スイス(英語表記)Suisse[フランス]
Schweiz[ドイツ]
Svizzera[イタリア]

改訂新版 世界大百科事典 「スイス」の意味・わかりやすい解説

スイス
Suisse[フランス]
Schweiz[ドイツ]
Svizzera[イタリア]

基本情報
正式名称=スイス連邦 Schweizerische Eidgenossenschaft(ドイツ語),Confédération Suisse(フランス語),Confederazione Svizzera(イタリア語) 
面積=4万1285km2 
人口(2010)=783万人 
首都=ベルンBern(日本との時差=-8時間) 
主要言語=ドイツ語,フランス語,イタリア語,レト・ロマン語 
通貨=スイス・フランSwiss Franc

ヨーロッパ中央に位置し,東はオーストリアリヒテンシュタイン,北はドイツ,西はフランス,南はイタリアに国境を接する連邦共和国。

面積は4万1288km2で,南北の最大幅220km,東西の最大幅350km。南部から南東部に4000m級の山々を多数かかえたアルプス山脈が走り,西部のフランス国境地帯に中生代ジュラ紀の石灰岩からなるジュラ山脈が走っている。両者にはさまれた高原地帯はミッテルラントと呼ばれ(標高350~1000m),ここに政治・経済の中心地は集中している。国土面積の比率では,アルプス山脈地帯6割,ミッテルラント3割,ジュラ山脈1割となっている。また,アルプス山脈はヨーロッパの分水嶺となっており,アルプス北側の国土面積の68%の地域に降る雨雪はライン川を経て北海に流れる。南側では国土面積の18%の地域に降る雨雪を集めてローヌ川が西方へ流れ,地中海に注ぐ。東方へ流れるイン川(ドナウ支流)は黒海へ注ぎ,国土面積の4.4%の降水量を排水する。南方へ流れるティチノ川,その他(ポー川支流)は国土面積の9.3%の降水量をアドリア海へ排水している。気候は北ヨーロッパの気候,西の海洋性気候,南の地中海式気候,東の大陸性気候の影響を受け,複雑で不順である。

人口は1995年12月現在の公式推計によれば,706万2354で,そのうち外国人居住者が19.3%の136万である。人口密度は1km2あたり176.6人で,ヨーロッパの中でも高い方である。人種的構成は5世紀のゲルマン人の大移動のときに決まり,現在まで不変である。アルプスの南側に侵入し,最も早くローマ化したランゴバルド族はイタリア語を,スイスの西部地域に入ったブルグント族はフランス語を,ライン川を渡ってアーレ川の線まで進出したアレマン族Alemannenはローマ化をまったくせず,ドイツ語を話すようになった。ゲルマン人に追われてアルプス東部山中に踏みとどまったラエティア人はレト・ロマン語を保持しつづけた。スイスは多民族多言語国家であるが,以上の四つの言語は憲法上国語と定められている。外国人居住者を含まないスイス人の使用言語別比率を1990年の調査で見れば,ドイツ語73.4%,フランス語20.1%,イタリア語4.1%,レト・ロマン語0.7%,その他1.3%となっている。主要言語すべてが国語と定められている上に,各カントンKanton(州)がカントン語を定め,各ゲマインデGemeinde(市町村)が学校教育をはじめ公的な使用語を決める自由を認められているので,スイスは〈言語の平和〉が保たれている。

16世紀の宗教改革以降スイスでも宗派間の争いは激しかったが,現行憲法では信仰並びに良心の自由が認められている。ただしカントンのレベルでは国教会の制度をとり,カントン公認教会と認められた宗派は一定の特権を与えられている。1990年の国勢調査によれば,スイス人の47.3%はプロテスタント,43.3%がカトリックで,宗教をもたぬ者6.7%,その他の宗派・宗教が1.6%,未記入者1.1%となっている。

スイスの建国記念日は8月1日である。1291年のこの日,中央スイスのウーリシュウィーツニートワルデンの3地域が〈永久同盟〉を結び,それぞれの地域の〈自由と自治〉を守るために相互援助を誓いあった。やや遅れてオプワルデンも同盟に加わり,ニートワルデンと併せてウンターワルデンと呼ばれた。ウーリ,シュウィーツ,ウンターワルデンはその後のスイス連邦形成の核となったので,総称して原初三邦(州)と呼ばれる。

ところが,この原初三邦の地域は12世紀以前にはほとんど歴史の脚光を浴びてこなかった。ローマ時代のスイスはゲルマン人に対する,ある時は防衛の,ある時は攻略の拠点であり,ゲルマン国境に向かう重要軍道も走っていた。しかし,中央アルプスには峠道がなく,軍道は走っていなかった。5世紀初頭,ローマ帝国はスイス領域から軍隊を引きあげざるをえなくなり,スイスはゲルマン諸部族の支配するところとなった。一時フランク王国の支配下に入ったが,王国の分裂後,ブルグント王国(888-1032)とランゴバルド王国(888-951)等が分立し,スイス地域は〈反抗と分裂〉の時代を送った。1032年ブルグント王国が神聖ローマ帝国の支配下に入って,全スイス領域は帝国の一部を構成し,再び,ドイツとイタリアを結ぶ交通の要路地帯となった。しかし,この場合もアルプス越えは主として東スイスの諸峠が利用されていた。

