精選版 日本国語大辞典 「ジャズ」の意味・読み・例文・類語
ジャズ
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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アメリカ音楽の一種類。黒人(アフリカ系アメリカ人)のブラスバンド(吹奏楽)によるパレードの行進音楽からダンス音楽、そして鑑賞のための音楽へと発展し、今日では世界的なポピュラー音楽としてもっとも重要な一分野となっている。
ジャズは、アメリカの黒人の民俗音楽と白人のヨーロッパ音楽との融合によって20世紀の初めごろ、ルイジアナ州ニュー・オーリンズの黒人ブラスバンドから生まれた。そのリズム、フレージング、サウンド、ブルー・ノートblue note(第3度と第7度の音が半音下がった独特の旋法)はアフリカ系民俗音楽の影響とアメリカ黒人独特の音楽感覚とから生まれ、使用楽器、メロディ、ハーモニーはヨーロッパ音楽の伝統に準じている。
また、その特徴としては、(1)4分の4拍子の第2拍と第4拍にアクセントを置くオフ・ビート(アフター・ビートともいう)のリズムから生じるスウィング感、(2)インプロビゼーション(即興演奏)に示される自由な創造性と活力、(3)演奏者の個性を強く表出するサウンドとフレージング、以上の3点があげられ、これらがヨーロッパ音楽またはクラシック音楽との根本的な違いであるといえる。
[青木 啓 2018年11月19日]
語源については諸説あるが、確定することはできない。「卑猥(ひわい)な意味をもつ」というイギリスの古語ジャスjassによるとする説、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味や、熱狂とか、急速なテンポやリズムを意味するスラングのジャズjazzによるとする説、チャールズというドラム奏者の名がCharles→Chas→Jass→Jazzと転訛(てんか)したとする説などがある。jassということばの意味はさまざまに変化し、1910年代のシカゴでは「快適」とか「ごきげん」といった意味のスラングになっていた。前記のような特色をもつ黒人音楽をジャズと称するようになった時期も明らかではない。名ジャズ・ピアニストで作曲家のジェリー・ロール・モートンJelly Roll Morton(1890―1941)は、1902年に自分のピアノ演奏スタイルをジャズと名づけたといい、後年にジャズの創始者と自称したが、信じる人はいなかった。ジャズと称される以前は、楽団演奏でも大流行した黒人のピアノ音楽ラグタイムragtimeと混同された形でラグタイム・ミュージック、またはラグとよばれていた。
1916年にシカゴで活動していた白人グループ「ディキシーからきたスタインのバンド」が、jassということばにヒントを得て「スタインのディキシーjassバンド」と改名し、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド」と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルにはjass bandと印刷され、続く2月録音のレコードのラベルにはjazz bandと印刷されており、当時はスペリングが一定していなかったことがわかる。
[青木 啓 2018年11月19日]
アメリカにアフリカから黒人が労働力、つまり奴隷として本格的に輸入され始めたのは1619年である。輸入は年ごとに盛んになった。中南米を経て運び込まれたもので、とくに西インド諸島が中継地となっていた。白人は、奴隷である黒人のもっていたアフリカの慣習を、宗教も含めていっさい禁止し、奪った。だが黒人は、アフリカの伝統的音楽特性をさまざまな形で表出した。その最初の音楽的表現はシャウトshoutおよびハラーhollerであり、ともに「叫ぶ」という意味をもち、短いことばで音程を滑らせながら叫ぶように歌う。それは彼らの感情の単純素朴な音楽表現であった。
次に現れたのはワーク・ソングwork song(労働歌)で、農園とか鉄道などの作業時に歌われる。ここに応答形式、あるいは交互歌唱形式が生まれた。囚人のワーク・ソングとしてのチェイン・ギャング・ソングchain gang song(鎖でつながれた囚人の歌)もある。やがてキリスト教の賛美歌をはじめとするヨーロッパ音楽の影響を受けて、黒人独特の感覚で融合しながらブラック・スピリチュアルblack spiritual(黒人霊歌)がつくられ、広く普及した。
