スンナ派とともにイスラムを二分する一派で,預言者ムハンマドのいとこで女婿でもあるアリーを預言者の跡を継ぐべき者として奉ずるイスラム諸分派の総称。シーアとは〈党派〉を意味する語で,本来,〈アリーを支持する党派Shī`a`Alī〉の略称。ムハンマドは宗教的な預言者と教団指導者という二重の役割を一身で兼ねていたが,その死後,前者の役割は閉ざされ,後者の役割は代理者たるカリフに継がれた。正統カリフには,スンナに従って,教団の有力者が代々選ばれた。しかし第3代カリフ,ウスマーンのもとでのウマイヤ家への権力集中に不満が起こり,ウスマーンは暗殺され,ハーシム家のアリーがカリフにつくと,ウマイヤ家の反対で両党派に権力闘争が生じ,その結果アリーはハワーリジュ派の手で暗殺された。この後,アリー支持のクーファの民がウマイヤ朝に反対した。アリーの子フサインはクーファの民の誘いに応じてクーファに向かうところをウマイヤ朝の軍に包囲されてカルバラーで戦死し,受難の英雄となった。685年ムフタールが,アリーの子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤをイマームおよびマフディーとして奉じ,ウマイヤ朝に対する反乱(ムフタールの乱)を起こした(カイサーンKaysān派と呼ばれる)。その死後,だれをイマームと認めるかをめぐって内部の分裂が進行した。フサインの孫のザイドも奉じられて,740年反乱に立ち,ザイド派が生じた。ホラーサーンでアッバース家を奉じたアブー・ムスリムもまた,イマームとみなされた(ホッラム・ディーンKhurram Dīn派)。こうして,イマーム・マフディーを奉じた群小諸派が初期シーア派に現れた。これらはアリーとその子孫を,カリスマをもつイマームとして無垢無謬と認め,預言者から秘義がアリーに授けられ,これが代々のイマームに秘伝されたとする秘教となって,神がイマームに顕現するとする説,イマームが死んだのでなく〈隠れ(ガイバghayba)〉てマフディー(メシア)として再臨(ルジューウrujū`)するとする説,イマームの光明説,などオリエント的宗教観念を伴った。アリーは一種の英雄神に近づいた。シーア派の諸傾向のうちザイド派は,イマームに超自然性を認めず,スンナ派に近い立場をとる。イスマーイール派は〈生きイマーム〉信仰が強く,イマームに服従する。イマームを神格化する派は極端派(グラートGhulāt)と呼ばれ,カルマト派,ヌサイリー派(アラウィー派)がある。これに対し十二イマーム派は穏健な立場をとり,フサインの子孫にイマームをたどり,隠れイマームのガイバの期間は,その意志は宗教法学者ムジュタヒドによって解釈され,また政治的にもムジュタヒドによる指導が行われるべきだという立場をとる。
シーア派の主要宗派十二イマーム派は,イスラム法の基本的実践についてはスンナ派とほぼ共通している。礼拝(ナマーズnamāz)はスンナ派では毎日5回であるが,十二イマーム派が多数を占めるイランでは,昼と午後の2回を1回に,夕と夜の2回も1回に合わせて行うのが普通である。また礼拝の刻の告知(アザーン)も,別に2句加えて唱える。金曜の集団礼拝はスンナ派モスクでは大事な儀礼であるが,シーア派イランでは,礼拝の指導者イマームが特別に立つ時のほか,それほど重要でない。断食については,スンナ派と同一であるが,シーア派では,スンナ派より数分遅れる形で,日が完全に沈んでから断食明けをする。巡礼もわずかの相違が認められるだけでスンナ派とほぼ同一であるが,シーア派教徒は,正規の巡礼の完了の後,メディナのムハンマドの墓やイマーム聖廟に参詣する。このほか,アリー(ナジャフ),フサイン(カルバラー),第8代イマーム,アリー(マシュハド)などの墓への参詣もメッカ巡礼に次ぐ重要な宗教的行事とされる。今日,十二イマーム派のイランでは,毎年ヒジュラ暦で,次の祝祭と服喪を行っている。祝祭として,(1)預言者ムハンマドが最後のメッカ巡礼の帰路,ガディール・フンムの地で,アリーをカリフに指名した日(ズー・アルヒッジャ月18日),(2)アリーの誕生日(ラジャブ月13日),第3代イマーム,フサインの誕生日(シャーバーン月3日),第8代イマーム,アリーの誕生日(ズー・アルヒッジャ月11日),第12代イマームの誕生日(シャーバーン月15日)がある。