12世紀を迎えると,ヨーロッパは大きな変革期を迎える。中世農業革命による農業生産力の増大,経済交流の活発化,都市の誕生につれて人々の動きが盛んになった。こういった状況を背景に,1200年ころ中央アルプスにザンクト・ゴットハルト峠が開かれた。この峠は,ライン川沿いのドイツ主要地帯と南イタリアを最短距離で結んだ。その上,途中湖水,河川交通が利用できたので,盗賊の出没など陸上交通の劣悪な時代にあって,商人たちは他の峠越えルートより盛んに使うようになった。ザンクト・ゴットハルト峠を監視できる北側登り口,ウーリには税関が設けられ,経済的に恵まれるようになった。同時に,この地域は政治的にも重要になった。神聖ローマ皇帝がイタリア経営をするにあたっても,この峠越えルートを確保することは不可欠だったからである。それゆえ1231年ウーリは帝国直属の地とされた。近隣の封建諸侯,特にハプスブルク家の支配からの自由を保証され,平時には〈自由と自治〉の立場を享受した。シュウィーツ等近隣の地域も住民に好都合なこの立場を獲得し,1291年の〈永久同盟〉を通じ〈自由と自治〉を守りあうことになる。

 これに対して,1315年になって初めてハプスブルク家は原初三邦に武力行使をしたが,同家の精鋭騎士軍はシュウィーツの西モルガルテンMorgartenの地に敗退した(モルガルテンの戦)。勝利を獲得した原初三邦は〈永久同盟〉を強化し,外に向かってはスイス盟約者団Eidgenossenschaftを名のるようになった。次いで,ルツェルン(1332),チューリヒ(1351),グラールス(1352),ツーク(1352),ベルン(1353)が同盟に加わり,8邦同盟時代を迎える。ただし,一つの同盟関係ではなく,内容的にまったく異なる六つの同盟関係で八つの地域が結合し,すべての同盟関係に関与しているのは原初三邦だけであった。そこには中央政府的権力も組織もなく,事件が起きるごとに事件に直接かかわりのある地域だけが集まって相談をする盟約者団会議があるだけだった。この時代のスイスは神聖ローマ帝国の枠内にあって,〈自由と自治〉を維持しようとする都市と農村のきわめて緩い同盟体にすぎなかった。この同盟体がしだいに強化されていく過程がスイス国家形成の歴史となる。

 1386年ルツェルン北西のゼンパハの戦,88年グラールスの北のネフェルスNäfelsの戦でハプスブルク家の軍事介入を撃退した。1415年にはスイス側が逆襲に転じ,同家の出身地アールガウを占拠し,同家をスイスの地から追い出して,この地を諸邦による共同の支配地とした。共同の軍事行動,共同支配地の獲得は緩いきずなを強化していった。

15世紀後半から16世紀初頭にかけてスイスはさらに発展を見る。ブルゴーニュ戦争(1474-77)ではドイツ,フランス間に中間国家の形成をもくろんだブルゴーニュ公シャルル(豪胆公)を破り,一挙にスイスの存在をヨーロッパに知らしめた。この戦いに功績のあった都市フリブールゾロトゥルンは,それまで〈保護国〉扱いの従属邦であったが,正式の盟約者団の構成者となった。1499年にはハプスブルク家がスイスの失地回復を試みてシュワーベン戦争を引き起こしたが,スイス軍はバーゼルの南,ドルナハDornachに勝利を得た(ドルナハの戦)。この戦争に功績のあったバーゼルシャフハウゼン両都市が1501年に同盟に加わった。13年にはアッペンツェルAppenzellが従属邦から正式構成員に昇格し,13邦同盟が成立を見た。このころ,スイス諸邦はアルプス南側にも侵出を図った。ザンクト・ゴットハルト峠の南側進入路を押さえて,アルプス越え通商路を完全に支配しようとした。この膨張政策の結果,現在のイタリア語圏スイスの地を〈共同支配地〉として獲得した。この13邦同盟の体制は1798年まで基本的に変わらず存続することになる。

スイスの宗教改革はツウィングリ(1484-1531)の指導のもとに,まずチューリヒで行われたが,当初は完全に孤立していた。1528年ベルン,翌29年バーゼルが宗教改革に踏み切り,勢いを増した。これに対して原初三邦を中心に旧教派諸邦は同盟し,対抗したので,29年,31年の2度にわたるカッペルKappel戦争に発展した。福音主義的精神にもとづきスイス統一を図ろうとしたツウィングリは31年に戦死し,〈第2次カッペル平和協定〉で平和は回復された。カトリックに有利に現状凍結されたこの協定は第2次フィルメルゲンVillmergen戦争(1712)の結果,逆に福音主義派が有利なものに改定される。他方,カルバンによるジュネーブの宗教改革は西洋近代社会に大きな影響を与えたが,スイス史に与えた影響はツウィングリに比べた場合はるかに小さい。また,ジュネーブもベルンとは同盟関係にあったが,1815年までスイス盟約者団の正式構成員にはなれなかった。他方国外の宗教戦争には,国内の宗教的対立を激化させないために〈不偏不党〉の立場をとり,両宗派からの助力要請を断っている。三十年戦争末期の1647年に諸邦間で〈防衛軍事協定〉を結び,事実上スイス武装中立の出発点を作るとともに,連邦軍の創設により緩い同盟体を強化することにもなった。そして,三十年戦争の終結条約(1648)でスイスは国際法的に独立を承認された。74年には正式な外交基本政策として武装中立が宣言されたが,その裏では,17~18世紀の戦争の世紀を通じて各国の軍隊にスイス傭兵が働いていた。つまり,血を売ることで中立を確保する歴史が続いていた。

