぶ。第2のものの基礎には,緊急権の濫用を防止するためには,それを実定法上認めたうえで,条件,期間,手続等の点で制限を加えた方がよいとする考え方がある。…
【戦争】より
…革命の戦争化である。 実際,第1次世界大戦は〈ヨーロッパ国際法の在来的な国家間の戦争として始まり,革命的な階級敵対関係の世界内戦で終わった〉(C.シュミット)。そして1918年のドイツとハンガリーでの革命は,ヨーロッパ社会の伝統的な枠組みを破壊し,国際体制を基礎づけていたイデオロギー的合意の否定を意味するほどの衝撃力をもっていた。…
【代表】より
…ヨーロッパ語でこの言葉の原型にあたるラテン語のrepraesentareは,あるものを現前させる(目の前にあらわれさせる),ということを意味する。C.シュミットが,〈代表するとは,ひとつの目に見えぬ存在を,公然と現存する存在によって目に見えるようにし,現前させることである〉と述べ,〈目に見えないものが現存しないと前提され,しかも同時に現存するとされる〉という〈弁証法〉について語るのは,そのような言葉の系譜をふまえながら,憲法上の代表論のなかに,一定の形而上学的含意をもちこもうとするものであった。 私法の分野では,講学上,法人の機関の行為が法律では法人の行為としてあつかわれることを指して,機関が法人を代表するという。…
【独裁】より
…同時に,この手段的性格,臨時的性格が,やがて自己目的化し恒常化して私的で恣意的な専制政治一般に転化していったという点でも,独裁のメカニズムを示している。
[独裁概念の分類]
ワイマール期ドイツの政治学者C.シュミットは上記の(2)(3)に着目し,独裁を専制政治と区別する特徴を,〈具体的例外性konkrete Ausnahme〉に見いだした。すなわち,独裁官は非常事態における法秩序の侵犯者としてあらわれるが,この侵犯は現行法秩序そのものを防衛するための形式的法規範の侵犯であり,この侵犯によりかえって法そのものは実現される,とする。…
【アウストロネシア語族】より
… アウストロネシア語族の故地は,1889年オランダのケルンH.Kernによってインドシナ半島北東部沿岸であったろうと推定され,多くの学者によって支持されているが,アメリカのダイエンI.Dyenは,アウストロネシア諸語の現在における分布状態から推測し,ニューギニアが故地であった可能性を示唆している(1956,65)。
[他語族との関係]
オーストリアのW.シュミットは,アウストロネシア語族とアウストロアジア語族が親縁関係にあったとし,両者を合わせてアウストリック語族なる名称を与えたが,科学的に証明されたわけではない。近年アメリカのベネディクトP.K.Benedictは,アウストロネシア語族がコーチシナや海南島の非漢語系の言語(カダイ諸語と呼ばれる)を介してタイ諸語と親縁関係があるとし,アウストロ・タイ語族を提唱しているが,いまだ定説とはなっていない。…
【文化圏説】より
…文化圏Kulturkreisという用語は,以前から一般的な概念として存在していたが,民族学の専門用語として1898年にL.フロベニウスが初めて導入した。1904年におけるF.グレーブナーの《オセアニアにおける文化圏と文化層》,H.アンカーマンの《アフリカにおける文化圏と文化層》の講演,さらに1911年のグレープナーの《民族学方法論》において,文化圏説は確立し,W.シュミットとW.コッパースは《民族と文化》(1924)において全世界にまたがる文化圏体系を設定した。シュミットやコッパースは,その学問を文化圏説とは呼ばず,文化史的民族学と称した。…
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出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報