ウリ科(APG分類:ウリ科)の一年生つる草。つるには粗い毛があり、断面は菱(ひし)形で長さ7メートル余りになる。葉は互生し、長い心臓形で羽状に3~4深裂する。葉の付け根から巻きひげを出し、他物に絡みつく。花は葉の付け根に1個ずつつき、黄色で径3.5センチメートル、花冠は5裂する。雌雄同株で、5~10節ごとに雌花がつき、他は雄花であるが、品種によって両性花をつける。果実は開花後約30日で成熟する。果実には1果に400~1700、普通は700粒ほどの種子がある。種子は扁平(へんぺい)な卵形ないし長楕円(ちょうだえん)形、種皮の色は黒色から灰色、白、褐色とさまざまで、大きさも品種によりいろいろである。日本では種子は食用とされないが、中国では種子を食用とする専用品種もある。
スイカによく似たものにコロシントウリがあるが、これは苦くて食用にならず、薬用植物として地中海沿岸地域、インドで栽培される。
[星川清親 2020年2月17日]
春に種子を播(ま)き、苗をユウガオやカボチャの小苗に接木(つぎき)して育てる。これは根から入るつる割病を防ぐためである。苗は本畑に定植後、初めのうちはポリエチレンのキャップをかぶせるなどして保温する。つるは長く伸びるが、若いうちに先端を摘み取り、葉腋(ようえき)から伸び出した子づるに果実をつけさせる。
スイカは農業上は野菜に分類され青果市場では果実的野菜として扱われるが、季節はずれの温室やハウスを使った促成ものや抑制ものは果物として流通されることが多い。主産地は熊本4万8700トン、千葉4万1300トン、山形3万3700トン(2016年収穫量)で、長野、鳥取、新潟などの諸県も生産が多い。
[星川清親 2020年2月17日]
日本で栽培される品種はおおむね球形であるが、長楕円形の品種もある。果皮の色も濃緑色から緑、黄、白色など、縦縞(たてじま)模様も黒色の太いものから淡色で細いものまでさまざまで、これらが品種の特徴となっている。果肉の色も紅、黄のほか桃紅、橙黄(とうこう)、白色などがある。現在、経済的に栽培されるもののほとんどが一代雑種品種で占められ、種苗会社がそれぞれ独自の品種を販売しており、多くの品種がある。なかでも近年は、核家族化と家庭用冷蔵庫の普及に適応した小形種がよく栽培される。これは大正初期に中国から導入された品種である嘉宝(かほう)から改良されたものである。嘉宝は重さ2キログラムほどの長球形で果肉は橙黄色。かつては温室で促成栽培され、料理用、贈答用の高級果物として珍重されていた。黒部(くろべ)スイカは日本のスイカ品種のなかでも特異な品種で、長楕円形の超大果で富山県の特産とされる。そのほか、現在では経済栽培の第一線を退いた往年の名品種としては、日本のスイカ栽培の興隆をもたらした大和(やまと)3号、スイカでの一代雑種品種の草分けである新大和、果皮が濃緑色で丸形の大果として市場を独占した旭大和、戦後全国的に栽培された富研(ふけん)、それ自体では経済栽培されなかったが品種改良の親として今日の有名品種のすべてがその血を引くといわれる甘露(かんろ)などがある。
[星川清親 2020年2月17日]
日本では、種子がなかったら食べやすいであろうという発想から種なしスイカの研究が行われた。普通の二倍体スイカの双葉にコルヒチンを作用させると四倍体のスイカができる。この四倍体の花に二倍体の花粉をかけ合わせると三倍体の種子ができる。この種子は不稔(ふねん)性で、果実はできても種子はできない。これが種なしスイカである。この研究は木原均(ひとし)によって進められたもので、1947年(昭和22)にその作出に成功した。
この種なしスイカは昭和20~30年代によく栽培された。しかし、種ありスイカに比べて熟期が晩生(おくて)になる傾向がある点と、果実の肥大成長を促すためには種なしスイカの花に二倍体の花粉かけ合わせの労力がかかる点、また果形がゆがみやすいなどの点で欠点があり、栽培はほとんどなくなった。台湾では多く栽培されており、輸出もされている。
[星川清親 2020年2月17日]
起源地は、アフリカ中部とする説があるが、実はもっと南の南アフリカの主としてカラハリ砂漠とするのが正しい。この地域では二つの異なる果肉の成分をもつ野生種が自生している。一つは苦味のあるもの、他の一つは苦味のないもので、苦味のない型はこの地域の先住民サン人によって食糧および水の供給源として利用されている。一般にコロシントウリが祖先種とされているが、これは単にスイカの一つの栽培品種で、祖先種ではない。