フランス革命の平等理念はスイスにも影響を与え,スイス革命がおきた。この革命運動をナポレオンは軍事的に援助し,1798年に〈ヘルベティア共和国〉の樹立を促した。フランスの完全な中央集権国家体制をまねたこの体制は,スイスの伝統的な地域自立主義に合わず,直ちに内乱状況に陥り,崩壊した。ナポレオンはこの内乱を調停し,新しい連邦制を付与した。その際,13邦同盟体制下で保護国,臣従地域扱いだったザンクト・ガレン,アールガウAargau,トゥールガウThurgau,ティチノTicino,ボーVaud,グラウビュンデンGraubündenに主権を与え,19地域の連邦制とした。これ以降主権をもつ地域はカントンと呼ばれる。このナポレオン調停条約下のスイスは彼の衛星国家に等しく,彼にアルプス越え軍事道路の自由使用と傭兵提供を認めていた。ナポレオン敗退後,スイスもウィーン体制下で復古時代を迎えた。その際,ナポレオン時代にフランス領とされていたジュネーブ,バレーValais,ヌシャテルの3地域が主権をもつカントンとしてスイスに加えられ,フランスとの国境が強化された。その上で,スイスの永世中立が国際法的に承認された。1815年に始まったウィーン体制下でも,しだいに自由主義,急進主義が台頭してくる。スイスでも保守派がカトリック派カントンと,新しい潮流がプロテスタント派カントンと組み,宗教的対立を含んで内乱となった。保守派が分離同盟Sonderbundを結成したので,これを分離同盟戦争(1847)といった。保守派が敗北をした結果,1848年に連邦憲法が制定され,22のカントンからなる連邦国家の誕生を見る。その後1874年に大改正をされ,現在の連邦憲法になって存続している。

第1次世界大戦ではスイスは武装中立を実施し,戦争中は経済的混乱に陥ったが,軍事的には被害なく大戦の終了を迎えた。戦後国際連盟に加入したが,連盟加入国と非加盟国の対立がはっきりすると,1938年連盟本部をジュネーブに置いたまま脱退して,完全中立に戻った。その中立は第2次世界大戦で大きな試練に遭う。ドイツ軍の破竹の勢いはスイスを完全な四面楚歌の状態に陥れ,国内でドイツに〈順応〉するか最後まで中立を守って〈抵抗〉するかの岐路に立たされた。しかし,ギザンHenri Guisan(1874-1960)将軍の指導で未曾有の戦火を武装中立によってほとんど無傷で通り抜け,〈20世紀の奇跡〉を生み,今日のスイス繁栄の基礎を築いた。最近のスイス史における世界史的できごととしては新カントンの樹立がある。フランス語を使用してカトリックの多いジュラJura地方が,ドイツ語圏プロテスタントのベルンから〈住民投票〉〈国民投票〉を繰り返して平和裏に自立したことである。この結果,1979年以降スイスは23カントンからなる連邦制となっている。

スイスは連邦制をとっているが,その連邦憲法第3条において〈諸カントンは,その主権が連邦憲法によって制限されない限り,主権を有し,かつ連邦権限にゆだねられていないすべての権利を主権者として行使する〉とうたわれている。各カントンは主権の一部を連邦にゆだねる形で,連邦を二次的に形成した。したがって,〈スイス人たる前にカントン人である〉という意識は現在でもスイスの人々には強くある。カントンの数は23であるが,そのうち三つのカントンは政治的に二分割され,それぞれに独自の憲法,政府をもち,半カントンと呼ばれている。厳密にはスイスは26のカントンの連合体と言った方が正しい。カントンは中央集権国家における地方行政単位とはまったく異なり,準主権国家である。連邦議会は国民議会(下院)と全州議会(上院)の二院からなるが,国民議会(200名構成,4年任期制)は人口比で各カントンから直接選挙(比例代表制)で選ばれる。人口117万をこえるカントン・チューリヒからは34名,人口3万4000のカントン・ウーリからは1名しか選出されない。全州議会は各カントンから2名,半カントンから1名選出され,46名構成をとる。カントン代表の性格をもち,各カントンが議員の選出方法,任期を定め,歳費もカントンの支出でまかなわれる。両院の権限は対等であり,連邦の閣僚,連邦軍隊の将官の選出等については合同で会議が開かれる。連邦内閣は4年任期の7名の閣僚から構成されるが,各閣僚は連邦合同議会によって個々に選ばれ,共同責任制の内閣を形成する。7名は七つの省の長となるが,1959年以降は2:2:2:1の比率で主要政党に配分されている。

 スイスでは直接民主政が採用されているが,有権者が議場に直接赴き,討論・議決するという真の直接民主政をとっているのはカントンとゲマインデ・レベルだけである。カントンの直接民主政はランツゲマインデ(住民集会)の形で行われるが,現在ではグラールスのほか三つの半カントンで行われるだけになっている。連邦やカントンで行われている直接民主政は国民投票(住民投票)と国民発議(住民発議)で,正確には半直接民主政というべきものである。連邦レベルでは,憲法改正,重要法律,重要な国家間協定はすべて国民投票で最終的に決定される。そのほか議会を通過した一般法律でも,90日以内に5万人の有権者の要求があった場合には国民投票に決定をゆだねなければならない。憲法改正と重要な国家間協定の場合に国民投票の賛成を得るには,投票総数の過半数だけではなく,同時にカントンの過半数の賛成を得る必要がある。また,有権者10万人以上の要求があれば,国民発議も認められている。