南北戦争(1861~1865)が黒人奴隷解放を主張する北軍の勝利で終わったあと、解放された黒人は個人としての生活に入ったが、その私生活の哀歓を素朴な形式で率直に表現する歌が南部で生まれた。これがブルースbluesである。奴隷解放後は芸能人や音楽家として身をたてる黒人が増えたが、そのほとんどはミンストレル・ショーやボードビルなどの大衆演芸を活動の場とした。1890年代の中ごろに、ミズーリ州の酒場やクラブで働く黒人ピアニストたちの間で、ラグタイムと称するリズミックなスタイルのピアノ音楽が生まれて流行した。これは、クラシック音楽と同様に、楽譜どおりに演奏するものであって即興性はない。その点からジャズではないのであるが、これまたジャズの母体の一つになった。
そのころルイジアナ州ニュー・オーリンズでは、黒人によるブラスバンドが盛んになった。港のあるこの町は音楽の盛んな町でもあったが、南北戦争に敗れた南軍軍楽隊の楽器を黒人たちが安価で入手できたためという。黒人ブラスバンドの活躍の場は祝祭パレードや葬送行進で、その行進曲もジャズの母体の一つになっている。
[青木 啓 2018年11月19日]
ニュー・オーリンズの黒人ブラスバンドはアマチュアの人々によって編成され、白人のバンドをまねてヨーロッパの舞曲や行進曲、賛美歌、黒人霊歌などを演奏した。楽譜の読めない人も多いバンドの指導をしたのはクレオール(黒人と白人の混血人、おもにスペイン人かフランス人との混血)であって、クレオールは奴隷解放までは白人と同等に扱われた。黒人バンドの人々は、白人の直接の影響ではなく、クレオールを通じて白人の音楽やヨーロッパの手法を学び、消化したのである。黒人バンドにはシャウトやハラー、ワーク・ソングなどの感覚が入り込み、ラグタイム曲や行進曲の演奏に黒人独特のリズム感をみせ始め、歌曲であるブルースを器楽化するようになり、原曲を即興的に崩して演奏する者も出現した。トランペット奏者バディ・ボールデンBuddy Bolden(1877―1931)はその代表的な一人で、伝説的な人物となっている。さらに20世紀初めごろ、リズム・セクションに支えられたトランペット、トロンボーン、クラリネットの三管編成によるコレクティブ・インプロビゼーションcollective improvisation(集団即興演奏)とそのアンサンブル進行のスタイルが大きな特色として形成された。こうして黒人ブラスバンドからジャズが誕生した。
[青木 啓 2018年11月19日]
もっとも初期のスタイルは、おもに行進するテンポで、管楽器がメロディを即興的に崩しながら絡み合い、対位法的効果を生むものであった。その集団即興演奏とアンサンブルに特色のあるスタイルを、ニューオーリンズ・ジャズNew Orleans jazzと称する。このスタイルによって白人が演奏するジャズをディキシーランド・ジャズDixieland jazzと称するが、今日では区別しないことが多く、一般にディキシーランド・ジャズとよばれている。ディキシーとはアメリカ南部諸州をさす俗称である。
ニュー・オーリンズの黒人ジャズメンは、娼家(しょうか)の並ぶ紅灯街ストーリービルstoryvilleとその周辺のクラブやキャバレーなどを主要な仕事場としていた。1910年代になると、彼らの演奏に魅せられて学び、ジャズを演奏する白人青年も現れた。第一次世界大戦中の1917年11月、ニュー・オーリンズの港は海軍の軍港になり、海軍長官の命令でストーリービルは閉鎖された。そこで、職場を失ったジャズメンはシカゴ、ニューヨーク、メンフィス、ミズーリ州のカンザス・シティなど北部や中西部の都会に新しい活動の場を求めて移住し、これがジャズの全米的な普及と発展につながった。
[青木 啓 2018年11月19日]
優秀な黒人ジャズメンが多く集まったのはシカゴで、コルネットの名手キング・オリバーKing Oliver(1885―1938)に続いて、1922年には彼の弟子であるルイ・アームストロングもシカゴに進出して活躍。ルイは、アンサンブル中心であった従来のジャズを、ソロ中心のジャズに変え、今日につながるジャズの新方向を示した。シカゴの白人青年たちの間にもジャズを志す者が現れ、ニューオーリンズ・ジャズに白人の感覚とフィーリング、洗練度を加えて演奏し、独特のスタイルをつくった。これがのちにシカゴ・スタイルChicago styleとよばれたものである。シカゴの白人ジャズメンには、ベニー・グッドマン、ジーン・クルーパ、ギター・バンジョー奏者のエディ・コンドンEddie Condon(1905―1973)、サックス奏者のバド・フリーマンBud Freeman(1906―1991)らがいる。