ストルイピン(読み)すとるいぴん(英語表記)Пётр Аркадьевич Столыпин/Pyotr Arkad'evich Stolïpin

精選版 日本国語大辞典 「ストルイピン」の意味・読み・例文・類語

ストルイピン

(Pjotr Arkad'jevič Stolypin ピョートル=アルカジエビチ━) ロシア政治家。大地主貴族の出身。一九〇六年内相、次いで首相となる。革命の徹底的な弾圧体制を整え、土地改革中心とする内政改革を強行した。(一八六二‐一九一一

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デジタル大辞泉 「ストルイピン」の意味・読み・例文・類語

ストルイピン(Pyotr Arkad'evich Stolïpin)

[1862~1911]ロシアの政治家。1906年に内相、次いで首相となり、革命の危機に際しては、弾圧政策を行う一方、他方で自作農創出を目的に農村共同体(ミール)を解体する土地改革を行ったが、暗殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ストルイピン」の意味・わかりやすい解説

ストルイピン
すとるいぴん
Пётр Аркадьевич Столыпин/Pyotr Arkad'evich Stolïpin
(1862―1911)

ロシアの政治家。富裕な地主貴族の家に生まれる。ペテルブルグ大学卒業後、内務省勤務。1906年4月内相、同年7月首相兼内相となった。革命運動の弾圧に努め、多くのテロリストを処刑したところから、当時絞首台の縄は「ストルイピンのネクタイ」とよばれるようになった。他方、革命勢力に対抗するためにはロシア社会の改革、とりわけ農業の改革が不可欠であると考え、1906年から1911年にかけて、一連の土地改革に関する法律によって農民の自由意志による共同体からの離脱と、耕地の整理・統合を奨励した。彼は農業の資本主義化を目ざし、土地を共同体的所有から個人的所有に改めることによって、農民層を革命の防波堤にし、ツァーリズム支柱にしようと考えた。この結果、1916年までに全ヨーロッパ・ロシアの農家の約4分の1が共同体から離脱し、そのなかの比較的富裕な農民は資本主義的経営を行って、ロシアの穀物生産と輸出を増大させた。しかし他方では、その結果、農民が富農と貧農とに階層分化し、従来の地主貴族と農民との対立に、新たに富農と貧農との対立が付け加わることとなった。1911年キエフ(現、キーウ)で狙撃(そげき)され、死去。

[外川継男]

『保田孝一著『ロシア革命とミール共同体』(1971・御茶の水書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ストルイピン」の意味・わかりやすい解説

ストルイピン
Stolypin, Pëtr Arkad'evich

[生]1862.4.14. ドイツ,ドレスデン
[没]1911.9.18. ロシア,キエフ
ロシアの政治家。ペテルブルグ大学卒業後内務省に入り,サラトフなどの県知事を務めたが,農民運動鎮圧の手腕を買われて,1906年3月内務大臣に就任。第1国会で政治的才能を認められ,国会解散後に首相となった。以後 5年間,首相の座にあって革命運動の弾圧に辣腕をふるい,絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた。また 1906年農業改革(→ストルイピンの農業改革)を行ない,農民の農村共同体からの離脱と土地の私有を認めることを意図し,一連の法律案を公布して農業の資本主義化を促した。1907年6月に第2国会を強制的に解散させ,選挙法を改正して選挙資格を制限し(6月16日のクーデター),第3国会を難なく乗り切り,反動的な安定期を出現させた。1911年9月14日,キエフで観劇中に狙撃されて致命傷を負い,その後死亡。

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世界大百科事典 第2版 「ストルイピン」の意味・わかりやすい解説

ストルイピン【Pyotr Arkad’evich Stolypin】

1862‐1911
帝政ロシアの政治家。名門貴族出身でペテルブルグ大学自然学部を卒業し,1884年から内務省に勤務。1902年グロドノ県知事となり,03年2月から06年4月までサラトフ県知事。これら西部諸県での活動は,政府の目をひき,かつ彼の後の政策に大きな影響を与えた。06年4月ゴレムイキン内閣の内相に就任し,ロシア最初の国会運営で手腕をみせ,同年6月,解散と同時に首相となった。07年3月に召集された第2国会が急進的であったので,6月3日,彼は国会を解散させ,同時に選挙法を改悪して,いわゆる6・3体制を確立して1905年の革命にとどめをさした。

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百科事典マイペディア 「ストルイピン」の意味・わかりやすい解説

ストルイピン

ロシアの政治家。大地主貴族出身。第1次ロシア革命期の農民鎮圧で手腕を認められ,1906年内相,次いで首相。革命運動弾圧と土地改革(共同体解体と自作農創設など)を軸とする内政改革を強行して帝政支持層の拡大を図ったが,のち皇帝・右翼地主層と対立,暗殺された。
→関連項目十月詔書

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ストルイピン」の解説

ストルイピン
Pyotr Arkadievich Stolypin

1862~1911

ロシアの政治家。名門貴族の出身。ペテルブルク帝大卒業後,官途につき,サラトフ県知事を務めたのち,1906年4月に内相,7月に首相(在任1906~11)となった。1905年革命後の再建の主役として,共同体解体の土地改革を軸とする内政改革を推し進めた。しかし,改革は難航し,皇帝・右翼地主派との対立が深まり,ついには警察のスパイに暗殺された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ストルイピン」の解説

ストルイピン
Pyotr Arkadievich Stolypin

1862〜1911
ロマノフ朝末期のロシアの政治家
1906年内相,ついで首相(在任1906〜11)。選挙法を改正して労働者・農民を圧迫。また,土地改革により,ミールを解体し,自作農を育成して革命を防止しようとしたが,1911年キエフで暗殺された。

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世界大百科事典内のストルイピンの言及

【ドゥーマ】より

…第1国会がたった70日で解散されたのは,国会が私有地の強制収用を問題にしたからであった。明治初年に身分制が廃止され,農地の私的所有権が確立された日本とは異なり,ロシアでは農村共同体(ミール)を解体し,小分割地農民を創出することが1907年に始まるストルイピンの改革の課題であり,ロシア社会のブルジョア的改革の第一歩であった。 ツァーリズムは第2国会をも解散し,選挙法をさらに改悪し,第3国会と第4国会の選挙を挙行するが,その結果,カデットより右派のオクチャブリストが中心勢力になり,国会議長もこの党から出た。…

【ロシア革命】より

…181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。…

【ロシア帝国】より

…しかし19世紀に入ると農奴の人口比は低下し(1858年にヨーロッパ・ロシア総人口の38%),法的にも領主権に制限が加えられ,農奴解放への模索が続き,1861年これが実現した。 19世紀後半には人口増加で農民の土地不足が深刻化し,農業危機がおこり,20世紀に入ってストルイピンの農業改革が行われた。農村の人口過剰はシベリアなどの辺境や国外への大量の移住のほか,農村工業と出稼ぎによってもある程度緩和された。…

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