 しかし,1981~94年の10年間は(半)直接民主政,とくに国民発議が成果をあげた時期であった。34件の国民発議が国民投票にかけられ,その内の5件が採択されている。たとえば1987年の湿原保護,90年の原子力発電所の新規建設10年間中止をめぐる国民発議などがある。政治の効率は悪いけれども,スイスの(半)直接民主政は国民の立場に立った政治を行っているといえる。

 スイスでは,世界的に見て非常に遅く1971年に女性参政権が承認されたが,その後の女性の権利の進展は目を見張るものがある。81年に男女同権条項が連邦憲法に盛り込まれ,85年には夫婦平等法が国民投票で54.7%の賛成を得て採択された。国民議会の女性議員の数も1971年にはわずか11名であったが,95年には43人(21.5%)になっている。また,全州議会では95年に46人のうち8人(17.4%)となっている。カントン議会でも女性議員の進出は著しく全カントンで見た場合その20%を占める。

スイスは1815年のウィーン会議で国際法的に承認された永世中立の立場を維持し,国際連合に加盟しなかったが,2002年加盟した。ただしそれ以前にも国連の多くの専門機関やその他の国際機関に加盟し,国際協力を積極的に果たしている。ヨーロッパとの関係については,スイスは1960年にヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加入し,1973年には拡大ECと自由貿易地域協定を結び,工業製品に関する自由貿易圏を形成し,貿易の振興を図った。その後ECは経済・通貨統合と共通の安保・外交を目標にヨーロッパの一体化を進めるEU(ヨーロッパ連合)の結成に向かうが,スイス政府は永世中立政策の放棄を求めない〈ヨーロッパ経済地域〉構想の実現に奔走した。しかし,スイス国民は12月に行われた国民投票で〈ヨーロッパ経済地域〉への参加を否決してしまった。政府はEUとの段階的統合を考えはじめているが,これも現在のところきわめて困難な状況にある。

スイス連邦憲法第13条は連邦が常備軍を保持することを禁じ,各カントンに対しても憲兵隊を除き300名以上の常備軍をもつことを禁止している。他方18条は国民皆兵制を義務づけている。スイスの国防の特色は原則的に常備軍を保持せず,明確な民兵制にある。国防の第2の特色は徹底した民間防衛の思想とその制度にある。《民間防衛》と題する書物を家庭に配り,平和時,戦争時,占領下の国民の対応・心構えを説いている。大規模な地下避難所の建設,民間防災の組織作りも積極的に行われている。

スイスの産業は自然条件に大きく左右されている。耕地は全国土の6.5%しかないが,国内消費に占める自国産の比率(1994)はジャガイモ94%,穀類58%である。一方,牧場,牧草地は国土の46%を占め,国内消費に占める自国産肉類の比率は81%,ミルク97%,砂糖42%,等となっている。労働人口に対する農業人口の割合は約4%(1995)で,小規模農業であるため国際競争力はない。しかし,戦争時のための備蓄と食糧生産維持という国防上の観点から農業は厚く保護されている。工業部門では原材料を輸入し,最大限の付加価値をつけて輸出するため高品質製品,高級品の製造に努力が傾けられている。

 貿易額における主要商品の割合(1995)は,輸出では機械・電子工学機器28.5%,化学製品(薬品)25.0%,精密機械・時計19.2%,金属・機械部品8.8%,その他となっている。逆に輸入では機械・電子工学機器21.7%,化学製品(原材料)13.7%,車輌11.2%,金属製品9.4%,精密機械・宝石9.3%,等である。スイスの唯一のエネルギー資源は水力発電であったが,現在では発電能力も限界にきて,原子力発電が利用されている(原子力発電量は総発電量の39%(1995)を占める)。しかし,総エネルギー消費の6割強は原油の輸入に依存しているのが現状である。国内に重要資源がなく,また食糧自給ができないにもかかわらず,1993年以降には貿易収支は黒字に転じている。国際収支の上では貿易外収支の資本収益,種々のサービス業収入のほうがはるかに高額である。しかし,外国人労働者や隣国からの通勤者が送金あるいは持ち帰る報酬を含めた移転収支の赤字額は貿易収支の黒字額の3倍にもなっている。94年の経常収支は248億スイス・フランの黒字となっている。日本との貿易関係は緊密で,スイス側から見て日本は総輸出額に占めるシェアは4.0%で,貿易相手国中第6位を占め,総輸入額では3.2%で,第9位を占めている(1995)。貿易バランスは最近はスイス側の出超となっている。

スイスはヨーロッパの交通の十字路にあたり,特にアルプス越えの主要な峠は古くから重要な役割を果たしてきた。地形の関係上交通路の建設・維持は現在もなお多大の労力と出費を必要としている。鉄道交通の開始は1844年にフランス国境からバーゼルまでの間2kmをフランスの鉄道が乗り入れたのが最初だが,スイス国内の鉄道の最初は47年にチューリヒ~バーデン間23kmの開通である。98年に国有鉄道(SBB)が設立されて,鉄道網の合理的拡張が推し進められた。総延長5000kmのうち2000km強が私鉄であるが,スイス国内を網の目のようにおおっている。スイス鉄道の特徴はすぐれた私鉄が多数あることと地理的悪条件を克服する技術(アプト式やケーブル式鉄道の開発,電化)の水準が高いことである。自動車道路網の発達につれて,1971年より経営は苦しくなって赤字となっているが,〈鉄道2000年〉計画による高速化が進められている。高速自動車道路網は1830km強を計画中で,94年末までに1533km完成し,隣接国の高速自動車道と接続している。1980年には16.3kmの長さを誇るザンクト・ゴットハルト・トンネルも完成し,ドイツ,イタリア間を容易に結ぶことになった。民間会社が建設したサン・ベルナール・トンネル(1967開通,6.6km)を除いて,高速道路は年間40フランの使用料を払えば無制限に利用できる。交通路として湖沼,河川もスイスでは重要であるが,輸入商品の輸送手段としてライン川は特に重要な水路である。