彼らは黒人ジャズメンのほかに、白人ビックス・バイダーベックBix Beiderbecke(1903―1931)からも影響を受けた。ビックスは天才的なコルネット奏者で、独自の感覚による演奏で白人ジャズを創造し、シカゴの白人ジャズメンの中心人物となった。なおシカゴの黒人街で1920年代に、ピアノによるブルース演奏がブギ・ウギboogie woogieとして発展した。ブギ・ウギは黒人ピアノ奏者ジミー・ヤンシーJimmy Yancy(1894/1898―1951)が始め、「パイン・トップ」の愛称で知られるクラレンス・スミスClarence Smith(1904―1929)がそのスタイルを完成させたという。
1920年代のニューヨークでは大編成楽団によるジャズ、つまりビッグ・バンド・ジャズの発展が目覚ましい。黒人居住地区ハーレムのクラブやボールルーム(ダンスホール)で活躍するフレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson(1897―1952)やデューク・エリントンらは、独特の編曲によるサウンドとスタイルを創造している。これらのビッグ・バンドはダンスのための音楽として演奏しなければならなかったが、そのなかにジャズの精神と語法を盛り込み、人々にジャズの魅力を知らしめた。またハーレムから新しいピアノ・スタイルも生まれている。黒人ジェームズ・P・ジョンソンJames P. Johnson(1894―1955)はラグタイム・ピアノ奏法をもとに、左手でベース・ビートをオクターブに「大またでまたぐ」ように弾くスタイル、つまりストライド・ピアノstride pianoというスタイルを生み、デューク・エリントン、ファッツ・ウォーラーFats Waller(1904―1943)、アール・ハインズEarl Hines(1903―1983)ほか多くのピアニストに強い影響を与えた。
[青木 啓 2018年11月19日]
ニューヨークにおけるビッグ・バンド・ジャズの流行と発展は、やがて、ジャズ全体の進展を促すことになった。1929年10月のウォール街(株式)大暴落に始まった長い不況の間は、甘美で感傷的なポピュラー・ミュージックが流行したが、景気回復の兆しがみえた1935年、ベニー・グッドマン楽団のスウィング・ミュージックと称するビッグ・バンド・ジャズが爆発的な人気をよんだ。主としてフレッチャー・ヘンダーソンの名編曲を用いた演奏は、歯切れのよい明快なスウィング感、白人らしい洗練されたスマートな魅力があり、大衆は、スウィング・ミュージックを、黒人のジャズとは違う音楽、白人による明るくて健全な新しい音楽として大歓迎し、熱狂した。グッドマンを追って、グレン・ミラー、トミー・ドーシーTommy Dorsey(1905―1956)、アーティ・ショーArtie Shaw(1910―2004)、ボブ・クロスビーBob Crosby(1913―1993)らの白人ビッグ・バンドが人気を博し、ここにスウィング・ジャズswing jazzのブームがおき、スウィング時代が現出した。そして、ビッグ・バンドからのピックアップ・メンバーによる小編成楽団(コンボ)、およびレコード吹き込みのための臨時の小編成楽団のジャズ演奏、コンボ・ジャズcombo jazzも盛んに行われるようになる。ソロこそジャズの核であるとの認識が深まったため、スウィングをダンス音楽としてのみならず、鑑賞音楽として楽しもうという傾向を反映したものといえる。
スウィング時代の立役者は白人バンドであったが、黒人バンドも徐々に人気を高めた。注目された黒人バンドの一つにカウント・ベイシー楽団がある。中部ミズーリ州のカンザス・シティで1920年代から活躍していたベニー・モーテン楽団の後身で、ブルース精神とリラックスした気分、簡単な打合せによる編曲(ヘッド・アレンジ)、即興的なリフ(短い楽句の繰り返し)のアンサンブルなど、カンザス・シティ・ジャズ独特の魅力を発揮する。ベイシー楽団は1936年のニューヨーク進出で大評判になった。なお各楽団には専属の歌手がおり、それぞれに人気を競い合うバンド・シンガーの時代でもあった。
[青木 啓 2018年11月19日]
1940年代に入ってもビッグ・バンドを中心とするスウィング・ジャズは幅広い大衆に親しまれたが、1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、楽団員の軍隊応召などの影響で楽団運営は苦しくなり、演奏のマンネリ化もみられ、スウィング・バンドの衰退が始まる。