これらの日(マウリド),信徒は聖廟で茶菓を食べ,説教を聴く。夜はおもな建物はイルミネーションで飾られる。次に服喪はイマーム殉教の日に行われ,その最も重要な行事は,フサイン殉教日のムハッラム月10日のアーシューラーである。この時,殉教劇を演ずる劇場のタキーエtakīye,フセイニーエが各地に設けられる。これと関連して,イマーム殉教の物語ローザトッ・シュハダーRawḍat al-Shuhadāが物語僧ローゼ・ハーンによって語られる。この物語はペルシア語だけでなく,アゼルバイジャン地方では地方語アゼリー語でも語られる。ほかに服喪の日には,アリーが傷を受けてから殉教するまでの期間(ラマダーン月19~21日),ムハンマド死去と同日の第2代イマーム,ハサンの命日(サファル月28日),第6代イマームの命日(シャッワール月25日),ムハンマドの娘ファーティマの命日(ジュマーダー・アルウーラー月13日)がある。宗教法では,巡礼先などでの一時婚ムトアmut`aが認められる。また迫害のもとでの信仰擬装(キトマーンkitmān,タキーヤtaqīya)を認める。
→スンナ派
執筆者:加賀谷 寛
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スンニー派とともにイスラム教を二分する諸分派の総称。スンニー派に比しその数は圧倒的に少ない。元来は、預言者ムハンマド(マホメット)の正当な後継者(カリフ)は彼の従兄弟(いとこ)で女婿のアリーのみであると主張する者たち、すなわち「シーア・アリー」(アリーの党派)を意味した。
[鎌田 繁]
ムハンマドの没後、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーを正統カリフとして承認した大多数の信者がスンニー派を形成したのに対し、シーア各派はアリーと彼に続くその子孫たちのみが正当な後継者、ムスリム共同体の最高指導者「イマーム」であると主張し、ウマイヤ朝政府にしばしば反乱を企てた。この政治的な分派活動はアリーの子孫のうちだれをイマームとして認め、どのような権能を与えるかという宗教論争を伴い、シーア派は多くの分派を生み出した。
[鎌田 繁]
各派は独自の神学、法学を発展させているが、その神学は理性を重視する合理主義的傾向が強い。イマームには神に由来する秘教的知識や無謬(むびゅう)性という超自然的性格がさまざまな度合いで与えられ、その言行は神的権威をもつとされ、その位は神意に基づいた前任者の指名によって伝えられる。アリーの子フサインのカルバラーでの殉教が示すように、受難を救いへの一過程とみる傾向がある。現在はイマームは隠れているが将来ふたたび現れ、この世を正義で満たすというメシア思想や、古代オリエントのグノーシス主義や新プラトン主義を受容した神秘思想がみいだされる。
[鎌田 繁]
多くの分派があるが、代表的なものには、イランの国教でもっとも信者数の多い十二イマーム派、現在もアーガー・ハーン4世(在位1957~ )をイマームと仰ぐ支派が存続するイスマーイール派、イエメンに現在も存続するザイド派などがある。ザイド派はフサインの孫、ザイド・イブン・アリーを祖とし、カスピ海南岸に広まった一派である。スンニー派に近い穏健な教義をもち、ムハンマドの一族であること、有事に剣をとる能力、そして学識があることをイマームの条件としており、指名による相続の観念はない。合理主義的なムゥタジラ派神学の影響が強く、秘教的教説を拒む。このほか、シーア派の思想を母体にして発達した宗教や宗派には、シリアにおけるドルーズ教およびヌサイリー(アラウィー)派、イランにおけるアハレ・ハック(アリー・イラーヒー)派、バーブ教、それから生まれたバハーイ教などがある。
[鎌田 繁]
(大迫秀樹 フリー編集者 / 2011年)