 ヨーロッパ各地で産業革命が進展し,人々の生活にゆとりができると,自然美に対する情感がめざめて旅行が流行しだした。多種多様な自然美と古城や都市といった歴史的景観に富んだスイスには19世紀以降多くの旅行者が訪れた。中世では妖怪が住むと恐れられていた高山が登山やスキーの対象となるに及んでスイスの観光産業は発達をみた。

スイスの社会保障制度は国家体制の成立ちに密接に関係して複雑で,連邦だけではなく,カントンやゲマインデがそれぞれ独自の対策や措置を講じている。また民間ベースの社会保障的制度が発達しているのが特徴である。老齢・遺族保険制度は1946年に連邦法として制定され,国民投票を経て48年から発足した。これは強制加入の一般国民保険で,職業の区別なく全国民が唯一の保険に加入させられている。疾病・災害保険は1911年の連邦法で定められ,災害保険は一定職種の企業の被用者を被保険者とする強制加入保険である。農業,家内工業の従事者には免除されるが,カントンで強制加入をする被用者災害保険やその他の災害保険もある。疾病保険は個人保険のたてまえですべて非強制保険であるが,カントンによっては強制加入制度がある。全体として,加入率はきわめて高い。失業保険は連邦政府が認可し,カントン,ゲマインデが作る公営金庫と労働組合が単一で,または労働組合と被用者合同で作る民営の金庫がある。

 教育制度も地方分権の精神が貫かれ,教育主権は各カントンにある。したがってカントンごとに学校制度,カリキュラム,教科書,教育年限などは異なっている。しかし,経済活動の活発化にともない家族を含めた人口移動が近年は激しくなり,子女の教育に不都合が生じてきたので,調整されるようになった。例えば,義務教育は6歳からはじまり,9年間で完了されるようになった。しかし,小学校の期間は3~6年制の幅があり,それに応じて中学校の教育期間も異なる。中学校の1~2年に観察指導期を設けて,将来の進路決定をするシステムを採る州があるが,一般には大学進学コースの普通中学校と実業中学校に分かれる。高等学校の段階はさらに多数の進路(大学進学コースの普通高校(4年制),教員養成進学コースの高校(4年制),資格を得るための商業高校(3~4年制),職業専門教育に進む一般教育(1~3年制),各種実業学校(1~4年制))に分かれ,最終教育機関は大学,教員養成学校,高等技芸学校および職業専門学校となっている。11科目の試験を受けて普通高校の卒業資格を得れば(現在卒業資格制度の見直し中で,2003年までに各カントンで9科目の試験科目になる予定),無試験で大学に入学できる。大学はカントン立の総合大学としてバーゼル(1460創立),ベルン(1834),チューリヒ(1833,以上ドイツ語地域),フリブール(1889),ジュネーブ(1873),ローザンヌ(1890),ヌシャテル(1909,以上フランス語地域)があり,また経済,法学,社会科学部門だけをもつカントン立のザンクト・ガレン大学がある。そのほかには連邦立工科大学がチューリヒ(1855)とローザンヌ(1969)にあり,ルツェルンに神学大学,ザンクト・ガレンに教員養成大学があるだけである。1995/96年の学生数は8万8243で,そのうち女子学生が41.8%で,外国人の割合は19.9%である。

ドイツ,フランス,イタリア言語・文化圏に囲まれ,それらの一部を担うスイスは完全に自立した意味でのスイス文化を語ることは難しい。スイス国内の言語圏の交流よりも国境の向こう側に広がる同じ言語・文化圏との共通性が強いからである。芸術家・文学者が世に認められる場合,まず同じ言語・文化圏で認められ,次いでスイス国内にその反響がもどり,他の言語・文化圏でも知られることになる。