意欲的な若手ジャズメンはニューヨークのクラブ「ミントンズ・プレイハウス」などでのジャム・セッションにおいて、新しいジャズの実験的な試みを始めた。ギター奏者のチャーリー・クリスチャン、ドラム奏者のケニー・クラークKenny Clarke(1914―1985)をはじめ、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらによってビ・バップbe-bop(単にバップとも称する)という新しい理念のジャズが創造され、スタイル化された。ビ・バップは従来のジャズと異なり、メロディ、ハーモニー、リズムの3要素が改革され、その演奏の表情は強烈で、急速なテンポ、音の飛躍などはエキセントリックともいえる。スタイル化されたのは1944年ごろで、当時はかなりの非難も浴びたが、やがて広く支持されるようになり、モダン・ジャズmodern jazzの母体となる。つまり、ビ・バップの手法に基づくジャズをモダン・ジャズと総称しているのである。ビ・バップ手法を導入した歌手ビリー・エクスタインBilly Eckstine(1914―1993)の楽団、ウッディ・ハーマン楽団などのビッグ・バンドも人気をよび、さらに近代音楽的な手法で白人感覚を示すスタン・ケントン楽団が注目され、ビッグ・バンドのモダン化も進んだ。
1940年代の終わりに近く、第二次世界大戦後の混乱から安定期に入った生活感覚を反映し、またビ・バップの強い刺激感に対して、ビ・バップの理念と手法を消化したうえでの抑制された冷ややかな感じのサウンド、ソロとアンサンブルのバランスのとれたスタイルのジャズが、マイルス・デービス、スタン・ゲッツ、ギル・エバンズらによって生まれ、クール・ジャズcool jazzとよばれた。さらにピアノ奏者レニー・トリスターノとその門下生のアルト・サックス奏者リー・コニッツらが、理知的な内省美をもつクール・スタイルのジャズを創造している。
1950年代になると、西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスで白人による新しいジャズ・スタイルがおこった。1950年に勃発(ぼっぱつ)した朝鮮戦争による同市の軍需景気と、ハリウッドの映画会社がサウンドトラック録音を重視して譜面に強いミュージシャンを求めたために、ウッディ・ハーマン楽団やスタン・ケントン楽団出身の優秀な白人ジャズメンが多数集まったことに始まる。トランペット奏者ショーティ・ロジャーズShorty Rogers(1924―1994)、バリトンサックス・ピアノ奏者ジェリー・マリガン、ドラム奏者シェリー・マンShelly Manne(1920―1984)らのジャズは、クールではあっても軽快な躍動感をもち、白人的な洗練された感覚の明るい魅力があり、編曲によるデリケートなサウンドとソロの調和にグループ表現としての新鮮なおもしろさがあった。これがウェスト・コースト・ジャズWest coast jazzとよばれるものである。
一方、ニューヨークなど東海岸の黒人ジャズメンは、1950年代なかばから、行き詰まってきたウェスト・コースト派を圧倒する巻き返しをみせた。ビ・バップを成熟させた形の即興アドリブ・ソロを主体とするコンボ・ジャズで、黒人的情感のバイタルな表現、あるいは黒人的なにおいを強く感じさせるファンキーな演奏で、ジャズの主導権を白人から奪回した。これをイースト・コースト・ジャズEast coast jazzとよび、ハード・バップhard bopという別称もある。その代表的人物は、トランペットのマイルス・デービス、クリフォード・ブラウン、ドラムのアート・ブレーキー、マックス・ローチ、ピアノ奏者・作曲家のホレス・シルバー、テナー・サックスのソニー・ロリンズ、ベースおよびピアノ奏者・作曲家チャールズ・ミンガスらである。知的で室内楽的なジャズにユニークな個性を示したピアノ奏者・作曲家ジョン・ルイスJohn Lewis(1920―2001)のモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の存在も忘れられない。
[青木 啓 2018年11月19日]
1950年代末にはハード・バップにも行き詰まりが感じられ始めた。そこに登場したのが黒人アルト・サックス奏者オーネット・コールマンで、彼は既成のジャズ概念を否定し、コード進行と小節および調性の制約から脱して自由な即興演奏に徹し、前衛ジャズ、フリー・ジャズfree jazzの基盤を確立した。またマイルス・デービスはモードmode(旋法または音列)によるジャズを試み、アドリブの可能性を広げた。
