精選版 日本国語大辞典 「ジャカルタ」の意味・読み・例文・類語
ジャカルタ
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インドネシアの首都。ジャワ島北西岸のチリウン川河口に位置する。オランダ植民地時代の旧名はバタビア。行政的にはジャカルタ首都圏に含まれる。人口約1022万6200(2001推計)、1042万8001(2018推計)。市街はチリウン川に沿い南北十数キロメートルにわたり細長く延びる。標高は一般に低く、中心部にある気象台でも8メートル。年平均気温は26.9℃、年較差は1.2℃にすぎない。また年降水量は1755ミリメートルで、その55%は12~3月の雨期に集中している。こうした点でジャカルタは風土的に不健康地といわれてきた。
市街は17世紀初めからオランダの植民地統治の中心とされたため、その影響を強く受けている。当時の市街地は最北部のコタ地区で、海岸近くにはバタビア城の遺跡も残り、運河に沿ってオランダ風の古い石造りの建物が並ぶ。東インド会社の史料を蔵する古文書館、ジャカルタ博物館(旧バタビア博物館)もこの地区にある。その南は19世紀の初めから造成された市街地で、ムルデカ(独立)広場を中心とし、いまもインドネシアの政治、文化の中核をなしている。大統領官邸、各種官庁、外国公館をはじめ、広場の西には東南アジア屈指の学術施設である中央博物館がある。広場の北側にはショッピングセンターのパサール・バル、南側は近代的住宅地が広がり、学校や病院も多い。さらに南方のクバヨラン地区は高級住宅地として発展しつつある。工場は第二次世界大戦前から多少建設されていたが、戦後はかなり増加し、その種類も増えた。しかしなおその大部分は軽工業で、規模もあまり大きくない。
植民都市として発展し、また海港として外部との接触も多かったため、ジャカルタの住民は多くの外来居住者により構成される。ジャカルタ首都圏の出身者は全体の半数ほどで、ほかはジャワ島各地の諸民族、インドネシア諸群島各地の出身者で占められる。さらに外国人としては中国人、アラブ人、インド人、欧米人、日本人が含まれる。第二次世界大戦中の人口は約85万程度であったが、戦後の増加が急激なため都市としての社会施設がこれに追い付けず、多数の失業者ないし潜在的失業者を抱えている。このため市内各地に、なお多くの不法占拠者やスラム地区が生まれ、政府は1970年から無制限なジャカルタへの人口流入を抑制する方針を打ち出したが、その解決は容易でない。かつての市民の足であったベチャ(輪タク)は都心から追放されてバスや小型自動三輪車にかわったが、美しい近代的都市の外観と内実的に貧困な市民層の対照はまだ極端なものがある。表通りはネオンがきらめいても、裏通り(市民の大部分はその生活者である)では依然として照明は灯油に頼っている。水道も市民の50%しか利用できない。このアンバランスをいかに克服するかが今後のジャカルタの都市発展の鍵(かぎ)であろう。なお市の北東8キロメートルに全国の貨物輸出入量の60%を占めるタンジュンプリオク港、北西にスカルノ・ハッタ国際空港がある。
[別技篤彦]
16世紀初めころから、パジャジャラン国の貿易港スンダ・カラパとして知られ、胡椒(こしょう)の取引が盛んであったが、1527年、フアタヒラー(後のスナン・グヌン・ジャティ、バンテン王国の始祖)に占領され、ジャヤカルタ(勝利の町、詰まってジャカルタ)と改称された。日本では訛(なま)ってジャガタラといった。16世紀末、オランダ人が来航して商館を建て、1619年オランダ東インド総督クーンは、東洋経略の根拠地としてバタビアと改めた(1621公認)。その後オランダ人勢力の発展に伴い、市街は繁栄していったが、第二次世界大戦中の1942年、日本軍政が行われたとき以後、ジャカルタの旧名に復した。
[中村孝志]
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ジャワ島西部に位置するインドネシア共和国の首都。チリウン川河口の港町スンダ・クラパが前身で,バンテン王国の支配下でジャヤカルタ(略称ジャカルタ)と呼ばれた。その後この地に拠点を構えたオランダが,1619年バタヴィアと改名。以来オランダ東インド会社のアジアにおける拠点となり,会社解散後はオランダ領東インドの中心地となった。人口は1930年で43万5000人を数えた。1942年3月の日本軍政の開始とともにバタヴィアからジャカルタへと改名された。その後インドネシアの独立とともにジャカルタが首都名となり,現在に至っている。現在人口900万余をかかえるインドネシア最大の都市で,同国の政治,経済,文化の中心地である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
インドネシアのジャワ島西部の港市。オランダはヤカトラ,日本ではジャガタラとよんだが,1619年オランダ東インド会社の支配下に入り,バタビアと改称,アジア貿易の基地となった。39年日蘭混血児が日本からこの地に追放され,鎖国時代にはここからオランダ船が長崎に来航した。19世紀以降はオランダ領東インドの政庁がおかれて近代都市に発展。太平洋戦争中,1942年(昭和17)から日本軍が占領。軍政下に入り,市名をジャカルタの旧称に復した。現在,インドネシア共和国の首都。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…やがて東インドに来航する船は激増し,各地の航海会社間の競争を解消するために,1602年にオランダ東インド会社が設立された。バンテン王国の藩属国ジャカルタは良港であったため,イギリス,オランダ両国の争奪の的となり,イギリス・バンテン連合軍はオランダの要塞を19年に包囲したが,第4代オランダ東インド総督J.P.クーンはこれを守り通し,正式にこの地をバンテン王から譲り受けてバタビアと改称した。クーンはモルッカ諸島の香辛料貿易にも進出し,バンダ諸島の原住民を殺したり移住させたりしてニクズクの収穫をほとんど独占した。…
※「ジャカルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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