言語活動である文学の場合はスイスの国民文学を語ることはできず,ドイツ文学やフランス文学の枠内で語られるのが常である。ドイツ系文学の中では18世紀の啓蒙主義時代の代表者としてA.vonハラーがいる。彼はアルプスの山岳美をうたった《アルプス》(1729)において詩の分野で大きな影響を与えた。19世紀には3名の偉大な小説家が活躍した。自伝的教養小説といわれる《緑のハインリヒ》(1854)を代表作にもつG.ケラーは公民倫理を備えた現実生活を巧みな筆致で描き,19世紀の第一級の作家と位置づけられている。C.F.マイヤーは叙事詩《フッテンの最後の日々》(1871)や《ペスカラの誘惑》(1887)等の歴史小説にすぐれた作品を残している。J.ゴットヘルフはスイス農民の世界を描いた多くの作品を残している。日本だけでなく,広く世界の少年少女に愛読されている《ハイジ(アルプスの少女)》(1880-81)の作者J.シュピーリも19世紀の女流作家で,女ケラーと呼ばれている。現代では代表作《ホモ・ファベル》(1957),《日記》(1972)で知られるM.フリッシュと代表作《老貴婦人故郷に帰る》(1956)をもつF.デュレンマットの2人の劇作家が世界的に有名である。特にデュレンマットは時代と社会の状況を風刺的に描いた喜劇を得意としている。フランス語系スイス作家も少なくないが,ドイツ語系のハラーに対応する人物に《アルプス旅行記》(1779-96)を書いたド・ソシュールHorace Bénédict de Saussure(1740-99)がいる。ジュネーブ出身のJ.J.ルソーH.F.アミエルもフランス語系スイス作家を語るとき忘れてはならない。20世紀の代表作家としてはフランス語圏スイスの農民生活を書いたC.F.ラミュが注目される。
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スイスの音楽はその地理的条件から二様の意味で規定されている。第1にヨーロッパの分水嶺としての位置から,ドイツ・オーストリア,フランス,イタリアの影響を受けながら総合をもたらしていること。第2は山国という自然の要塞としての住居が民俗音楽の伝承を比較的安泰に守り,アルペンホルンヨーデルなど,アルプスの音楽習俗を今日に保っている。

 中世のスイスはフランス,イタリア(ミラノ)の典礼から影響をうけ,北東部ザンクト・ガレン修道院で独自の貢献を教会音楽,特にセクエンティアの領域でなした。その作詞を行ったノトケル・バルブルスNotker Balbuls(840ころ-912)が知られている。その後もアインジーデルンEinsiedeln,エンゲルベルクEngelbergなどの修道院が音楽においても拠点だった。16世紀にはバーゼルに理論家グラレアヌスが活躍する。ツウィングリとカルバンを輩出したスイスの宗教改革は,音楽にも重要な影響を及ぼした。近世になるとフランス・スイスではJ.J.ルソー(音楽家としてもオペラ・コミック《村の占い師》などが重要),フリッツGaspard Fritz(1716-83,バイオリン曲),ドイツ・スイスではシュニーダー・フォン・ワルテンゼーXaver Schnyder von Wartensee(1786-1868,交響曲)などがいるが,全欧的な意味の創作活動はなされていない。19世紀のスイスは演奏と教育の面で充実期をもつ。特に合唱文化の水準は当時から高かった。20世紀は両大戦の禍を免れたスイスに人材が集まり,経済的繁栄もこれに伴って文化水準は高く保たれている。作曲ではドイツ・スイスのロマン的作風のシェックOthmar Schoeck(1886-1957),ドイツ系から出てフランス六人組の重要な一人となったオネゲル,そしてフランス・スイスのすぐれた感覚を代表するF.マルタンら。演奏ではスイス・ロマンド管弦楽団を率いたアンセルメ,バーゼルで現代音楽の擁護に力のあったザッハーPaul Sacher(1906-99)などが活躍。ソリストとしては現在オーボエのH.ホリガー,テノールのE.ヘフリガー,ソプラノのE.マティス,そしてフルートにJ.P.ランパル,A.ニコレなど多くの名手がいる。
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スイスの美術は他の文化領域と同様,ドイツ,フランス,イタリアの3国から多かれ少なかれ影響を受けており,1648年にスイス連邦として独立を承認されてからも,独自の国民様式はもちえないままに今日に至っている。しかしこのことは,スイス美術が独創性を欠いた折衷主義的なものであったことを意味するわけではなく,時代に応じて注目すべき芸術家も少なからず生まれている。ただスイスは特にルネサンス以後,美術には冷淡であったカルビニズムの牙城であったことや,美術のパトロンとなる富裕な階層や公共体に恵まれなかったこともあって,外国で活躍したスイス出身の芸術家が少なからずいたことは事実である。

 中世初期のスイス美術の基礎を築いたのは,6~7世紀に各地に創設された修道院で,現存する最古の遺構としてはリバ・サン・ビターレRiva San Vitaleの洗礼堂(500ころ)がある。スイスのロマネスク美術で最も重要なのは,12世紀前半のツィリスZillisのザンクト・マルティン教会とその天井画である。12~13世紀にはフランスの影響下にクール,ローザンヌなどにゴシック様式の大聖堂が建てられた。また,1320年ころチューリヒで生まれたいわゆる《マネッセ歌謡写本Manessische Liederhandschrift》が中高ドイツ語による世俗的詩と写本画の貴重な作例とされる。

 ルネサンス時代のスイスはカルバンを中心とする宗教改革の時代であり,同時にバーゼルを中心として人文主義や学芸の新しい波もおこりはじめた。ジュネーブを中心に活動したK.ウィッツは,その力強いリアリズムにより後期ゴシックとルネサンスをつなぐ重要な画家である。16世紀にはN.マヌエルU.グラーフ,ロイHans Leu(1490-1531)などの個性豊かな画家,版画家が出現し,ドイツ人ハンス・ホルバイン(子)もバーゼルで重要な作品を残している。スイスのバロック美術は他のヨーロッパ諸国と同様,カトリック系の教会,修道院によって代表され,特にザンクト・ガレン修道院,バイエルン出身のアザム兄弟が18世紀中ごろに内部装飾を手がけたアインジーデルンの修道院などが知られる。また,イタリア・バロック建築に重要な貢献をしたF.ボロミーニ,D.フォンタナも元来はスイス生れである。画家としては都市の景観を版画化して今日なお人気のあるメリアンMatthäus Merian(1593-1650),パステルの名手リオタールJean-Étienne Liotard(1702-89),肖像画家のグラッフAnton Graff(1736-1813),女流画家カウフマンなどがいるが,いずれも生涯の大半は外国ですごした。チューリヒ生れのフュッスリもイギリスで活躍したが,前期ロマン主義の重要な画家である。