1960年代はフリー・ジャズとモード・ジャズ(モーダル・ジャズmodal jazz)によるジャズの激動時代といえる。オーネットはトランペット奏者ドン・チェリーと組んだ活動で賛否の論争を巻き起こし、モードを探究したジョン・コルトレーンはオーネットの影響も受けて独自の新スタイルをつくりだし、多くのジャズメンに影響を与えた。ピアノ奏者セシル・テーラーはヨーロッパ音楽とアフロ・アメリカの伝統を研究し、過激で無調的な即興演奏によって前衛ニュー・ジャズの先駆者の一人となった。自由で強烈な色彩感のあるサックス奏者アルバート・アイラーも見逃せない。こうしたニュー・ジャズはヨーロッパや日本にも共鳴者を生み、新たな展開がみられた。
1960年代末にマイルスはロックのリズムとエレクトリック・サウンドを導入し、LPアルバム「ビッチェズ・ブリュー」を発表。これは1970年代ジャズを示唆したものと評価されている。ジャズはさらに多様化し、マイルス・グループ出身のピアノ奏者ジョー・ザビヌルとサックス奏者ウェイン・ショーターはウェザー・リポート、チック・コリアはリターン・トゥ・フォーエバーというグループを結成、ロックや黒人のソウル・ミュージック、ラテンなど、さまざまな要素を融合した新手法の音楽で幅広い層にアピールし、人気を得た。このようなスタイルはクロスオーバーcrossoverまたはフュージョンfusionとよばれ、多様化と電化楽器の発展が進んだ1970年代に全盛をみた。その一方では、アコースティック・サウンドの再認識、ハード・バップのリバイバル、フリー・ジャズの洗礼を受けたジャズメンの新感覚による活動などもあり、これらも1970年代ジャズの状況として記録されねばなるまい。
[青木 啓 2018年11月19日]
1980年の夏、ニュー・オーリンズ出身で当時18歳のトランペット奏者ウィントン・マルサリスがアート・ブレーキーのバンドに参加して注目された。彼は1982年にバンドから独立後、優れたテクニックとアイデアで、ジャズの伝統を今日に生かす多彩な活動を展開して高い人気と名声を得た。彼の兄であるサックス奏者のブランフォード・マルサリスBranford Marsalis(1960― )やトランペット奏者ロイ・ハーグローブRoy Hargrove(1969―2018)など、ウィントンと同志の若手が台頭、彼らは新伝承派とよばれる。
一方、1960年代にマイルスのバンドにも参加したキーボード奏者のハービー・ハンコックは、シンセサイザーやボコーダー(人の声と楽器音などを電子的に混合、加工する装置)などを駆使して独自のフュージョンを創造したが、1983年にロックイット・バンドを率いて当時流行し始めていたヒップ・ホップを導入したアルバム『フューチャー・ショック』を発表し、爆発的なヒットとなった。この1983年にピアノ奏者キース・ジャレットはベース奏者ゲイリー・ピーコックGary Peacock(1935―2020)、ドラム奏者ジャック・ディジョネットJack DeJohnette(1942― )とスタンダード名曲を演奏するトリオを結成、内外の演奏で大好評を博した。トリオは2000年からオリジナル曲によるフリーの即興演奏も行っている。
1990年代以降、若手逸材ジャズメンの出現が相次ぎ、その活躍が目覚ましい。鋭い感性のアルト・サックス奏者クリス・ポッターChris Potter(1971― )、オーソドックスな演奏のみならず、複雑な変拍子を使った演奏にも創意を発揮するテナーおよびアルト・サックス奏者ジョシュア・レッドマンJoshua Redman(1969― )、さまざまな技法を用いた演奏で構成と展開の妙、叙情美とロマンティシズムの新鮮な魅力をみせるピアノ奏者ブラッド・メルドーBrad Mehldau(1970― )、キューバ出身のラテン・ジャズピアノ奏者ゴンサロ・ルバルカバGonzalo Rubalcaba(1963― )、トランペット奏者のデイブ・ダグラスDave Douglas(1963― )とニュー・オーリンズ生まれのニコラス・ペイトンNicholas Payton(1973― )、オルガン奏者ジョーイ・デフランセスコJoey DeFrancesco(1971―2022)、ビッグ・バンドを率いる女性作曲・編曲者マリア・シュナイダーMaria Schneider(1960― )などが1990年代の代表格といえよう。このように、20世紀初頭にアメリカで誕生したジャズは、いまなお生きている音楽、時代の音楽であり、時代の変化を反映しながら創造と発展の歩みを続けている。
[青木 啓]