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イスラーム共同体の指導者をめぐって,多数派スンナ派と対立する人々。最初はアリーの支持者,その死後は彼の子孫にカリフ位を要求する党派であったが,7世紀末,イマームの観念とメシア思想の出現により一つの宗派となった。かつて多くの諸派に分裂していたが,現在最も有力なものは,16世紀以降イランの国教となった十二イマーム派。イエメンではシーア派のなかのザイド派を国教としている。
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…しかしアフリカでは毎年かなりのムスリムの増加が見込まれ,旧ソ連地域,中国のムスリムの数はつかみ難い。610年にわずか数人の信者をもって始められたイスラムは,その後1400年近くを経た現在,西はアフリカの大西洋岸から東は東南アジアの島々にまで広がって6億の信者をもち,その大部分がスンナ派,約1割がシーア派に属する。
[コーランの世界]
ムハンマドは610年のある日,唯一神アッラーの啓示を受け,自ら神の使徒としての自覚を抱き,最後の審判の日に備えるよう人々に警告を発した。…
…語義的には〈イマームの末裔〉の意味であるが,通常,イマームの子孫もしくはそう信じられた人物を埋葬した,イラン全域に見られる聖祠のこと。シーア派イスラムの,とくに女性にかかわる信仰生活は,イマームザーデあるいはそれと類似の機能をもつピールpīr(聖者祠),あるいはカダムガーqadamgāh(足跡祠),ジヤーラトガー(巡礼祠)などを中心に営まれているといっても過言でない。テヘラン南方郊外のシャー・アブドル・アジーム,シーラーズのシャー・チェラーグのように,広く全土から巡礼者を集める立派な建造物を伴う著名なものから,村外れの墓地に立つ小さなもの,あるいは山腹に単に石を積んだだけのもの(普通ピールと呼称)まで,その形態はさまざまである。…
…公用語はアラビア語とクルド語。イスラム教徒が95%を占め,その半数以上がシーア派である。シーア派はバービルBābil州以南の中南部地域とバグダードに多く,スンナ派アラブはバグダード以北モースル以南の中部地域に多い。…
…アッバース朝時代に第8代カリフ,ムータシムal‐Mu‘taṣim(在位833‐842)によってバグダードからここに政庁が移され,約50年間(836‐892)首都として栄えた。現在,シーア派の聖地で,第12代イマーム,ムハンマド・アルムンタザルの聖所と,第10代イマーム,アリー・アルアスカリーおよび第11代イマーム,ハサンの墓廟が,アリー・アルハーディー・モスクにある。 都城址は,1910‐14年にヘルツフェルトの指揮のもとにドイツ調査団によって発掘された。…
…シーア派とともにイスラムを二分する一派。スンニーSunnī派とも呼ばれる。…
… 以上は正統派であるスンナ派の法の一般法則であって,部族的色彩を濃く残していることがうかがえる。これに反し,シーア派の法ではコーランを独自に解釈して別の相続体系を組み立てた。まず親族は次の3種に分類される。…
…〈恐れ〉〈警戒〉を意味するアラビア語であるが,イスラムの用語としてはキトマーンkitmān,すなわち〈危害を加えられる恐れのある場合に意図的に信仰を隠すこと〉の意味に用いられる。最初にタキーヤを認めたのは,ハワーリジュ派の一派のイバード派であったが,のちシーア派諸派によって継承発展させられた。シーア派は,信仰は心と舌(言葉)と手(行為)によって表現されるが,もし自己または同信者の生命財産に危害の加えられることが確実であるか,またはその可能性が強ければ,舌と手による信仰の表現は隠してもよいとした。…
…かつては約20km北にあるトゥースṬūsに属し,セイナバードと称する小村にすぎなかった。シーア派第8代イマーム,イマーム・レザーが818年この地で毒殺され,その廟が造られてから聖地として発展し,〈殉教(シャハーダshahāda)の地〉を意味するマシュハドが地名となった。イラクのカルバラーとともにシーア派の巡礼地で,巡礼者はマシュハディーと呼ばれる。…
※「シーア派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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