 18~19世紀にかけて,スイスの自然(とりわけアルプス)を清新な感性でとらえるウォルフCaspar Wolf(1735-98),カラムAlexandre Calame(1810-64)をはじめとする風景画の一派を生んだが,ヨーロッパ絵画史上重要な地位を占めるのはA.ベックリンF.ホドラーで,世紀末の象徴主義的,反印象主義的傾向を代表する存在となった。セガンティーニはイタリア出身であるが,その生涯と芸術とはスイス・アルプスと切りはなすことができない。そのほかC.グレール,F.É.バロットン,T.A.スタンランなどの個性的な画家も出たが,いずれもフランスで活躍した。20世紀のスイス美術を代表するのは画家のP.クレー,彫刻家のA.ジャコメッティ,建築家のル・コルビュジエらであるが,彼らもまた主としてドイツないしフランスで活動した。20世紀初頭のダダは,1916年チューリヒに発したが,これに直接名を連ねたスイス人は女流画家・彫刻家トイバー・アルプSophie Taeuber-Arp(1889-1943)のみである。その他の現代スイスの代表的芸術家としては,抽象画家でバウハウスの教師となったJ.イッテン,〈コンクリート・アート〉の提唱者の一人ビルMax Bill(1908-94),抽象彫刻のJ.ティンゲリー,ケメニーZoltán Kemeny(1907-65),具象彫刻のブルクハルトCarl Burckhardt(1878-1923),建築では,バーゼルのアントニウス教会(1926-28)で知られるモーザーKarl Moser(1860-1936)などがいる。
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コスモポリタン的文化の背後にはいかにも民衆的な民俗行事がスイスには多数残されている。厳しい冬という悪魔を追い出し,春を迎える行事としては,バーゼルのファスナハトFastnacht(カーニバル)やチューリヒのゼクセロイテンが有名である。前者は薄気味悪い仮面をつけ,独特のリズムの鼓笛隊の音につれて一晩中仮装行列の行進をする。後者は中世以来の職業組合〈ツンフト〉の仮装行列をした後で,冬のシンボルである雪ダルマのわら人形を焼き払う4月の行事である。そのほか農民の生産や牧人の飼育にかかわる祭り,建国や歴史的事件を記念する祭りが多数ある。その折には地域ごとに異なるさまざまな民族衣装を着飾って,アルペンホルンの演奏や民族舞踊がくりひろげられたり,スイス特有の運動競技も行われる。日本の相撲にそっくりなシュウィンゲンSchwingen,10~40kgの石を砲丸投げのように投げる石投げ,田舎ゴルフともいわれるホルヌスHornussなどが好んで行われている。
執筆者: 民俗音楽では,斜面に曲がって生えた樅の木をくりぬいて作るアルペンホルンと,峰から峰へ届く牧童の合図の歌声を起源とするヨーデル歌唱がスイスを代表するものといえる。アルペンホルンの製作には現在20人あまりの専門家が残っており,中部スイスでは同好者の集いも多い。ヨーデルのクラブは村や町に多く分布しており,民族衣装と舞踊の伝承ともつながって,今なお盛んである。特にアッペンツェル地方のものが有名。ほかに民俗楽器としてハックブレットHackbrett(打弦式箱型チター)があり,弦楽合奏にも加わる。アコーディオンの大型のシュウィッツァーエルゲリSchwyzerörgeliはダンス音楽に広く用いられている。スイスの民俗音楽はファスナハトなどの行事で特に盛んで,有名なのはバーゼルとルツェルンである。観光用のアトラクションと化する傾向は,経済的な自足度が高かったため比較的抑えられており,各地の伝承も固有のバラエティを保っている。
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百科事典マイペディア 「スイス」の意味・わかりやすい解説