楽器で演奏する音楽、つまり器楽であるジャズの特質を応用して人声で歌うのがジャズ・ボーカルである。フィーリング、スウィングするリズム感、創造力を示すインプロビゼーションによるアドリブ、そのフレージングなどが、ジャズを範としたジャズ唱法の条件となる。厳密には、器楽と声楽を同一視できないのでジャズ的ボーカルとすべきだが、一般にジャズ・ボーカルと称し、この唱法に徹した歌手をジャズ歌手、ジャズシンガーとよぶ。
[青木 啓 2018年11月19日]
ジャズ・ボーカルはトランペット奏者ルイ・アームストロングから始まった。彼の歌唱は、彼のトランペット演奏のフレーズをそのまま人声に移した器楽的なもので、歌をスウィングさせるために必要とあらば原メロディを(ときには歌詞も)自由に即興でつくりかえてしまう。ルイはしわがれ声で、美声による訓練された発声という従来の歌手の条件を破り、1926年2月には『ヒービー・ジービーズ』という歌で史上初のスキャットscat(歌詞にかえて意味のない音で即興的に歌うこと)の入ったレコードを録音した。ルイの影響を受けて1920年代末にビング・クロスビーとミルドレッド・ベイリーMildred Bailey(1907―1951)が白人ジャズ歌手の草分けとなり、1933年には最高のジャズ歌手である天才ビリー・ホリデーが初録音して注目された。ついでエラ・フィッツジェラルドが出現。第二次世界大戦中の1942年には、ジャズ唱法もうまいフランク・シナトラがトミー・ドーシー楽団から独立し、幅広い人気を得た。
[青木 啓 2018年11月19日]
1940年代なかばにビ・バップの手法がジャズ・ボーカルに取り入れられ、ビリー・エクスタインBilly Eckstine(1914―1993)とその弟子サラ・ボーンを創始者とするモダン・ジャズ・ボーカルが誕生した。以来、メル・トーメ、アニタ・オデイ、カーメン・マクレエ、ジューン・クリスティJune Christy(1925―1990)、クリス・コナーChris Connor(1927―2009)、ベティ・カーターBetty Carter(1930―1998)らモダンな歌手が活躍。1952年には一番上のパートがメロディを歌うオープン・ハーモニーを使ったモダンなジャズ・コーラスのフォー・フレッシュメンが広く注目され、レコードに残されたジャズ名演に歌詞をつけて歌うキング・プレジャーKing Pleasure(1922―1982)やエディ・ジェファソンEddie Jefferson(1918―1979)が話題になった。この手法はボーカリーズとよばれ、これをコーラスで完成させた3人組ランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスLambert, Hendricks & Rossのレコードが1958年に大評判となる。
1960年代には、前衛ジャズ的に声を使うシーラ・ジョーダンSheila Jordan(1928― )、ジーン・リーJeanne Lee(1939―2000)、カーリン・クローグKarin Krog(1937― )ら、アフリカ志向とトータルな音楽性を示すニーナ・シモンNina Simone(1933―2003)、ジャズとリズム・アンド・ブルースを核とするナンシー・ウィルソンNancy Wilson(1937―2018)が注目を集める。1970年代になると、ジャズとフュージョン双方にまたがるD・D・ブリッジウォーターDee Dee Bridgewater(1950― )、アル・ジャロウ、コーラス・グループのマンハッタン・トランスファーManhattan Transfer、ブラジル出身のフローラ・プリムFlora Purim(1942― )らが人気をよぶ。1980年代以降に活躍したジャズ・シンガーとしては、熱烈な個性のある若手ダイアン・シューアDiane Schuur(1953― )、カサンドラ・ウィルソン、声を楽器そのものにするボビー・マクファーリンBobby McFerrin(1950― )、カート・エリングKurt Elling(1967― )、カナダ出身のダイアナ・クラールDiana Krall(1964― )などがあげられる。
[青木 啓]
1910年代なかば(明治末から大正初め)に太平洋航路客船の楽団の日本人演奏者たちが、アメリカで流行していたラグタイム音楽やフォックス・トロットなど新しいダンスの音楽を知り、その演奏を試み始めた。リーダーであるバイオリン奏者の波多野福太郎(1890―1974)は1918年(大正7)に船を離れてハタノ・オーケストラを結成、東京の映画館で無声映画の伴奏をつとめ、休憩時間にアメリカの流行曲も演奏して評判になった。