栽培の起源は古く、エジプトでは約4000年前に古代エジプト人が栽培していたと推定される絵画が残っている。ギリシアには3000年前に、ローマには紀元初期に入った。もともとは種子を利用するために栽培されていて、果実の利用は地中海地域で発達したといわれているが、起源地ではすでに果実の利用があったとみてよい。中部ヨーロッパには17世紀に、アメリカにはヨーロッパ人の到達後、移民によって導入され、1629年マサチューセッツ、1664年フロリダで栽培された。
インドへはエジプトから中近東に伝播(でんぱ)し、ペルシアを経て渡来した。一説には海路によってエジプトから直接渡来し、その栽培は古いとされているが、陸路を通って渡来したとする説が有力で、その栽培化は比較的新しく10世紀以後とみられる。中国には中近東からシルク・ロードを経て、12世紀に西域(せいいき)に入り、西瓜の名が生まれた。日本への渡来は15~16世紀といわれているが、あまり普及しなかった。明治初期にアメリカから優良品種が導入され、奈良、和歌山両県で栽培が始められた。そして1902年(明治35)に欧米の優良品種が改めて導入され、以来奈良県を中心に全国に普及するようになった。
[田中正武 2020年2月17日]
スイカの果実は大部分が水(水分91%)で、糖質8%を含み、暑い夏空のもとで賞味するにふさわしい果菜である。可食部100グラム中に、赤い果肉のもので380マイクログラム、黄肉種で10マイクログラムのカロチンを含み、ビタミンB1およびB2をおのおの0.03ミリグラム含んでいる。また、シトルリンというアミノ酸を含み、利尿効果が高く、腎臓炎(じんぞうえん)に効くといわれ、果汁を煮つめて飴(あめ)状にしたスイカ糖は薬用にされる。種子は炒(い)って塩味をつけ、種皮をむいて胚(はい)を食べる。可食部100グラム中、タンパク質30.1グラム、脂質46.4グラム、カルシウム70ミリグラム、リン620ミリグラム、鉄5.3ミリグラム、カロチン16マイクログラム、そのほかビタミンB1・B2、ナイアシンなどを含む栄養価の高い食品である。
[飯塚宗夫・星川清親 2020年2月17日]
スイカの名は聖書にみえる。ヘブライ語でアバティアチavatiach、アバッティチムabatichim、あるいはアバティチムavatichimとつづられ、のちにアラビア語のバッティチbattichやバッテカbatteca、フランス語のパステクpastèqueに転訛(てんか)した。日本でスイカの名が初見するのは、南北朝末期に書かれた僧義堂周信(ぎどうしゅうしん)の『空華日工集(くうげにっくしゅう)』(延文4年=1359序)で、「和西瓜詩」と題した漢詩のなかに「西瓜今見生東海剖破猶含玉露濃種性不同江北枳(き)益人強似麦門冬(ばくもんどう)」とある。本格的な渡来はヨーロッパ人による。その伝播(でんぱ)は幾度かあったようで、1579年(天正7)『六部耕種法』、1627年(寛永4)『増訂武江年表(ぶこうねんぴょう)』、寛永(かんえい)の末(1640ころ)『農業全書』などと諸説がある。初期は果肉が赤く、血肉に似ているために嫌われたが、元禄(げんろく)(1688~1704)以降は普及し、『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(1712)には「貴賤(きせん)、老幼、皆嗜(たしなむ)之」との記述がみられる。果肉を取り除いた西瓜提灯(ちょうちん)は明治以降の風習とみられ、喜多村節信(きたむらときのぶ)(信節(のぶよ)、筠庭(いんてい))は『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(1830序)で、「西瓜の肉をほり取りて、中に火點(とも)す事は近きことと見ゆ」と書いた。
[湯浅浩史 2015年10月20日]
『農耕と園芸編集部編『スイカ・露地メロン――ハウス・トンネル栽培と経営』(1978・誠文堂新光社)』▽『高橋英生他著『作型を生かす――スイカのつくり方』(1985・農山漁村文化協会)』▽『松田照男編著『メロン スイカ――最新の栽培技術と経営』(2002・全国農業改良普及協会)』
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
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