スイス

◎正式名称−スイス連邦Schweizerische Eidgenossenschaft/Confederazione Svizzera/Swiss Confederation。◎面積−4万1285km2。◎人口−814万人(2013)。◎首都−ベルンBern(13万人,2011)。◎住民−ドイツ系,フランス系,イタリア系など。◎宗教−プロテスタント47%,カトリック43%など。◎言語−ドイツ語64%,フランス語19%,イタリア語8%,レト・ロマン語0.6%が公用語。◎通貨−スイス・フランSwiss Franc。◎元首−大統領,シモネッタ・ソマルーガ(2015年1月就任,任期1年)。連邦評議会(内閣)を構成する7名の中から輪番制で選出。◎憲法−1874年5月制定,1971年(婦人参政権),1979年(ジュラ州発足),1981年(男女平等),1999年(労働者のストライキ権)など改正。◎国会−二院制の連邦議会。全州議会(定員46,任期4年,選出方法は各州の定めによる),国民議会(定員200,任期4年,比例代表制による)。最近の選挙は2014年3月。◎GDP−4885億ドル(2008)。◎1人当りGDP−5万7230ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−3.9%(2002)。◎平均寿命−男79.7歳,女84.4歳(2008)。◎乳児死亡率−4‰(2008)。◎識字率−99%以上。    *    *ドイツ語ではシュワイツSchweiz。ヨーロッパ大陸中央部の連邦共和国。〔自然・住民〕 北西部のフランスとの国境をジュラ山脈が走り南部にはアルプス山脈が広がる。最高点はイタリアとの国境にあるモンテ・ローザ山(4634m)で,ユングフラウ,ワイスホルン,マッターホルンなどの高峰がある。中央部は標高500〜1000mの波状の丘陵地帯で,肥沃な氷河期の堆積物におおわれる。ロイス川とアーレ川が流れ,レマン湖をはじめ湖が多い。気候は概して温和であるが,標高差による変化が著しい。〔経済・産業〕 大部分が山地で耕地が少なく,牛,豚の牧畜が盛ん。主要農産物は小麦,ジャガイモ。水力発電が進み,精密機械・時計・繊維・化学工業が発達しているが,近年労働者が不足しており,外国人労働者が多い。総人口の約2割が外国人定住者で,ほかに越境通勤者や季節労働者も多く,総労働人口の2割を外国人が占める(2005)。2000年9月全人口に占める外国人の数を18%以内に制限するか否かの国民投票が行われ,反対多数で否決,排外主義の動きに歯止めがかかることとなった。アルプスを中心とする観光収入も国の重要な財源の一つ。社会保障制度が整っている。EFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)の加盟国であるが,EFTAとEUとでつくる共同市場EEA(ヨーロッパ経済領域)への参加は,1992年の国民投票で否決された。国連加盟が2002年3月の国民投票で採択され,有権者の55%の賛成を得て承認され(190番目の加盟国),スイスは〈制限中立〉(軍事制裁には加わらない)の道を歩みはじめた。〔政治〕 それぞれ主権を有する26の州(カントンおよび半カントン)からなる連邦共和国。現行憲法は1874年制定,軟性憲法で数十回の改正を経ている。直接民主主義の伝統があり,国民投票がひんぱんに行われる。永世中立政策をとり国際連合にも非加盟であったが,2002年3月,憲法改正を国民投票で可決し,同年9月国連に加盟した。武装中立で,義務兵役制による軍隊をもつ。各種国際機関の本部が置かれている。婦人参政権の可否を問う国民投票が1971年行われて可決,同年10月の選挙で初の女性議員が誕生した。〔歴史〕 古くローマ帝国の属州で,のちゲルマン諸族の支配下に入った。中世には神聖ローマ帝国の直轄領だったが,13世紀末からウーリ,シュウィーツ,ウンターワルデンの3州を中心として独立運動を開始,モルガルテンの戦ゼンパハの戦に勝った。その間に同盟州もふえ,1388年実質的に独立,1648年ウェストファリア条約で正式に独立が認められた。1815年ウィーン会議で永世中立が国際的に承認された。
→関連項目経済連携協定サン・モリッツオリンピック(1928年)サン・モリッツオリンピック(1948年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「スイス」の解説

スイス
Switzerland

ヨーロッパ中部のアルプス山中にある連邦共和国。首都ベルン
鉄器時代からケルト人が居住し,カエサルに征服されてローマ領となった。4世紀ごろからキリスト教が広まり,中世にはハプスブルク家の支配下にあった。13世紀末から独立運動を起こし,1315年原初3州の特権が承認され,53年には西方の大都市ベルンも加盟してスイス自由連合は8州となり,1499年ハプスブルク家皇帝軍を破って神聖ローマ帝国からの分離が確定した。1648年ウェストファリア条約でスイス連邦として承認されたが,各州の対立が続いて国家的統一を欠き,フランス革命後の1798年にナポレオン1世の征服を許した。この経験で統一の必要性を痛感し,1815年のウィーン会議で22州からなる永世中立の独立国として列国の承認を得た。1848年に内紛が解決して連邦国家が成立。国際連盟・国際赤十字社などの本部が置かれ,しばしば国際会議の開催地となった。第二次世界大戦後も武装中立の姿勢を貫き,国際連合にも加盟していないが,多くの国際機関の所在地となっている。遅れていた女性参政権は,1959年にカントン(州)レベルで,71年に連邦レベルで承認された。1979年にはジュラ州が23番目のカントンとして自立。1996年にはレートロマンス語を第4の公用語として承認。いっぽう,対外面では1992年に国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)への加入を国民投票で採択したが,ヨーロッパ連合(EU)やヨーロッパ経済地域(EEA)への加盟は拒否したままである。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「スイス」の解説

スイス
Schweiz[ドイツ],Suisse[フランス],Svizzera[イタリア],Switzerland[英]

中部ヨーロッパに位置する22の州(カントン)からなる連邦共和国。古くはケルト人に属するヘルヴェティア人が住んでいたが,カエサルによりローマの属州となった。民族移動の結果ブルグントおよびアラマン人が侵入し,フランク王国の支配下に入った。神聖ローマ帝国はイタリアへの通路としてサン・ゴタール越えを重視し,要路の地方を直轄領としたが,ハプスブルク家が皇帝位につくやこの地方を圧迫した。1291年ウーリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデン3州(原初三州)は同盟してハプスブルクに叛き,独立運動を展開した。1316年皇帝ルートヴィヒ4世により原初三州が認められ,その後同盟州も増して53年八州同盟が成立,1499年には実質的な独立を獲得し,1648年のウェストファリア条約で正式に承認された。以後1815年ウィーン会議において永世局外中立国となり,多くの国際的機関の本部が置かれ今日に至っている。

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世界大百科事典(旧版)内のスイスの言及

【シュウィーツ】より

…スイス連邦を構成するカントン(州)およびその州都名。市の人口は1万3000(1992)。…

※「スイス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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