1920年代に入るとダンスが盛んになり、東京や関西にできたダンスホールの楽団員たちはレコードも参考にしてジャズを研究。1923年にはバイオリン奏者の井田一郎(1894―1972)が、日本最初のプロのジャズ・バンドであるラフィング・スターズを結成している。1928年(昭和3)二村定一(ふたむらていいち)(1900―1948)の歌った『私の青空』『アラビアの唄(うた)』などが大ヒットし、以後、ジャズ・バンドを伴奏に主としてアメリカのポピュラー・ソングを日本語で歌うジャズ・ソングが流行した。そのころ法政大学の渡辺良(1903―1976)、慶応義塾大学の菊地滋弥(きくちしげや)(1903―1976)らの学生ジャズ・バンドも活躍。1929年から日本でもトーキー映画が上映され、映画主題歌のレコード発売も活発となり、ジャズとアメリカのポピュラー音楽はいっそう身近になっていった。
1934年トランペット奏者の南里文雄(なんりふみお)がホット・ペッパーズを結成して人気をよび、ディック・ミネ(1908―1991)の歌う『ダイナ』がヒット。1936年にジャズ歌手の水島早苗(さなえ)(1909―1978)が上海(シャンハイ)から帰国。1930年代末にはダンスホールや劇場でスウィング・ジャズが隆盛したが、1937年からの日中戦争の影響などで1940年10月には全国のダンスホールが閉鎖され、1941年12月の日米開戦で日本のジャズの歩みは中断された。
[青木 啓 2018年11月19日]
1945年(昭和20)8月に終戦、その年の9月には松本伸(しん)(1908―1978)のニュー・パシフィック楽団が活動開始。翌1946年6月に渡辺弘(1912―1988)のスターダスターズが発足した。こうして戦前派の人々を中心に、多くのジャズメンがビ・バップなども学びながら新しい日本のジャズの道を開いていった。1952年に来日したジーン・クルーパ・トリオの影響も大きい。1953年に空前のジャズ・ブームとなり、ジョージ川口(1927―2003)、松本英彦(ひでひこ)(1926―2000)、中村八大(はちだい)、小野満(みつる)(1929―2008)のビッグ・フォーは代表的人気グループになる。1950年代末からロックン・ロールに人気を奪われた形になったが、1960年代後半にはサックスの渡辺貞夫(さだお)、トランペットの日野皓正(てるまさ)、ピアノの山下洋輔ら若手精鋭が台頭、国際的にも高く評価されるジャズを創造し、1965年以降アメリカで活躍するピアノの秋吉敏子(としこ)は同地で1974年に楽団を結成、作・編曲・指揮者として世界的な大物となった。
1980年代に入って、ダイナミックでフレッシュなピアノ奏者小曽根真(おぞねまこと)(1961― )、作曲と編曲も手がけるジャズ歌手で酔狂座オーケストラのリーダーでもある丸山繁雄(1951― )が登場した。また、アメリカのライオネル・ハンプトン楽団のメンバーだったアルト・サックス奏者MALTA(本名・丸田良昭(よしあき)、1949― )が、ジャズとフュージョンでスターになる。1990年代には大型新人が多数出現した。とくにスケールの大きいピアノ奏者大西順子(1967― )、トランペット奏者原朋直(ともなお)(1966― )、テナー・サックス奏者川嶋哲郎(てつろう)(1966― )、ドラム奏者大坂昌彦(1966― )、前衛派でビッグ・バンドのリーダーでもあるピアノ奏者・作曲家の藤井郷子(さとこ)らは国際的にも広く知られた実力者であり、日本のジャズの前進と新たな展開の大きなパワーになっている。
[青木 啓]
『油井正一著『ジャズの歴史物語』(1972・スイング・ジャーナル社)』▽『ヨアヒム・ベーレント著、油井正一訳『ジャズ――ラグタイムからロックまで』(1975・誠文堂新光社)』▽『マーク・C・グリッドリー著、本多俊夫訳『ジャズのスタイルブック――スタイリストたちの名演に迫る』(1984・スイング・ジャーナル社)』▽『ナット・ヘントフ著、志村正雄訳『ジャズ・イズ』新装版(1991・白水社)』▽『フランク・ティロー著、中嶋恒雄訳『ジャズの歴史――その誕生からフリー・ジャズまで』(1993・音楽之友社)』▽『副島輝人著『現代ジャズの潮流』(1994・丸善)』▽『悠雅彦著『ジャズ――進化・解体・再生の歴史』(1998・音楽之友社)』▽『ラングストン・ヒューズ著、木島始訳『ジャズの本』(1998・晶文社)』▽『ロイ・カー著、広瀬真之訳『ジャズ100年史』(1999・バーン・コーポレーション)』▽『デイヴィッド・ペリー著、瀬川純子訳『ジャズ・グレイツ』(2000・アルファベータ)』▽『青木啓・海野弘著『ジャズ・スタンダード100――名曲で読むアメリカ』(新潮文庫)』▽『油井正一著・選曲『Jazz lady's vocal――CDで聞く女性ジャズ・ヴォーカリスト20人の魅力と名曲20』(1990・主婦の友社)』▽『アドリブ編・刊『女性ヴォーカル――THE EXCITING JAZZ BOOKS』(1993)』▽『岩浪洋三著『ジャズ・ヴォーカルの名唱名盤』(2000・立風書房)』▽『季刊ジャズ批評編集部編『女性ジャズ・ヴォーカル入門』(2000・松坂)』▽『村尾陸男著『ジャズ詩大全』全20巻・別巻2(1991~2010・中央アート出版社)』▽『内田晃一著『日本のジャズ史――戦前戦後』(1976・スイング・ジャーナル社)』▽『瀬川昌久著『ジャズで踊って――舶来音楽芸能史』(1983・サイマル出版会)』▽『高橋一郎・佐々木守編著『ジャズ旋風――戦後草創期伝説』(1997・三一書房)』▽『奥成達著『みんながジャズに明け暮れた――私家版・日本ジャズ史』(1997・三一書房)』
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アメリカの南部の都市ニューオーリンズで1900年頃に始まったシンコペーションと即興演奏を特色とするアメリカ黒人の音楽スタイル。黒人ミュージシャンがシカゴ,ニューヨークに移住し,北部の都会的文化の刺激を受けるとともに芸術的に開花した。1920年代には,ジャズは新しい自由な都会生活を求める若い白人都会人たちの間で新鮮なダンス音楽として人気を博し,白人のジャズ・ミュージシャンも登場して,アメリカの代表的な音楽となった。第二次世界大戦後ジャズはしだいにダンス音楽から離れ,チャーリー・パーカー,マイルス・デーヴィス,ジョン・コルトレーンらにより高度に洗練された芸術の域に高められた。
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…最近のシャンソン界では,アメリカのポピュラー・ソングがシャンソンにアレンジされて流行する現象がかなりある。その反対にアメリカでシャンソンがジャズ化されてもてはやされる場合も多い。
[種類]
シャンソンを歌手の種類とむすびつけて分類すると,つぎのいくつかに大別されるが,戦後の特色の一つとして,多くの歌手がこの分類のどれかを兼ねている。…
… 戦前,戦中の厳しい統制と弾圧がなくなったことによって解放感は大きく,流行歌では並木路子の《リンゴの唄》(1945)や笠置シヅ子の《東京ブギウギ》が大流行した。また進駐軍放送(WVTR,のちFENと改称)から流れる音楽(とくにジャズ)が与えた影響も大きかった。そして,文学,美術,演劇,映画などあらゆる分野で活発な活動が再開された。…
…標準的なブルースの定型は,A A Bの3行から成る詩を12小節に収め,各行ごとに後半でギターが歌の間に割り込む形になっている。そのギターの即興的な入り方が,即興音楽としてのジャズを生む母体になったとする学者もおり,ブルースがジャズの基盤の一つであったことはまちがいない。ミとシ(さらにソも)が,ときにブルー・ノートblue noteと呼ばれる低めの音になることに黒人音楽の特質を示す音階と和声構造はジャズの重要な素材となっている。…
…
[アメリカのポピュラー音楽]
アメリカがポピュラー音楽の一つの中心地であることは広く認められているとおりだが,この国はかつて南部に多数の黒人奴隷を抱えていた特殊事情により,先進国型と植民地型の両方のポピュラー音楽をもつこととなる。前者は,ニューヨークの音楽業界が資本主義的生産様式に従って作り出すポピュラー・ソングとブロードウェー・ミュージカル(ミュージカル),つまりアメリカでよく使われる言葉でいえば〈メーンストリーム(主流)〉音楽であり,後者は,ローカルなセミプロ的ミュージシャンが民族的基盤から生み出したブルース,ラグタイム,ジャズ,リズム・アンド・ブルース,ロックンロールなどである。上記の2種は,白人系音楽と黒人系音楽にそれぞれ当てはまるものではない。…
※「ジャズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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アデノウイルスの感染により、発熱、のどのはれと痛み、結膜炎の症状を呈する伝染性の病気。感染症予防法の5類感染症の一。学童がプールで感染して集団発生するのでプール熱ともいう。...
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